変態の天才
窓から差し込む風がカーテンを靡かせる。一年の中で今日こそが春だと確信できる心地よいそよ風を感じながら、俺は正面に座る文学少女に目を奪われていた。
美しい……。
ただ図書館で本を読んでいるだけなのに、それが水無月鈴音というだけで印象派の絵画でも眺めているような錯覚を覚える。きっと誰だって彼女を見ればそう思うに違いない。彼女の本を読む姿は100人の男がいれば100人が見入ってしまいそうな、魅力がある。
だが、そんな渓流のように心洗われる光景をぶち壊しにすることができる言葉を俺は知っている。
『生徒会長の調教備忘録 フランツ書院』
それが彼女の読んでいる小説のタイトルだ。
あ、ちなみにダミー表紙は『カザフスタンの食文化』というタイトルだ。彼女のコレクションは東南アジアだけでは飽き足らず、中央アジアにもその勢力を伸ばし始めていた。
現代を生きるチンギスハンの姿がそこにはあった。
と、茶番はこれぐらいにして、それにしても……。
目の前で読書に勤しむ鈴音ちゃんを眺めながら俺は呆れを通り過ぎて感心していた。
よくもまあ図書室でこんなにも集中できるものだ。彼女はもうかれこれ一時間近く、読み続けている。まあスマホで連載のプロットを練っている俺が言えた立場ではないけど、少なくとも俺の後ろには窓しかなく、図書館は三階なのでまず誰かに覗かれることはない。が、俺の正面に座る鈴音ちゃんはそうではない。彼女の後ろにはカウンターや隣のテーブルがある。現にさっきから何人かの生徒が彼女の後ろを通り過ぎているし、その気になったら覗けてしまいそうだ。
あ、ちなみに俺の名誉のために言っておくが、俺は最初、鈴音ちゃんに窓際の席を勧めた。が、彼女自身が「こ、こっちの方がドキドキします……」と言ってわざわざあちら側に座ったのだ。
彼女曰く、後ろを人が通ると恥ずかしくて胸がキュンってなるらしい。
たぶん彼女は日本一キュンの使い方を間違えている。
が、さすがに彼女も人目というものは気にしているようで、後ろを誰かが通り過ぎるときは、慌てて見開いた本に顔を埋めてやり過ごしている。
あと、これは余談だけど、時折、彼女が急に頬を赤らめたり、わずかに身を捩ったりするせいで、彼女がどのタイミングでその手のシーンに差し掛かったのかが、こっちから丸わかりだ。
小説に夢中になる鈴音ちゃんとは対照的に、俺のプロットは暗礁に乗り上げていた。
まあ当然と言えば当然だ。目の前の少女は俺の小説を愛読しているのだ。そして彼女はヒロインのモデルが自分だと知っている。つまり、ここで俺が過激な描写を書くことは、目の前の少女に、俺はきみを脳内でこんな風にめちゃくちゃにしていましたと告白しているようなもんだ。そのせいで、今一つ踏み込んだプロットが作れないでいた。
スマホと睨めっこしながら悶々とする俺。
と、そこで正面の変態文学少女が、不意に文庫本をテーブルに置くとカウンターへと歩いていく。そして、受付当番の生徒に何かを話しかけると、生徒から何かを受け取ってこちらへと戻ってきた。
「どうかしたのか?」
「なんだか彼女、疲れているみたいだったので、戸締りを代わりました。どうせ私は閉館までいますから」
カウンターを見やると、生徒は鞄を手に取ると鈴音ちゃんに頭を下げて図書館を出ていった。
そこで俺はいつのまにか図書室に俺と鈴音ちゃん以外に人影がないことに気がついた。
「この時間はいつもこんな感じですよ」
と、彼女は俺の心を見透かすように答えた。
「それよりも先輩……なにか私にお手伝いできることはありますか?」
「お手伝い?」
「小説のことです……」
「あぁ……」
変態ながらも心優しい鈴音ちゃんは俺の小説が停滞していることを心配してくれているらしい。
「ありがとう。だけど、大丈夫だよ」
そう答えると鈴音ちゃんは「そうですか……」と少し残念そうに答えた。その後、鈴音ちゃんは何か考えるように「う~ん……」としばらく唇に人差し指を当てていたが、不意にハッとしたように目を見開くと、何故だか頬を真っ赤に染めながら俺を見つめた。
「あ、あの……先輩……」
「ど、どうした……」
「い、いっぱい見てもいいですよ……」
「え?」
と、突然、わけのわからないことを言いだす鈴音ちゃん。俺が聞き直すと彼女は今にも泣きだしそうな瞳を見せて震える声で言う。
「そ、その……先輩の小説のモデルは私なんですよね?」
「そ、そうだけど、それがどうかしたのか?」
「だ、だからその……もしも先輩の小説の手助けになるのであれば、私のことをその……えっちな目でじろじろ見てもいいですよ……」
「す、鈴音ちゃんっ!?」
誰もいないのはわかっていても思わずあたりを見渡してしまう。
目の前の美少女が自分をエロい目で見てもいいと言っている。なんという悪魔の誘惑。いったいこの誘惑に屈しない男などこの世に存在するのだろうか。本気でそう思った。
しかも恐ろしいことに彼女の瞳はどこまでも澄んでいて、ただただ俺の小説の手助けがしたいという純粋な感情しか伝わってこない。
「わ、私のことなら心配していただかなくても大丈夫です。そ、その……ちょっと恥ずかしいですけど……そ、それで先輩のお役に立てるのであれば、どこからどう見て頂いてもかまいません」
「っ…………」
どこからどう見ても……。
ダメだ。心の中で罪悪感と男のロマンが殴り合って全く決着がつきそうにない。
確かに男としては魅力的な提案ではある。が、この全く濁りのない瞳の彼女を邪な目で見ることは、仏像の首に原宿で怪しい外人から買った十字架のネックレスを掛けるぐらい罰当たりなことのような気がするぞ……。
「…………」
「…………」
と、俺はどちらの決断も下せずに図書室を沈黙が覆う。
鈴音ちゃんは相変わらず澄んだ目で俺のことを一心に見つめていた。そして、先に沈黙を破ったのは鈴音ちゃんだった。
「せ、先輩って脚が好きですよね?」
「なっ!?」
あまりに予想外の質問に間抜けな声が出た。
「え、え~と、何の話かな?」
「わ、私、知ってます……。だって、私、先輩の小説の一番の読者ですから。先輩の小説は女子校生のスカートから出てくる太ももの描写が多いです」
鈴音ちゃんからの突然の指摘に、顔がみるみる熱くなる。
「ど、どうなんですか? 先輩……」
「そ、それは……」
結論から言うと、鈴音ちゃんの指摘は正しい。
正直なところ足の描写を意識的に描いたつもりはなかったが、俺の小説には無意識のうちに俺の性癖が投影されていたようだ。
「す、好きなんですよね……女の子の脚」
鈴音ちゃんの目は確信めいており、的中したのが嬉しかったのだろうか、わずかに笑みを浮かべている。
殺してくれええええええええっ!! 誰か今すぐに俺を殺してくれえええええ!!
生まれてこのかた味わったことのないような羞恥心が俺を襲う。
「わ、私、数えたんです。先輩のお役に立ちたかったので……。そしたら先輩の小説の描写は胸の描写に比べて、足の描写の方が3.14倍も多かったです……」
な、何だよ。その人生で全く役に立たない変態円周率はっ!!
嘘だろ……どこまでストイックなんだよ。この子は……。
鈴音ちゃんには全てお見通しなのだ。彼女はきっと俺の小説を、目を皿にして読んでいる。その中で彼女は完璧に俺の性癖を見透かしていた。
彼女の見た目に騙されてはダメだ。彼女の変態ぶりは俺の想像をはるかに凌駕している。
まるで彼女の掌の上で転がされているようだった。
「…………」
俺は羞恥心のあまり声を発することも出来ない。
と、そこで鈴音ちゃんは立ち上がる。彼女の頬もやっぱり赤い。きっと無理をしているのだ。本当は恥ずかしいはずだ。そうに決まってる。だけど、俺の小説のために体を張ろうとしているのだ。
「好きなんですよね……女の子の脚」
そう言って、鈴音ちゃんは膝丈のスカートの裾を指で摘まんだ。
「す、スカートはどれぐらいの長さがいいですか?」
「いや、それは……」
答えられるわけねえだろっ!!
「し、知ってますよ……だ、だってハルカちゃんのスカートの長さはこれぐらいですもんね」
そう言って鈴音ちゃんはスカートを五センチほど摘まみ上げた。
そして、その長さは俺の想像していたハルカちゃんのスカートの長さとドンピシャだ。
「せ、先輩。わ、私……先輩のお役に立ちたいです。これでもやっぱり私には先輩のお手伝いはできないでしょうか……」
鈴音ちゃんは覚悟を決めているようだった。
彼女は俺の小説を読むためならば、どんな苦労もどんな羞恥も厭わないつもりだ。
この目の前の親友の妹は、もしかしたら天才的な変態なのかもしれない……。