空を見よ、野の花を見よ。
私は残業をしていた。
会社の蛍光灯が放つ青白い光が、私の疲れ切った顔を冷たく照らしていた。
ディスプレイに広がっているのは、売上目標、達成率、来期の計画が詰まったエクセルシートだ。
それらがまるで私を嘲るように、画面上で数字たちが踊っていた。
「不十分だ。もっと詰めろ。」
上司の声が、耳の奥で執拗に響き続ける。
この一ヶ月、何度同じような言葉を何度聞いただろう。
ふと、時刻を確認すると、もう午後十時だった。
この深夜でも、室内灯の明かりがオフィス全体を照らし、まるで私を見張っているかのように光り輝いていた。
翌日の出張のための資料も、まだ仕上がっていない。
でも、もう目が滲んで、画面の文字が霞んで見える。
頭が重く、思考が鈍る中、深いため息が自然と漏れていた。
結局、私は今日も終電間際まで残った。
そして、駅に駆け込むようにして電車に飛び乗った。
揺れる車内で、スマートフォンの画面を開く。
未読メールが三十件を超えていた。
家に帰り着いたのは、午前零時を回っていた。
朝一番の新幹線に乗るため、スーツケースに適当に荷物を詰め込む。
何を入れているのかさえ、意識が朦朧としてよくわからない。
ただ、機械的に手を動かしているだけだ。
明日は、地方支店での会議だ。
数字の見直しと、新しい目標設定。
悶々とした気持ちを抱えたまま、私は床に就いた。
◇
朝五時、アラームの音で目が覚めた。
窓の外はまだ暗く、街灯の明かりだけが冷たく輝いていた。
私は急いで身支度を済ませ、暗い街を駅まで歩いた。
歩いていると、吐く息が白かった。
寒気が骨まで染み込んでくるかのようだった。
自宅からの最寄駅に着いた。
通勤ラッシュより前の時間である電車に、乗客の姿はなかった。
ふと、私は見た。
この電車に乗り合わせている数少ない乗客たちを。
みな、同じような疲れ切った表情を浮かべていた。
まるで、現代の奴隷だった。
その自嘲的な言葉が頭に浮かぶが、それ以上考える気力すらなく、その言葉は心の奥底へと消えていった。
◇
電車に揺られること、しばらくして、私は新幹線に乗り換えた。
そのまま順調に、始発の新幹線に乗り込んだ。
私は、新幹線のゆったりとした座席に座りながら、ノートパソコンを開いた。
隣では、同じくスーツ姿の男が鼾をかき始め、車内の暖房が冷えた体をじんわりと解きほぐしていた。
確認すると、何通もの新しいメールが届いていた。
私はメールのチェックを後回しにして、資料を見た。
ディスプレイに広がる数字の羅列と、期待値を示すグラフが冷たく光っていた。支店の業績は、思わしくない。
これから、出張先で行われる会議では、きっと厳しい言葉が飛び交うことになるだろう。
外を流れる景色は、次第に白く染まっていった。
雪が降り始めたのだ。
都会の灰色から、地方都市の白色へと景色が染まっていく。
それでも私の心は、相変わらず灰色のままだった。
目的の駅に到着、時刻は午後二時。
反射的に時刻を確認し、これからのスケジュールを確認した。
――ああ、これからが勝負だ。
大きな窓から覗く外の世界は、白く塗り潰されたような景色だった。
◇
私は出張先の駅に戻ってきていた。
新幹線が入っている地方では立派な駅舎。
いや、複合商業施設として機能している駅。
その駅の待合に私はいた。
魂が抜かれたかのように、椅子に座りこむ。
私が出席していた会議は、予想通り厳しいものだった。
出席者に計画の瑕疵を何度も指摘され、頭を下げるたびに心が削れていくようだった。
会議が終わり、数時間が過ぎた後の記憶は途切れていて、どうやってこの駅に戻ってきたのかさえ覚えていない。
だとすれば、まるでゾンビのようにフラフラと歩いていたのだろうか?
ガラス張りの天井から差し込む陽光は、降り続ける雪に反射して、どこか無機質な輝きを放っていた。
その光の下で、人々は忙しなく行き交い、私もその一部だった。
とにかく私は疲れていた。
昨日も今日も、そしてきっと明日も、締め切りに追いかけられる日々。
ディスプレイの冷たい光を見続けすぎて、常に現実世界がぼやけて見えるようになっていた。
朝からの会議で投げかけられた言葉が、まだ耳に残っていた。
次の新幹線まで、残された時は一時間。
私はそれに乗らなければならない。
駅構内には、様々な人が行き交っていた。
出張帰りのサラリーマン、観光客らしき家族連れ、学生たち。
疲れた表情の中年社員、焦りに満ちた若手営業マン。
自動販売機のかすかな稼働音、改札を通る人々の足音、遠くで鳴る構内放送。
行き交う人々は、忙しなく足早に過ぎていく。
それらは、どこか虚ろな日常の音として、私の耳に響いていた。
ポケットの中で、またスマートフォンが震えた。
今朝からもう何十回目だろう。
また新しい業務メールだ。既読の印をつけることさえ、気が重かった。
どうせまた、数字の話だろう。
いつからこんな生活を送るようになったのだろうか?
大きな窓の外では、雪が無意味に降り続けていた。
そんな時、何気なく目を向けた先にあったのは、待合室の隅にあるパンフレットスタンドだった。
派手な色彩の旅行案内や時刻表の間で、一冊の黒い本が、なぜか私の目に留まった。
手に取ると、それは聖書だった。
表紙には、長い年月の痕跡が残されていた。
私は少し迷った。これを読むべきなのか?
そのままスタンドに戻すべきかもしれない。
しかし、何かに導かれるように、その本の内容が読みたくなった。
本を持つ私の手には、硬質な革の感触が伝わってきた。
それは、まるでこの一冊に触れてきた数え切れない人々の存在を感じさせるようだった。
そして、私は本を開いた。
ページは優しく、自然と開かれた。
そこには小さな活字が、まるで私を待っていたかのように並んでいた。
この喧騒に満ちた駅の中で、薄く黄ばんだページをめくる音は、不思議な響きを持っていた。
インクの香りが、かすかに鼻をくすぐる。
それは何か懐かしい、けれど忘れかけていた大切なものを思い出させるような香りだった。
私は、その香りや紙の感触に導かれ、そこにある一文字一文字をゆっくりと読み進めていった。
『空を見よ、野の花を見よ。種も蒔かず、刈り取ることもせず、倉に納めることもしない。』
野の花のはかなさと、それでもなお命を紡ぎ続ける強さを語るその言葉は、魂の最も深い場所まで染み渡るかのようだった。
仕事に追われ、疲れ果てた魂の奥底で、何かが静かに目覚めていく。
まるでその一節が、凍てついた私の心を、春の光のように優しく溶かしていくようだった。
駅の大きな窓から差し込む光は、降り続ける雪に反射して、神々しい輝きとなって広がっていった。
これまで、ただの寒々しい白として見えていた雪は、今や天からの祝福のように感じられた。
一片一片の結晶が、この世界に舞い降りる恩寵の表れのように思えた。
連日の深夜残業で感じた虚無感も、今朝の会議での叱責も、この永遠の真理の前ではあまりにも小さな出来事のように思えてきた。
売上目標、達成率、来期の計画――これまで、私の心を縛っていた軛は、この聖なる瞬間の中で、儚い幻だったかのように消えていった。
これまで必死に追い求めていた物への執着は、深い贖いの中で浄化されていった。
気がつくと、これまでずっと私の中にあった重圧は、絶対的な清らかな真理によって完全に溶かされていた。
人は皆、見えない十字架を背負いながら、自分だけの巡礼の道を歩んでいる。
待合室の静寂の中で、私は深い気付きを得ていた。
啓示が、圧倒的な真実として、私の心を永遠に変えてしまったのだ、と。
今、ポケットの中で震えるスマートフォンさえ、もはや重荷とは感じられなかった。
私の魂は、完全なる変容の時を迎えていた。
野の花のように、今を生きる自分へ、と。
それは、小さな目覚めであり、同時に深い救済の始まりでもあった。
この啓示の時を経て、聖書を元の場所に戻す私の手が震えていたのは、疲れなどからではなく、永遠の真理に触れた後の畏怖の念からだった。
長い間、私は今ここにない偶像を常に追い求めてきた。
しかし今、その虚しさから解き放たれる真理の恩寵に触れたのだった。
今ある震えは、これまでの重みとはまったく違った。
それは新たに生まれ変わった魂の戸惑いのようなものだった。
この感覚を得た私は、もう二度と元には戻ることはない。
それは確信として、私の心に刻まれていた。
私が改札に向かう頃には、雪はさらに深く降り積もっていた。
それはまるで、私の新しい旅立ちを清める洗礼の水のようにも思えた。
プラットホームに降り立った時、吸い込んだ冷たい空気は、生まれて初めて息をしたかのように、肺の奥にまで染み渡った。
それは、魂の深い場所で起きた変化を、身体でも感じる瞬間だった。
新幹線を待つホームで、私は静かに空を見上げた。
降り続ける雪は、天からの恵みのように、この世界に優しく降り積もっていく。
新幹線がホームへと、遠くから近づいてきた。
乗り込む前に、もう一度駅のホームから外を見た。
雪は相変わらず降り続けていた。
しかし、もう私の心は灰色ではない。
一度、永遠の真理に触れた私の魂は、確実に真理の光へと向かって歩みを始めていた。