数理の感情
太宰治の「ア、秋」を読んでインスピレーションを得ました
近ごろの若者は、まるで自身の存在に対して、余白のまま一冊を閉じるような選択を好む。
自分の人生に対する注文も、子どももいらず、相棒もいらずと来たもんだ。
普段から何を考えているのかわからない、と言われる。
そのために、かつての若者である私が、これを残している。
これは、私という存在の影が記した、ひとつの思考の化石である。
昨日か一昨日かに残した走り書きによると、こう書いてある。
漫画のタイトル回収は最終回じゃなく、最終回の一つ前が至高、と。
なんだそれは、と思うかもしれない。
昨日の僕についてだけの話だが、恐らく未知の生物が押し寄せる漫画でも読んだのだろうが、文字通り、最終回の一つ前で表題の意味がわかるのだ。
それでは最終回はどうしたものかというと、その表題への答えなるものが副題に挙げられている。
他にもある。
推しの部屋の壁になりたい。
深夜二二時から五時までは割増料金だが、そこまで気にすることではない。
適当に検索して出てきた短編詩的小説が面白い。
人生設計などという立派なものは平成の時代に置いてきたのである。
その場その場しのぎの衝動にあてられて、コインを投げるように行く道を決めている。
この日記もどきのファイルを開く度に、知らない過去の自分が言葉を刺してくる。
そう言えば、「コインを投げる」で思い出したが、僕がたわけになる前、つまり学生なるものをやっていたときのこと。
講義中に出てきた二次元と三次元のランダムウォークの挙動の違いを見て感心したことがある。
というのも、多次元のほうが原点に戻って来る確率が著しく低いのだとか。
言ってしまえば再帰的かそうではないかの話であるが――その姿が、なぜかたまらなく切なくて、痛いほど愛しくなって来た。
結局のところ我々が生きる十一次元の世界では、もう戻れない場所もあるということか。
おそらく、それが「数理の感情」ってやつなんだと思う。
数理は、意外とずる賢い。
まだ殆どの個体が同じ惑星に住んでいる文明で、その生物が証明しただの間違いがあっただの言い合いしているのに、数理はことごとく整然としている。
整数にしてみれば素数は無限だし、サイン・コサインといえばタンジェントだ。
なぜか完全数の約数の和には一定の規則があるし、証明不可能な命題があることを示す命題も存在している。
数理とは、普通を装ったまま我々の内奥に棲む、理性と狂気の二重写し。
自分くらい炯眼(けいがん、と読むらしい)の修士卒になれば、その姿も見抜ける。
サボりたい日がランダムに半数あるように見えて、実は中だるみが起こりやすい水曜日が明確に頻度が高い。
ランダムに百回コインを投げたからと言って、それがちょうど半数半数になる確率は一割もない。
みんなが「数理は手こずる」というのを見ると、ちょっと不憫になる。
なぜなら、数理はそこに鎮座しているだけなのだから。
ファイルには他にも、どうしてその考えが浮かんできたのか、つぶさにはわからない書き殴りがあった。
血液型とMBTI、後者のほうが種類あってまだ信用できる。ああ、これは場合の数だ。
今日の競馬には乗らなかったから逆に儲かった。おお、これは負の数同士の掛け算だ。
これは、知に触れながらもなお、無知の岸辺を彷徨う者の定めなのだと、自嘲したい。
他のファイルには、こんなものもあった。
木漏れ日が地面を照らしている。これは自己相似的な話。
なぜトーストと猫はその方向に落ちていくのか。これはオカルト――に見せかけた落下運動と初期条件の問題。
書いたときのことは、はっきり覚えてる。
でも、なぜその模様を見てそんな言葉を書いたのかは、もうわからない。
たぶん、ものすごく苦しかったんだと思う。だけど、今は言わない。
また別のページにはこうある。
月はなぜいつもその顔を見せるのか。
秋の夜空に照る月って、寂しい。
昔の人は風流と言ったらしいが、自分にはそうは思えない。
その月にかかっている雲だって、結局は地球のものなんだから。
まるでいつも同じ顔を向けてくる、距離感の掴めない友人もどきのようだ。
そして、最後の行にはこう書いてあった。
明日出会う短編小説は、今日のより興味深いだろうか。
数理とは関係ない気もするが――でも、そんなことすら「数理の感情」と呼べるのかもしれない。