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前編


 11年前、異能が日本で初めて確認されたのと同じ年に日本異能保護団体、たしか英語で……Japan Extraordinary ability Protection GroupだからJEPG。JEPGが設立された。


 保護団体って銘打ってこそはいるが実際は企業が運営してるし、職員には高額な給料が支払われている。

 一応運営してる浦賀有増(うらがあります)製薬の学校生以外は働くことが出来ないし、その学費はとんでもない額なので理にはかなっている。

 ただ一般的なサラリーマンの生涯年収の半分程度の学費を支払うだけで安泰な人生が約束されると考えるとそう悪くはない話だろう。定年まで勤めれば8倍になって返ってくる計算だ。


 そこまでの給料をもらえるなら仕事内容はハードなものだと思うだろう。その通り実際研究職に就いた場合は1ヶ月中一つの実験に住み込みで取り組むこともあるらしいし、決して楽な仕事ではない。

 その一方で一般職の仕事は異能を持った人間と共同生活を送ること。ふざけた冗談とかではない、れっきとした業務内容だ。


 異能者には未成年から傘寿を通り越した人まで居るので、ケースによっては同業者から少女性愛者というとんでもないあだ名が付けられることもある。

 なので叶うなら同年代の同性が望ましい。タメ口も使えるし、一夜の過ちも起きないだろうから。

 まぁ社員がいくら願ったところで望み通りになるわけがないが。


 このふざけた仕事が出来たのは昔に浦賀有増製薬と一人の異能者とのいさかいが原因らしい。

 その昔、12才の異能者の検査があったのだが親から引き離された挙句、用意された自室は独房そのものという仕打ちに耐えかねて異能を使い研究所を消し飛ばしたらしい。

 その時にいろんなデータが消し炭となったので二度とそういう事が起こらないようにしよう、という反省の表れがこの仕事である。


 カウンセラー雇えよとか、別に自宅から通えばいいだろとか思ってしまうのは俺だけなのだろうか。異能者にする検査も月に1,2回ぐらいしかないはずだし。

 一応この取り組みに多数のスポンサーが付いてるというのは事実なので、俺にはわからん何かがあるのだろう。


 ただ政府からもあまりいい顔されてないというのもっぱらの噂で……女子高生と成人男性が同棲する可能性があるプロジェクトに公的機関がいい顔をしているほうがおかしいので当然だろう。

 あらためて考えるとろくでもない企業だな、浦賀有増製薬。政府からの目をスポンサーを盾にしてやり過ごすのは悪質極まりない。


 まぁ……ここまでボロカス言った企業に今年就職したのが俺なのだが。


 とても前置きが長くなってしまったがようやくここから俺の話だ。俺は高校の3年間を立派に勤め上げ浦賀有増製薬の就職が決まった。

 しかし一つ問題があった。一般職か研究職かは自分で選べないことだ。俺は研究職になりたいと思っていたが……結果は一般職での採用。

 しかも友達は全員研究職で採用されたので俺だけが一般職である。あまりにもあんまりである。そして落ちた理由も『学力に一切問題はないが、研究職の適性はないから』である。適性ってなんだ、一度説明してくれよ。


 そんなこんなで新卒に歓迎会がない一般職に就職した俺は初仕事の日を迎えた。2週間程度の研修を経てすぐに実戦とは人材不足なのだろうか。


 俺が今回担当するのは17歳の女子高生、想定しうる限り最悪のケースである。異性だし、ただの年下ならまだしも妙に年齢が近いので舐められるおそれもアリ。


 そしてこの仕事における悪条件がもう一つある。異能者の性格などは前もって伝えられないことだ。これのせいで対策も建てられないので対等なコミュニケーションはさらに難を極める。


 だが情報に対してかん口令がしかれているわけではない。一応人をたどれば最低限の情報を得ることはできる。ただ今回得れた情報はフルネームは『楠見(くすみ)詠未(えま)』であること、前任者が8人いたとかそんな情報である。後者に至っては知らないほうがマシである。


 俺はそんな担当者殺しと住むことになる家の前に立っている。すでに家の中にいるらしい、そこのインターホンを押せば緊張で心臓の鼓動が早くなってきた、124bpmぐらいだろうか。舌も乾いてきたし、トイレで小もしたくなってきた。緊張の症状欲張りセットかよ。

 よし、1・2・3で押そう。じゃないとたぶんあと一時間ぐらいこのままだ。


 深呼吸して……1・2・ガチャッ。扉は勝手に開いた、それが意味するのはもちろん。


「あっ、新しい担当の方ですか?」

「あっ、はい……」


 ピアスに黒髪のウルフカット、結構まつげとかもキメてるしなんか強そうだなぁ……正直前任者が全員やめたって情報がさらに怖くなってきた。恐喝、暴力……嫌な想像が掻き立てられてくる。


 いや見かけと情報に惑わされてはいけない!


 彼女は家族と離れて寂しい毎日を送っている、その悲しみを少しでも紛らわす手助けをするのが俺の仕事のはずだ。そんな俺が彼女を怖がってどうするんだ。

 今は練習どおりに彼女に真摯に向き合うのが誠意というものだろう。


「はじめまして、楠木さん。僕は今日からキミを担当することになる松原(まつばら)理人(りひと)です!」

「……よろっす」


 よかった、ちゃんと挨拶してくれた……ファーストコンタクトで「あ?」とか凄まれたら俺は間違いなく泣いていた、恐怖で。心のなかで小さくガッツポーズを決め、練習通りの流れを続ける。


「初めての担当だからいろいろ至らないところはたくさんあるだろうけど……一生懸命頑張ります!」

「別に大丈夫ですよ、私もまだ入って2週間目の新人だし」

「あっ、じゃあ一緒だ! 俺も入社して2週間目!」


 それを聞くと彼女はちょっと顔を横にそむけた。機嫌が悪くなったようには見えないのでちょっとは面白いと思ってくれたのだろうか。


「今までの担当さんから話は聞いてるだろうし説明とかは必要ないよね?」

「まぁ……そっすね」


 人見知りな子なのかなかなか目を合わせようともしない、そりゃ思春期真っ只中なのに大人の男と二人暮らしとか不安以外の何者でもないだろう。

 そそくさとリビングの方に下がっていったので、とりあえず自分も入ろう。靴を揃えてさっさと自分も彼女の方に向かう。


 彼女はソファで背筋をピンと伸ばし自分が対面して座るのを待っていた。何か話したい事でもあるのだろうか。

 自分も能力について質問をしたいし、相手がそういう姿勢で居てくれるのはとても助かる。


 俺は反対側のソファに座り、机に用意されていたオレンジジュースを一口飲んだ。味は……あまり馴染みが無い、ここらへんにしか売ってないジュースだろうか。


「美味しいですか?」

「うん、とても。どこのメーカー?」

「……忘れました、それよりそっちって聞きたい事ありますよね」

「わかるの?」

「前の人もそうでしたから」


 なるほど、前任者たちも全員俺と同じ条件なんだからこの子が8人と全く同じやり取りをしているのは簡単に想像できたことだ。

 なにが「話したい事でもあるのだろうか」だよ。恥ずかしいなぁ。


「私の異能は重力操作、人や物にかかる重力の強弱を変えれます」

「めちゃくちゃすごいじゃん!えっ、もしかしてかけてもらったら俺空飛べたりする!?」

「あー……出来ますよ」

「うわー!今度かけてよ、一回は空飛びたかったんだ!」


 そう言うと彼女も満面の笑みとまではいかないけどニコニコと笑顔を見せてくれた。

 こっちがちゃんと向き合えば応えてくれる、なにを怖がっていたんだ俺は。年相応の普通の女の子じゃないか。


「アハハッ、アンタほんとにバカなんだな」

「……はい?」

「いやいや、猫被ってんの丸わかりだっただろ?」

「ね、猫?ごめん、ちょっと意味が……」

「前任者さんたちから色々私のこと聞いてんだろ。ワガママ放題のクソガキって」


 自嘲気味にそう言うとソファから乱雑に立ち上がりスタスタと廊下の方に歩いていく。さっきまでの陰鬱な雰囲気こそあれど親しみやすかった彼女の気配は一切感じられない。悪辣なクソガキそのものの振る舞いに思わず身じろぐ。


「そっちも気つかわなくていいよ。仕事でも取り繕ってんのダルいでしょ」

「いや噂はたしかに聞いてたけど……それを理由に楠木さんを色眼鏡で見るなんてことしないよ」 

「そうなん?初めての相手が問題児って普通イヤじゃない?」


 み、見透かされている……おそらく今までの人たちも今のような彼女を見た時、自分と同じことを考えていたに違いない。そして理想の押し付けを見透かされた怒りを彼女にぶつけたのだろう。


 そうであるなら彼女のこの態度も納得がいく。だって彼女は相手の振る舞いを指摘しただけなのだから。文句を言われる道理など一切ない。


「別に問題児だなんて思ってないよ。キミが満足できる環境にしてあげれなかったこちら側の落ち度だ」

「それ前も聞いたー。んで私がこの態度取ったらすぐにボロカス言ってきたー」

「……そのことについても代わりに謝罪するよ、ごめん」

「別に気にしてないし、アンタに謝られても」


 ダメだ、やってる事が逆効果な気がしてならない。そもそも敬語体で話すのはあくまで仕事でやってます感が出て非常によろしくない。心を許してと要求してるくせに喋り方はビジネススタイルとか不信感しか産まない。


 ならさっきの取り繕わなくていいという提案はむしろ助け舟だったのではないだろうか。しかし今になって敬語を崩すのもそれはそれで感じが悪い。

 これ、もしかして詰んだ?


「たしかにそうだけど……出来るだけキミの理想通りになるように努めるよ。この組織の誠意として」

「ふーん……んじゃ買ってほしい物があるんですけどー」


 ポケットからスマホを取り出すと慣れた手つきでこちらにお目当てのものがあるサイトを見せてきた。見せられたスマホにはずらりとブランド物が並んでいて……に、二十万円!?俺の今身につけているもの合計しても3000円なのに、このジャケットだけで!?

 俺が庶民と同じ生活水準に合わせているとはいえ、これはどう考えても高すぎる。こんな値段の物をねだるって、俺は社会人になるまでしか許されなかったぞ。

 あ……あれ? だったら未成年のこの子がするのは別にいいような……。


「これとこれ……あとコレ」

「ちょっ、ちょっと待って!80万は俺の給料2ヶ月分だから、さすがに無理!」

「ボーナスあるんだから余裕でしょ」

「俺まだ働いて2週間目!貯金尽きちゃうよ!」


 社会人になったのなら自立しろと父に言われて以来、使えるのは俺自身の口座しかない。そしてそこにはまだたったの700万円しか入っていない。

 母に泣きついて立て替えて貰う手はあるが俺も極力それはしたくない。ここはどうにか譲歩して貰おう。


「せめて二個までで手打ちにしてくれないかな……?」

「えっ、嘘ついたの? だったら私もやることやらないと示しつかないんだけど」


 そう言うと手をこちらにかざす。それと同時に地面に引っ張られるように叩きつけられた!い、痛いし……それに全身が鉛のように重くて全く動かせない。体感して初めてわかったけど、重力操作ってマジでヤバイ能力だ!


「結構すごいっしょ、人にしか使えんけど」

「……!」

「あー……喋れない系か」


 喋れる系が過去にいたのだろうか。8人もいれば一人ぐらいはいるかもしれない、おそらく体育会 系の人。

 対抗手段はないので彼女の気が満足するまでじっとすることしかできない。女子高生の前でうつ伏せになる新成人、あまりにも情けない光景。求人誌にこの写真載せられたらどうしようかな。


「あははっ、助け呼べないね」

「……!」


 口も動かせないので声も出ない。声も出せない様を見て彼女はさらに嬉しそうに笑った。彼女をここまでにしてしまうほどの不手際ってマジで前任者何してくれてんだよ。


「……!…………!!」

「その顔めっちゃオモロイね、今までと違ってずっと暴れるのも好きだわー」


 そりゃみんな途中で諦めるだろ、身動き取れないんだから。でもここでもがくのをやめたら、それこそ本気で向き合おうとしていないと思われる。今までの人たちと同じじゃダメなんだ。


「かわいそーだし手と足だけ解いたげるか」

「……!!」

「うわぁ、なんか……ひっくり返った虫みたい」


 ちょっとおもしろい例えをするな。心のなかでツッコむがそれは届かない。しかし虫のモノマネがお気に召したのか体にかかっていた負荷がゆっくりと和らいでいく。

 能力を完璧に使いこなしてる、もし彼女が悪意を持ったらとんでもないことになりかねない。いや今の彼女に悪意がないというわけではないだろうが。


「はぁ……はぁ……人に使うのはよくないって」

「知ってるし」

「それなら一緒に暮らすんだしもうちょっと優しくしてくれても……」

「それ、死ねって言ってんのと同じだよ」


 そうぶっきらぼうに言うと今度こそ廊下に歩いて行く。残された俺はただ立ち尽くして、今後の共同生活に危機感を抱くほかなかった。


 ……いやいやいや、この物語を中途半端な結末にしていいはずがない!とりあえず今出来ることを片っ端から考えるんだ、今後の事を考えるのはそれからでいい。


 えーと……まず食事、食事だ。この嫌われようだと作ったモン全部突っ返されてもおかしくないし、まあまあ大きい懸念点だ。

 一応料理の腕は高校時代に鍛えてたので自信はあるが、それも受け取ってもらえなければ意味がない。それに……おそらく前任者たちは彼女に食事など作っていないだろう。


 それでも普通に過ごしているようなので……それすなわち彼女に自炊スキルがあるということであり、俺の存在意義は無に帰すということでもある。


「でも……さすがにメシぐらいは作ってあげないと」


 そう自分に言い聞かせて冷蔵庫を開け……それと同時に息を呑んだ。冷蔵庫の中には大量のカップ麺が敷き詰められている。

 なんでカップ麺を冷やすんだよというツッコミも出来ないほどの衝撃。まさかと思い冷凍庫を開けたが、案の定冷凍チャーハン、冷凍ピラフ、冷凍ピザ……冷凍食品がこれまた大量に詰め込まれているた。


 頼みの綱の野菜室も開けてみたがものの見事に空っぽ……いや、端っこに一つオレンジが転がっていた。だからなんだという話だが。


「……オレンジジュース、これで作ったのかな」


 冷蔵庫の中には嗜好品の類はほぼなかった。お菓子だとかジュースだとかが。こんな食糧事情でこのオレンジは結構重要なものだったはずだ。

 すぐに本性っていうか……ああいうことするのにわざわざそんな貴重品を差し出すなんて普通はしない。彼女なりに歓迎はしてくれていたのだろうか、かなり手厳しかったけど。


 異能者には担当の同行なしで外出は入居者に許可されていない。そのため日用品、食事などは担当者が代わりに買い出しに行くのが普通のはず。しかしこの有り様を見る限り、担当者が意図的にこの状況にしたとしか思えない。

 もしそうなら重力操作持ち相手によくこんな事が出来るな。最悪の場合ペシャンコにされるのに……彼女はそうしない人間だからこれがまかり通ったんだろう。


 しかし困った。彼女の担当に対する信頼感はおそらくゼロ、食事を作ったところで受け取ってもらえるかどうかすら怪しい。だが放っておけば栄養失調で倒れかねない。


 受け取ってくれるためのアイデアが思いつけばいいのだが……そうだ、映えを意識した食事とか年齢的に合ってるしよさそう……!

 いやダメだ、その条件だと一流のシェフにしか作れないものしか思いつかない。


 でも見栄え重視ってのは間違っていない気がする、もっと単純に考えて……オムライス、少し子供っぽいけどそう悪いアイディアじゃないはずだ。


 ケチャップでメッセージを書いてたら親しみも持ってくれるかもしれない。そうじゃなくても彼女の気持ちが少し楽になれば、それだけでいい。


 それならばと持参したカバンから食材を台所机に広げる。ケチャップと卵、チンするお米と鶏肉。

 うーん野菜がない……仕方ない、野菜ジュースがあるからそれを一緒に出すか。


 大丈夫、俺は小さい頃からシェフが料理をするさまを盗み見てきた。オムライスぐらい片手間でもできるはず。よし、なんかいける気がしてきた。

 それはそれとしてスマホでオムライスの作り方を検索はする。だって失敗したら嫌だし。


        *


 悪戦苦闘をすること30分、なんとか完成させることができた。割るタイプでもなくドレスドオムライスでもない平凡なやつだが見栄えは綺麗にできているのでひとまずは良しとしよう。

 仕上げにケチャップで何か書けば完全体だ。震えないように気合を入れながら


「ヨ・ロ・シ・ク……と」


 気をつけたけど不格好な字になってしまった、ネコでも描いてごまかしておこう。いやこれも下手すぎて化け猫になってしまった。


 正直出すのを憚られる出来栄えになってしまったがもう出すしかあるまい。

 しかしどう渡すか、部屋の前に置いておくわけにもいかないし……直接呼ぶしかないか。


 正直に言うとかなり気が重い。廊下を歩く足取りは自覚できるほどに重い。

 もし喜んでくれなかったら、もし受け取りすらしてくれなかったら、もしこれが彼女のストレスになってしまったら。いやそんな事考えても仕方ない、ここは踏み出さないと。


 今は目の前の扉が巨大な壁のようにしか見えない。だが壁は乗り越えてこそ、小学校の同級生の山浅さんもそう言ってた。いや言ってたかな、あっ違うコレ言ったの島田くんだ。

 まぁ誰が言ったかはどうでもいい、この言葉そのものが大事なんだ。そうだろう宮下くん!


「あのーお昼ご飯作ったんだけど……あっちに置いてあるから気が向いたら食べて、ね……?」


 ノックもしたが一切返事は帰ってこない。部屋にいないか無視されてるか、どちらにせよしつこく呼んでもいい結果は得られないだろう。

 勇気を出しても報われない……勝手に気を回しておいてこの言い方は違うか


 ため息を軽くつき後ろに引き返そうと振り向く。とオムライスを乗せた皿を持って立つ楠見さんがいた。


「あっ、それ……!」

「……」


 じろりとこちらを睨んでいる。気まずい……だけどちゃんと食べようとしてくれていることは嬉しい。

 にらみ合いを続けていても仕方ないので脇の方に体を避ける。廊下はそれなりに広いうえに俺もヒョロいのでそれだけで十分に通れるスペースが出来た。


「洗い物は俺がするから、お皿は元の場所に置いといて……ね?」

「……」


 何も言わずに素通りしていく。会釈も何もないが今はそれでいい。彼女が自分の意志で俺の料理を食べようとしてくれている。

 彼女が俺に向き合ってくれている。その事実に変わりはない。


 ただ味見を完全に忘れていたことに気がついて心配な気持ちは募ってきた。なるようになれ、ほぼ現実逃避の言葉を胸に俺はリビングに戻った。


         *


 数十分経っても不安な気持ちは止まず、スマホをつけてレシピを確認してはすぐに消すという行為を繰り返していた。

 分量を間違えていなかったか、何か入れ忘れていなかったか。記憶とそれらを照らし合わせたところで過去が変わるわけでもないのに何度も何度も繰り返す。


「……何してんの?」

「あっ、何もしてないです……楠見、さん」

「ふーん……」


 気配が全く感じ取れなかったが楠見さんは扉の近くに立っていた。そして声をかける隙も見せずまっすぐ流し台にスタスタと歩いていく。途中で俺の後ろを通ったが特に何か声をかけるわけでもなく、また素通りして行く。


「……」


 カタンと皿が流し台に置かれる音が静寂の中で響く。話しかけるなら今しかない。

 ソファから立ち上がり、拳を握りしめた。


「あの、味とか大丈夫だった?」


 もっと聞くべきことがあるかもしれないが今一番の心配事を聞いた。緊張が体に走り、汗がデコを伝う。

 楠見さんは困惑したような顔をしながらこちらを見つめていた。正直目を離したい気持ちもあるがそれをしたらもう二度と口を利いてくれないだろう。


「普通においしかったけど何? マズいの食わせたつもりだったの?」

「い、いや! そういうわけじゃないけど……」


 怪訝そうな顔のまま変わらずこちらを見つめている。今はそれは全く気まずくない。

 そうか、美味しかったのか。作ってよかったな。


「そういえばあの絵何? 全然わかんなかったんだけど」

「アレって……ネコのこと?」

「……はぁっ? アレがネコって下手くそすぎだろっ、アハハッ!」


 楠見さんはわかりやすく腹を抱えて笑い出した。あのときの悪辣な笑い方とは正反対の年相応の笑い方。一生懸命向き合おうとしたからこの笑顔が見れた、そう考えていいのだろうか。

 何が転じて福となるか本当にわからないな。もしかしたらこの仕事ってそういうことなのか? だったら、いいな。


         *


 ソファに寝っ転がる楠見さんを尻目に俺は持参してきたゲーム機をテレビに接続していた。

 私物の持ち込みはオッケーなので持ってきたが今思うといいチョイスだ。これを通じたコミュニケーションも取れるかもしれないし。


「何してんの」

「ゲーム家から持ってきたんだ。する?」

「そのゲームなら……DLC買ってんならやるけど」

「んじゃ決まり、一緒にやろっか」


 コントローラーを軽く投げ渡すと楠見さんは少しお手玉しながら受け取る。少し照れくさそうに笑うのを見て少しドキッとしてしまった。

 やっぱり笑顔は本当に可愛いな。いや真顔の時も美人だからすごい映えるけど。


「勝ったら昼の時の買って」

「無理って言ったでしょ、それに賭け事はダメ」

「ケチ」


 楠見さんはソファの座面をトントンと指で叩く。横に座れというジェスチャーだが、その指の位置だとかなり密着して座ることになる。

 心を許してくれているのか、からかわれているのか。今の関係値だと判断のしようがないので端の方に座った。


「手加減は一切しないから、覚悟してよ?」

「ふーん、強いんだ」

「そりゃ友達にレースゲームで負けたことないし!」


 俺はお坊ちゃまではあるが小中校は普通に公立の学校を通ってきた。なのでそれなりに友達とゲームで対戦し、勝ってきた。

 そんな俺がゲーム対決で負けるはずがない、そう心のなかで息巻いていたんだけど……。


「ちょっと楠見さん! なんでわざわざ戻って攻撃してくんの!?」

「いや順位低いほどいいアイテム出るし、それまでの暇つぶし」

「プレイスタイルに巻き込まないでぇぇ!?」


 その後色々なゲームで対戦したが俺は62戦で0勝、完全敗北を喫した。かなり腕に自信はあったが上には上がいるらしい。

 そして熱中しすぎたというかムキになったというか……時間を忘れてゲームにのめり込んでいるうちに時計の針は6時を指していた。


「あーおもしろ……ってもうこんな時間か。風呂入らんと」

「え……あ、そう。じゃあ晩ごはん作っとくよ」

「りょー」

「りょ、りょ……」


 すごくあっさりな返事だけどなんだか嬉しい。俺としても彼女とのこういう関係が心地良いのだろうか。だったら俺って案外この仕事に向いてるのかもしれない。


 楠見さんは立ち上がってお風呂場のある方に歩いていこうとしたがなぜか急に立ち止まった。そしてこちらに手をかざす。


「あーでもやっぱ、これはしとかないとダメか」

「えっ、何をッ……!?」


 その言葉を言い終わる前に両手両足が地面に吸い付けられ、前に倒れる。かろうじて四つんばいの体制で踏みとどまったが、それでもまったく動けない。

 またしても無様な姿を晒す俺に、今度は申し訳なさそうな言い方で話しかけてきた。


「ごめんねー。でも覗かれたら困るし我慢して?」

「覗くわけないでしょ!?」

「やーでもさ、男はケダモノって言うじゃん」

「おじさんみたいな例え!?」


 楠見さんは笑いながら去っていってしまった。女の子のお風呂って長いって言うけどどれくらいなんだろうか、せめてパジャマに着替えたあたりでコレは解いてほしい。


「ていうか、作れないな晩ごはん……」

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