008 少女の受難
◇◇◇◇◇
沈みかけた太陽がゆっくりと空を赤く染め始めた頃。
人里から遠く離れた荒野を、一人の少女が足をもつれさせながら逃げていた。
少女を追っているのはドラゴン。
それも竜種の中でも強力な成長したドラゴンである老竜だ。
夕焼けよりも真っ赤な、深紅の鱗を持つ老竜が少女を追う。
「なんで、なんでこんなところにドラゴンが……」
少女は必死に逃げる。
「夢、夢? 夢じゃない……よね」
悪夢ではないかという思いがよぎる。
だが、皮膚が痛いと誤認するほど強烈な老竜の魔力が夢ではないと告げていた。
この辺りにはドラゴンなどいないはずだ。ましてや老竜などいるはずがない。
少女は懸命に逃げるが老竜の方が当然速い。
本気を出せば老竜は一瞬で少女を牙で捉えることができるだろう。
だが、狩りを楽しむかのように、獲物をいたぶるかのように、老竜は少女をじわじわと追い詰めていく。
「……こんなところで! 私は死ぬわけにはいかないんだ!」
相手が油断して、遊んでくれるなら、好機がある。
少女の懐には切り札となる魔法爆弾があった。
少女の国の最高の魔導師が、その技術の粋を集めて作った魔導具である。
それならば、強大な魔物すら倒せるはずだ。
「……この! これでもくらえ!」
少女は逃げながら、老竜目がけて爆弾を投げつけた。そして地面に伏せる。
こぶし大のそれは綺麗な放物線を描いて飛んでいく。
そして、その爆弾は老竜の頭に直撃した。
同時に凄まじい衝撃とともに、閃光が出て、大きな音が響く。
「今のうちに……」
切り札である魔法爆弾の威力は凄まじいものがあった。
だが、相手は老竜。さすがに殺しきるのは難しいかもしれない。
それでも、あれほど凄まじい爆発が直撃しては無傷では済まないはずだ。
今のうちに逃げ出さなければ。
伏せていた少女は、這うようにして逃げ始める。
その少女の耳に、
「…………GUOOOOOOOO!」
怒り狂った老竜の咆哮が聞こえた。
少女が老竜を見ると、どこにも傷がなかった。
「そ、そんな」
凄まじい衝撃と光と音は、老竜を一瞬驚かせただけだったようだ。
一瞬驚かせたのと引き換えに老竜は激怒させてしまった。
老竜は尻尾を大きく振るう。
少女は躱しきれない。
老竜の尻尾の先が少女の左肩をわずかにかすった。
直撃ではない。かすっただけだ。
だが、それだけで少女は大きく飛ばされて、地面に叩きつけられた。
「ぐぅ」
少女の意識は遠くなる。
薄れゆく意識の中、少女は興奮しながら近づいてくる巨大な老竜の姿が見えた。
老竜に捕まれば、生きたまま食べられることになる。
それを想像し少女は絶望に顔をゆがめた。
「だ、だれか……たすけて……」
ここは人里離れた荒野。
少女も誰かに助けが聞こえるとも思っていない。
それでも助けを求めずにはいられなかった。
巨大な老竜が、少女に食らいつこうとその口を大きく開ける。
「ひっ」
思わず少女は目をつぶる。
その直後、牙で貫かれむさぼり食われる……、はずだった。
だが、その瞬間は訪れなかった。
「GUAAAAAA!」
かわりに老竜の驚いたような悲鳴が上がる。
「え?」
少女が目を開けると、
「……なんでこんなところに老竜がいるんだ?」
ボロボロの恰好をした謎の男が老竜の鼻の辺りを素手で止めていた。
「な、なにが起こって……」
「GUAAAAAaaaa!」
怒り狂った老竜が咆哮しながら、口から熱い息を吐く。
その直後、熱い息に続いて火炎を吐き出した。
あらゆるものを燃やし尽くし融かし尽くすといわれている強力な竜の火炎が男を襲う。
男の全身が炎に包まれ、
「あぁ……」
少女は男が完全に死んだと思った。
だが、炎の中で男が右手を振るう。すると竜の火炎は一瞬で消え去った。
「どうした? 老竜。興奮しすぎだろう。発情期か? いや、竜に発情期はないよな」
なんだか、よくわからないことをブツブツ言いながら、男は竜の頭に手を触れる。
「……ふむ。魔導具で老竜を操っているのか。技術は凄いが……。碌でもないことをするものだ」
そう男が言った直後、老竜の頭付近から「ピシッ」という音が鳴る。
砕けた何かがキラキラと周囲を漂った。
「guo?」
老竜がきょとんとした様子で首をかしげる。
「大丈夫か? 記憶はあるか?」
「gyuo」
「そうか。何を言ってるのかはわからんが、落ち着いたのなら良かったよ」
「guu」
老竜は助けられたと思ったのか、ボロボロの恰好をした男に頭をこすりつける。
それだけでは感謝の表明に足りないと思ったのか、ベロベロと男の全身を服の上から舐めた。
「よしよし。巣に帰りなさい」
「gururu」
老竜はしばらく男に甘えた後、飛び立つ。
「もう、悪い奴に捕まるなよ!」
「GURUU!!」
お礼を言うかのように元気に鳴くと、老竜はどこかに去っていった。
「いったい……なにが……」
少女はその一連の出来事を呆然として見つめていた。