記憶
ふと我に返ると僕は一つの菓子パンとロープを手にしていた。そこにはただ静けさがあった。蝉の死骸を踏まないように避けて歩いていくが、かれこれ何時間歩いたのだろうか。後ろを見つつ誰も来ないことを確信した僕は、良しとただそれだけ呟き、木陰に座った。そこで今日初めて食べ物を口にした。何も感じなかった。ただおなかだけが無理やり膨れただけであった。再び周りを見渡すとあれだけ静かであった外観がすべて騒がしいように感じた。僕はそれが嫌だった、どうせなら静かなままでいいのにと思ったが口にはしなかった。口にすると余計に騒がしくなる気がしたからだ。そこらへんにあったはしごを上り、ほんの少し高い場所からあたりを見渡す…。さわがしいはずなのに,いつものように空は暗くなり、葉はただ静かに揺れている。僕は物凄く虚しくなり不機嫌になった。しかし僕は一つだけ深呼吸をし笑顔をつくり何かとても大きな使命感に似た感覚に誘われるままに足を前に向けた。しかしそこには何もなく、ただただ冷めた視線が寄っている気がしてならなかったが、寂しさもありつつ、仕方のないことだと振り切った。しかし心というものは追いつかないもので、寂しい考えのあまり、昔のことを少しばかり思い出した。
僕は勉強はそこそこできたが、宿題を忘れたり寝坊したりと学校に迷惑ばかりかけていた者だった。宿題すらしないくせにテストや先生の質問には答えられたものだから、注目の的になってしまったのは言うまでもない。悲しくなった、もういっそ宿題をしないで昼休みに居残りをして時間をつぶすことも悪くないなと思った。放課後も居残りをして先生に怒られるが、耳を傾けることすらなかった。その日も宿題を忘れ、居残りをして夕方に帰った。家の洗面所には上半身がはっきりと映る大きさの鏡がある。手を洗うときによく僕は笑顔を作り、その笑顔の自分を見つめるという習慣があった。最初からやっていたわけではなくある日を境に特に理由もなく始めたのだが、笑顔というのは不思議な力があるのだろうか、妙な安心感が生まれるので続けていた。家につくといつものように手を洗い、うがいをして笑顔を作る。ご飯を食べてゲームをして寝る前に親に呼ばれて話して寝る。そこにはいつも作っている笑顔があった。
しかしいつからか、不思議な経験をするようになった。僕はいつものように鏡に向かって手を洗った後笑顔を作っていたが、そこには映らなかった。代わりに何もしていない、一切の感情を捨てたような僕の顔があった。おまけに奴は僕に話しかけるのだ。最初は作ったようなへたくそな笑みを浮かべて「やぁ」とだけ言っていたが、僕がそれを無視すると奴はただただ黙ってほくそ笑み僕を見つめていた。ぼそっと僕は「なんだよ」とだけ言った。すると奴は大笑いし始めた。怖いと思ったので「おまえは誰だ」といった。奴は「俺はお前だ」と言った。ばかばかしくなったので「お前は僕じゃないし、気持ちの悪い奴だな」とだけ言った。そしたら奴はあれほど笑っていたのに泣き始めやがった。少し驚いてしまったが、ざまぁみろと思い、おもいっきり笑ってやった。「精神的向上心のない奴は馬鹿だ」とつい最近学校で習ったものも言ってみた。奴は変わらず泣いていたが、めんどくさいと思ったので洗面所から出た。ふと見ると首回りと裾の部分に奴が流したであろう液体が付着していた。気味が悪かったのですぐに服を脱ぎ風呂に入った。風呂に入ったとき、これは夢なのではないかと思って頬をつねったが痛かった。
それからというもの、週に2~3回くらい奴は現れて僕に話しかけた。最初は少し苛ついていたが、次第に慣れて時間の暇つぶしのような感覚で聞いていた。なんなら少しだけ楽しんでいる自分もいた。奴は叶いもしないような将来の夢や趣味、時にはよくわからない歌を作って歌ったりしていた。実に滑稽な姿であったが、楽しかった。しかし奴はデリカシーというものがないらしい。僕に対して体重や身長、趣味や夢などを根掘り葉掘り聞いてくるのだが姿が僕と同じなので実におかしくたまったものではなかった。将来のことなんてわからないし、夢なんてない。趣味というものも持ち合わせていないので質問には一切答えなかった。奴は少し寂しそうな顔をするが、つぎのはなしに移っていた。こんな日々が続いても悪くないかなと思った。暇つぶしにはちょうどいいと思った。しかしそんなに長くは続かなかった。