自称のとれたベリアル
午後になり、再び作業場に移動した私は街に卸す薬の精製をしていた。
ベリアルは裏庭のベンチでのんびり日向ぼっこだ。
日の光を浴びてほっこりと温かくなったベリアルをお茶の時間に抱っこするのを楽しみに、手だけは黙々と動かす。
一区切りついたところで、蘇生薬の下準備を行った。
24時間後に煮詰めなくてはならないから、街に行く日の前日には出来ない作業だ。
処理が終わり、材料を片付ける。
この後は、ベアトリーチェ様への手紙を書くために時間を設けるつもりだった。
ご挨拶すらした事もない高貴な方への手紙なんて初めてで緊張する。
「ベリアル?家に戻ってお茶にしよう」
私は裏の窓から裏庭にいる筈のベリアルに声を掛けたが、ベンチにはベリアルの姿が見当たらない。
「ベリアル……?」
窓を閉めて作業場全体の戸締まりをし、外に出る。
「ベリアルー?」
大きめに声を出したが、それでも返事はなかった。
不安が頭を過り、裏庭の奥の山に少し分け入る。
「……っ!……!!」
『……、……』
ベリアルと、知らない誰かが遠くで話している聞こえてきて、ホッとした。
お客様だろうか?
何も、こんな裏山で話さなくても……と思いながら、先に家に戻っている旨だけは伝え様とした。
「ベリア……」
ポキリ、と枝を足で踏んだところで、気付く。
ベリアルは普通、私以外の人間とは話さない。
では、誰が……
「ベリアルったら、いい加減眼を覚ましなさいよっ」
『……ここには近づくな、と言った筈だよな?さもなければ殺されても──』
「ベリアル?お客様?」
私の声掛けに、一人と一匹がバッと同タイミングで振り返った。
……あれ?何だか直前にベリアルが物騒な事を言っていた様な……
『お仕事お疲れ様、ユーディア。もうお茶の時間?』
「うん、先に家に戻ってるねって伝えようと思って。邪魔してごめんね?……お客様なら、ご一緒に如何……」
私がちらりとお客様に目をやると、そこには濃藍色のウェーブがかった髪を肩上で切り揃えた、目鼻立ちがしっかりした女性がこちらを見ていた。
年齢的には私と同じ16歳位だろうか。
『それには及ばない。もう話は終わった』
ベリアルは、ぴょんと私の肩に飛び乗ってくる。
そこで初めて彼女は口を開いた。
「……あんたね、ベリアルの…っ」
『おい』
ああ、やっぱり目の前の綺麗な彼女に睨み付けられている様な気がしたのは、間違いではなかったらしい。
瞳に憎悪を宿しながら私に一歩近付こうとしたのを、ベリアルがたった一言で止める。
『さっさと、行け』
私の肩に乗っているから、ベリアルの表情は見えない。
けれども、それは私が一度も聞いた事のない様な冷たい声だった。
それは目の前の女性にも伝わったのか、悔しそうな顔をしたかと思えば一瞬後には背中を向けて山奥へと走り去って行く。
人の気配がなくなったのを見届けてから、ベリアルを肩に乗せたまま自宅へ戻る。
先程の女性について聞こうかどうしようか悩んで、結局やめた。
必要であれば、ベリアルから話してくれる筈だ。
そうしないというのであれば、それは私にとって必要のない事であり、口を出すのは余計な行いだと思うから。
ベリアルには悪魔の仲間がいるとは聞いていたけど、実際誰かと話すところを目にするのはこれが初めてだ。
ベリアルが悪魔の能力を私に見せた事もなかったからずっと自称悪魔のままだったけど、そろそろ自称悪魔の自称を取ってあげる頃合いかもしれない。
イベントの開始後、普段大人しくて温厚なベリアルがそうでない一面を見せる事も多くなった。
個人的には、そんなベリアルの一面を見られるのは貴重だと思うけれど、それはベリアルの心が平穏ではない事を示している。
──無関係でいられないなら、せめて、さっさと縁を切りたい──
改めて、そう思った。
***
翌日。
午前中は家事に追われ、午後は仕込んでおいた蘇生薬の後半部分の精製からスタートさせた。
洗濯機や掃除機なんてないこの世界では、家事一つ一つが重労働だ。
蘇生薬の精製は、簡単そうだったが材料を焦がさずにじっくりと100ミリリットルまで煮詰めるのが非常に困難だった。
2瓶分の材料を購入しておいたが、一つ目は完全に焦げて失敗。
結局一つ分しか精製出来なかった。
これは、2瓶同時に精製しようとした私のミスである。
一つずつ作ればそこまで大変ではないものを、一度で終わらせ様と、自ら大変な環境にして材料まで無駄にしてしまった。
さて、蘇生薬の精製は辛うじて成功したものの、この薬の治験は逆に非常に行いにくいものであった。
……まさか、人が亡くなるのを待つわけにはいかない。
病院の前で待つなんて不謹慎極まりないし、逆に依頼したところを他の方々に聞かれて薬の取り合いが始まったらそれこそ大変な事になる。
本当は人で試みたいところであったが、今回は動物で我慢しよう。
今までの薬の治験で、人間とほぼ同じ大きさの猿の仲間である、タンゴールヒという動物であれば、人間に投与した時とさほど結果がずれないとわかっていた。
非常に賢いのに、群れの仲間以外には狂暴で、しょっちゅう群れ同士で戦っては毎日の様に何匹かは命を落としていた。
私一人では危険過ぎてタンゴールヒの縄張りには入れないが、ベリアルが一緒であれば襲われる事はない。
ついでにタンゴールヒの縄張りにしかない植物や果物や種などの材料を手に入れてしまえば、材料の不足にしばらくは困らないし、一石二鳥だ。
「ベリアル、急で悪いのだけど、これからタンゴールヒの縄張りまで付き合って貰えるかな?」
『勿論構わないよ』
タンゴールヒの縄張りは、一時間程歩いた山奥にある。
そこまで遠くはないので、これから行っても十分夕方には帰宅出来る距離だ。
いつもの採取セットを背負い込み、準備をする。
お師匠直伝の、蛇や虫、肉食動物が苦手とする匂い袋をぶらさげて出発だ。
獣道では、ベリアルが先導をしてくれる。
『今回はタンゴールヒで試すのか?』
流石ベリアルだ。何も言っていないのに、理解している。
「うん。蘇生薬だから、副作用の事を考えると本当は人間で試したいけど、それはちょっとね……」
『まぁな。人間に試すのは難しいよな』
悪魔である筈のベリアルは、人間の機微や動向を良くわかっている。
蘇生薬という、道徳的に賛否の分かれるものの情報は、過度な期待や余計な災いを招く事だろう。
エリカ様にも、この薬の情報は一切の門外不出でお願いするつもりであるが、果たして彼女がきちんと約束を守ってくれるのかは、些か不安が残るところであった。