黒の魔女
ドンドンドンドン!!
乱暴に、私──黒の魔女──の家の扉が叩かれ、私と使い魔である黒猫のベリアルは顔を見合わせた。
「そんなに強く叩かなくても、聞こえる広さなのにね」
この小さく粗末な家には、リビングとキッチン、寝台ですらひとつの部屋となっており、トイレとお風呂に至っては外に備え付けられている。
私は、手にしていたカトラリーをそっとテーブルの上に戻して席を立ち、「どなたですか?」とドアの手前で外にいる人物に声を掛けた。
『食事の邪魔をするなんて、無作法者め』
ベリアルは不機嫌そうに黒く長い尻尾をゆらりと揺らしながら、私の肩に飛び乗る。
自分は食事を中断しなくても良いのに。
律儀で優しい心の使い魔に、心が和んだ。
「ここは、黒の魔女の家か!!」
激しく叱咤する様な声に、ため息をつきたくなる。
他人の家を訪れる態度ではないと、気付かないのだろうか。
脱いでいた真っ黒な外套をさっと羽織り、フードに顔を深く隠して「はい」と答えた。
私の行動を予想していたのか、ベリアルはさっと戸棚の上に一度上がり、再び舞い戻ってくる。
「よし、黒の魔女。話がある。我が主人の娘、公爵令嬢であらせられるベアトリーチェ様からの伝達を言付かっている。扉を開けよ」
私とベリアルは、再び顔を見合わせる。
こんな田舎の山奥に、会ったこともない貴族のお偉い方が何の用事だというのだろうか?
身分を偽った山賊でないとも言い切れないので、私は足一本分が挟まる程の隙間を開けた。
止める間もなく、スルリとベリアルがその隙間から外に踊り出る。
『ユーディア、馬車に公爵家の家紋がある。本物っぽいから大丈夫だ』
どうやら心優しい使い魔は、先に安全確認をしてくれたらしい。
「ありがとう、ベリアル。……あの、何のご用でしょうか」
私が大きめにドアを開くと、先程まで威勢の良かった公爵家の使いの者は、軽く後ずさった。
そして懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私の手元にポイと投げ付ける。
「……1ヶ月以内に、ベアトリーチェ様のご要望に応えろ。さもなくば、命令に従わなかったとしてお前は断罪される」
真っ黒なフードに身を包んだ私が余程気味悪く感じたのか、やってきた時の威勢やらけたたましさが嘘の様に、それだけを言い捨ててあっという間に去って行った。
『何だあいつ、偉そうに』
ベリアルはかなり憤慨していたが、私は「公爵令嬢だとおっしゃっていたから、偉いのよ。きっと」と軽く流してその場で羊皮紙をするすると広げる。
羊皮紙には、長々とした令嬢が好みそうな季節の挨拶から始まり、自己紹介、そして本題、最後に脅しがかかれていた。
『何だって?』
ベリアルが私の肩に再び飛び乗り、羊皮紙を覗き込んだ。
要約すると、こうだ。
「……惚れ薬を作れ、だそう……」
しかし私はそう答えながらも、変な感覚に襲われていた。
惚れ薬、なんて作った事ない。そもそも羊皮紙には、「相手から好かれる薬」とあるのに、何故私は惚れ薬だと名付けたのだろう。何故いつもは医療用の薬を作っている私のところに、公爵令嬢はそれを作れと命じたのだろう。私の能力は、誰も知らない筈なのに。薬を作る人は私じゃなくても沢山いるのに、何故私なんだろう。
何故、何故、何故──
『ユーディア?ユーディア、どうした?』
「ベリアル、私、何か……変……」
視界がグニャリと歪み、思わずその場に屈み込む。
ベリアルが慌てて、ストンと地面に着地したのが視界の隅に入った。
──黒の魔女が、誰の味方につくかでエンディングが変わってくる……よ
──ヒロインも三人から選択出来るんだよ、このゲーム……
──上手く攻略が進んでた筈なのに、魔女のせいで最後に……返…れ……
──全く、単なる攻略だけなら問題ないの…さ……
『ユーディア!?大丈夫か??』
「ベリ、アル……」
真近にいる筈のベリアルの声が、やけに遠く聞こえる。
変わりに、この場にいない女性の声が頭に響く。
──魔女まで攻略しろだなんて、変…よね……
──むしろ、魔女さえ攻略すれば、ある意味……じゃない……
……ああ、この女性は私の従姉妹……
「従姉妹……?」
『ユーディア、一先ず横になって』
「私に、従姉妹なんて……」
いない筈。
──けど、魔女がどのイベントでどう好感度が変わるのか全く……
──黒の魔女さえ……
──魔女……
そこで私の視界が、暗転した。
***
この世界では珍しく、また不吉とされる黒髪黒眼で産声をあげた私は、母の母性を引き出せる事もなくあっさり山に捨てられた。
捨てられた私は、幸いな事に薬師を営むお師匠に拾われた。
私が10歳になるまで育ててくれたお師匠は、偏屈者と村人から嫌われていたが、私にとっては惜しみない愛情を掛けてくれた、唯一の家族だった。
お師匠は、もう随分と高齢だった。
自分が死んでも私が困る事のない様に、後継者として薬師の仕事を全て教えてくれた。
お陰で、私は食うに困らない知識を持つことが出来た。
お師匠の教えてくれる薬師としての知識を、私は海綿の様に吸収していき、またそれを応用するのにも長けていた。
お師匠には言わなかったが、私が意識的に原材料である植物を見ると、その原材料から作成出来る薬がまるでレシピの様に脳裏に投影されるのである。
私は当然、皆が皆、そうであると思っていた。
お師匠との会話が噛み合わない事から、「私が異端である」という事に気付き、お師匠に捨てられる事を恐れてそれ以来その話題は一切しなかった。
恩人であるお師匠が亡くなった後はカンニングをしながら独自の薬を精製して売り捌いていた。
効能がないとされていたその辺の雑草を一回凍らせることで回復薬が出来たりだとか、同じく雑草として大量に生え、農家に忌み嫌われているとある草も、燃やして出来た灰を他の薬湯に溶かせば身体を芯から温める薬に早変わりしたりする。
ともかく、私はお師匠の教え通りの薬は一般医薬として取り扱う一方で、自分のオリジナル薬はおおっぴらにはせずに、市場ではなくごく一部のお得意先にだけ流した。
そしてその薬達は「黒の魔女」が精製した原料が謎の未知の薬として瞬く間に噂になったのである。
噂になった事は、私にとって初めは良い事はなかった。
お師匠が大切に書き留めた薬の精製帳が大量に盗まれたり、家に火を放たれたりしたからだ。
お師匠が亡くなる少し前に、私が腹ペコだった黒猫を保護しなければ、下手をすれば命すら奪われていたのかもしれない。
私にだけ念を送り、人語を話す自称悪魔のベリアルは、大変な事が起こる度に素知らぬ顔で助けてくれた。
盗まれた筈の精製帳は翌日には棚に戻っていたし、放たれた火も消し止めてから私に報告したり。
人的な不運や災難を被りながらも、心身ともに無事な私を、そのうち人々は畏怖して近づく事を恐れる様になった。
お陰で、それ以降の私の人生は、非常に平和なものだったのである。
──そう、惚れ薬の精製を求められる迄は。