サクリー伯爵からの手紙
「おい、ロクサーリングこれも磨いておけよ!」
ドンッと目の前に無雑作に置かれた鎧。今日の雨の演習で汚れた鎧を押し付けられた。
入団して間もない奴らだったっけ。
入ってすぐに親の七光りで威張りちらしているシャウズ辺境伯嫡男の馬鹿息子。取り巻き達もニヤニヤと鎧を置いてゆく。5つの鎧を磨きあげると夜も遅くなる。
今日の俺は機嫌が悪い。
無表情に立ち上がると無意識に後退りやがった。つまんねえ。俺よりも一回りも小さい馬鹿息子を見下ろすと耳打ちしてやる。
「鎧も満足に磨けない坊っちゃんだもんな。いつもママに磨いて貰ってたんだろう?なぁ〜坊っちゃ〜ん」
目の前で馬鹿息子の鎧を踏むと胸当て部分がボコッと陥没した、普通ならあり得ない怪力に真っ青になって鎧を置いて逃げ出していった。
馬鹿が、弱い癖に絡んでくるんじゃねーよ。腹が立ち鎧を蹴ると壁に穴が開いたが知った事か。
俺が遠巻きにされるのは構わない、だが舐められたままだと戦闘で命に関わる事もある。俺は舐めて掛かってきた奴は徹底的に潰す事にしている。
団長は少しの間我慢して欲しいと俺達に言ってきたが団長だけ我慢していたらいいさ。
まあ実際2週間程で、こいつ等は名誉騎士として領地に帰ってゆく。そんな箔付けに使われている王立第2騎士団に俺は所属している。
俺はこの外見からよく絡まれる。絡まれ過ぎてどうでもいい小さな事は、面倒なので無視している。周りはそれを俺が達観しているのだと思っているようだが、逆だ。
腹の底は、常に煮え滾るマグマがうねり暴れている。昔の約束の為に俺は耐えているが、最近ではその約束さえ日々の生活の前には擦り切れてきた。たまに何故ここに居るのかわからなくなる時もある。
ユージン・ロクサーリング。
俺は今年23歳になる伯爵家の次男だ。伯爵家を継ぐのは兄貴がいるから安泰だ。俺は早いうちから家を出て騎士になった。
別に騎士に憧れていた訳でもなく、ある約束の為に強くなって手っ取り早く身を立てる為の選択だ。
異国風の切れ長の黒い目と固い黒髪は短く刈り込み、母譲りの褐色の肌はこの地ではかなり人目を引く。鍛えぬいた逞しい体。
俺が持っているものはこれだけ。
母は南にある小国の王女の1人で、外交で訪れた親父と恋に落ちて俺が出来た。物珍しさと南の開放的な土地柄に親父も馬鹿になったんだろうな。いや、違う親父は常に馬鹿だった。
子供が出来て慌てて嫁にして連れ帰ってきたが、この地にきて我に返ったそうだ。褐色の姫様なんてここにはひとりも居ない。急に冷たくなった親父に愛想を尽かした母は俺を産むとさっさと国へ帰ってしまった。
どうせなら一緒に連れてけよ。
親父の最初の嫁さんは、兄貴を産む時に亡くなったそうだ。母親の違う兄貴と1歳違いの俺からすると節操のない男だと呆れるだけだ。
差別はどこにでもある、未知なるものや、自分と違うものは弾きたくなるのが人間の性なのだろう。ウンザリだけどな。
「ジン話がある」
「なんだよ兄貴、わざわざ騎士団に来るなんて珍しいな」
「サクリー伯爵は知ってるか?」
「ああ、領地がやたらめったら豊かなとこだろ」
兄貴は馬鹿親父を領地に押し込め、さっさと当主になった人だ。残念ながら祖父は亡くなっていて兄貴と俺は親父というダメ人間がいたお陰で団結した。
殆ど兄貴が俺の親みたいなもんだ。
「実はシュバルツ侯爵家の当主から話が来てな、込み入ってるから何処かで話せないか?」
「いいぜ、どうせ後少しで交代の時間だ。ちょっと団長に言って早めに帰して貰うことにするよ」
「助かる」
いつも行く大衆食堂に兄貴を連れていった。俺は冷えたエール片手に熱々の茹でたウインナーにかぶりつく。兄貴は赤ワインとテールの煮込みを上品に食っている。
兄貴には悪いが、ここの食堂と兄貴の組み合わせが全然似合ってなくて笑える。
「で。込み入った話って?」
「あぁ、シュバルツ侯爵家の次男は知ってるか?」
「あー確か、顔だけは良い男だとか、顔しか取り柄のない勘違い野郎とか、上から目線のクソ野郎とかあんまりいい話は聞かないよな。確かあそこの家の爺さんが甘やかして駄目にしたって奴だよな?」
「その顔だけ次男が放逐されるそうだ」
「うげっ。何やらかしたんだよ」
「婚約の白紙だとさ」
「はぁ?!馬鹿かそいつ」
「馬鹿なんだろう?異界からきた聖女に乗り換えようとしてるらしいが、あの聖女にしたら遊び程度で眼中にも無いだろうよ」
「正真正銘の馬鹿だな、それとなんで俺が?」
「あそこの爺さんがサクリー伯爵に詫び入れる為に次の婚約者候補を見繕ってるんだよ。候補の1人それがお前だ」
「本当かそれ?!」
「あぁ、ただもう1人候補がいて、サクリー伯爵令嬢のお眼鏡に適った方が会えるけどな、と言うわけで明日立体水晶撮りにいくぞ」
「わかった。明日は非番だし丁度いい」
とは言ったものの選ばれるなんて思ってない。
数日後には、サクリー伯爵家から顔合わせしたいと打診がきた。物好きな娘もいるもんだ。
俺が見栄えのいい服なんか持っている訳もなく、久しぶりに王都の屋敷にやってきた。
「なんだエミリーいたのか」
「いたのかじゃないわよ!何年寄りつかないと思ってるの!」
ぶりぶりと怒っている美人は3歳下の兄貴の従妹だ。今年20歳になった兄貴の母親の妹の娘。艷やかな銀髪は兄貴と同じ、昔は羨ましくて仕方なかった。
怒っていても美しいエミリー。
「今日は一体どうしたのよ?」
「俺か?兄貴の服でも借りようかと思ってな」
「ええ!全く体型違うじゃない」
「俺も後から気がついたんだが、兄貴が仕立て屋をわざわざ呼んでくれてたんだよ」
「え?わざわざ仕立て屋を呼んだの?なにか凄い大事ね、式典か何か?」
「いや、俺の見合いだ」
「は?」
エミリーの顔色が変わって真っ青になっている。ごめんな、エミリーお前を傷つけたい訳じゃ無いのに。
「え…相手は?」
「サクリー伯爵家の一人娘」
「…そうなんだ」
兄貴の母親の妹は王弟殿下に嫁いでいてエミリーは王族だ。エミリアナ・スタンレイ姫。遥か彼方手を伸ばしても届かない存在。子供の頃に嫌と言うほど思い知った。
「ジンは忘れちゃったの?」
親しい者だけに許した愛称を呼ぶ俺の姫。まともに顔を見ることが出来なくて、俺は俯いたまま言った。
「今日は忙しい…帰れエミリー」
「………ジンの馬鹿!」
バタバタと走って帰って行く。家令に見つかったら淑女にあるまじきと怒られるのに。
エミリーが呟いた言葉。
忘れる訳がない、忘れる事なんて出来る筈もない。
◇◇◇◇
俺の味方は兄貴とエミリー。エミリーの両親である王弟殿下夫妻と屋敷の者達だけだった。
子供の頃から会うたびに兄貴の従妹は俺にベッタリで俺の何を気に入ってるのかは知らないけど。
物心つく頃から好奇や侮蔑の視線に晒されていた俺はよく王都の下町へ行っては悪餓鬼に混じって遊んでいた。アイツ等は肌の色も関係ない、強くてカッコイイが1番だから。
ある日こっそりついてきたエミリーが攫われそうになった時に自分の無力さを痛感した。なんとか大人を呼んで事なきを得たが、一歩間違っていたら今頃エミリーはこの世にいなかったかもしれない。
あの日、あんなに優しかった王弟殿下が、今まで見たこともない顔で俺を見た。
はっきりと感じた拒絶。
それと同じだけの絶望、本当はエミリアナが心から好きだった。純粋に向けられる好意に惹かれない訳がない。でも力の無い俺じゃ駄目なんだ。
攫われそうになって倒れたエミリーの見舞いに行った時、心に決めた事を伝えた。
「エミリー。俺、騎士になるよ」
「ジンが騎士になったら、エミリーをずっと守ってくれる?」
「ああ、ずっと守る」
「ずっとずっとだよ?約束だよ?」
「約束だ」
「…分かった、待ってるから」
俺は10歳で騎士になるべく家を出た。
強くなって俺を嘲笑った奴らを見返す為に、もっと強くなって大切な人を守る為に。
仮令それが側に居られないとしても、俺が戦う事でエミリーを守れたらそれで良かった筈なのに。見合いの話がきた時にふと思ってしまった。
俺自身が爵位を持ち功績を上げていったら、俺を嘲笑っていた奴らはどんな顔をするんだろう。
◇◇◇◇
「ユージン・ロクサーリングだ」
「グレース・サクリーと申します」
どこにでもいる焦げ茶色の髪と灰色の瞳、顔立ちは可愛らしいがそれだけだ。
「手を」
「は、はい」
彼女は真っ赤になってエスコートを受けている。どうやら気に入って貰ったようだ。
俺は冷静に観察していた。
庭園をゆっくりと案内していると、彼女は景色を見ずにぼんやりと遠くを見つめている。
彼女の肩の力が抜けたタイミングで質問してみた。
「何か考え事か?」
「あ、申し訳ありません。いえ、あの、ユージン様のように魅力的な方がいる世の中ですから、私よりも素敵な女性も沢山いらっしゃるのだろうと…」
「グレース嬢とお呼びしても?」
「は、はい。どうぞグレースと」
「私の事はジンと」
真っ赤になり頷く少女たしか17歳だったっけ。立ち止まり俺は彼女の顔をのぞき込み真っ直ぐに見つめて言う。
「グレースはとても魅力的だ。婚約の話は聞いた。グレースには悲しく残念だったかもしれないが、私にとってはチャンスが舞い込んできて嬉しい。会ってすぐにこんな事を言うのはおかしいかもしれないが、私では駄目だろうか?」
「え?!あの、いえ、ジン様その少しだけ考える時間を頂けるでしょうか?」
「あぁ、勿論だ」
余りにも容易い。
欲しい言葉を捧げて紳士として振る舞い彼女の信頼を得る。そこに喜びは無い。
何故か時折エミリーを思い出し、彼女に触れるのを躊躇わせる。無垢な彼女を見ていると砂を噛むような気持ちになる時がある。
それが伝わっているのか、彼女の瞳は常に不安に揺れていた。
サクリー伯爵令嬢と顔合わせをする様になって、エミリーがちょくちょく騎士団に顔を出すようになり2ヶ月が経つ。
「…エミリーまた来たのか」
「なによ来ちゃ駄目なの?」
他の人間には聞こえない様に小声で話す様子は何かと噂を呼ぶものだ。それでなくても俺は目立つ、エミリーには良くない。
今、エミリーには婚約者はいない。王弟殿下が何か考えていての事だと思うが、あの事件以来俺は顔を合せていない。
「噂になると不味いだろう?」
「別に構わないわ」
「は?騎士団に好きな奴でもいるのか?」
「…いたら、どうなの?」
「駄目だ」
「なんで?自分は良くて私は駄目なの?いい加減にしてよ!」
急にエミリーが走り去った。いつもと違うエミリーの様子に俺は追いかける。騎士団の敷地、木立の手前でエミリーを捕まえた。
木に縫い付けられたエミリーは、涙を溜めて俺を見上げる。
「ジンはサクリー伯爵令嬢が好きなんでしょう?私より若くて可愛いと評判だわ」
「そんな訳がない、彼女はまだ子供だ。そうだろう?」
「私が、私がずっと…うぅ」
とうとうエミリーが泣き出してしまった。馬鹿な俺。後悔が胸の中に広がる。好きな女を俺のせいで泣かせてしまった。
木に縫い止めた両手を外し、泣いているエミリーを抱きしめる。
「俺が心から愛しているのはお前だけだ」
腕の中にいるエミリーにありったけの気持ちを込める。
「愛しているエミリー」
背後の木立にいた人の気配が遠ざかる。
エミリーについている影かそれとも監視の人間なのか。もうどうでもいい、腕の中にいる宝物を手離すつもりはない。
「私もずっとずっと子供の頃から愛してるの!」
真っ赤に泣き晴らしながらも満面の笑みを浮かべるエミリアナ姫と、迷いがとれてスッキリした顔をしているロクサーリングが戻って来れば、お前らやっとくっついたのかと野次が飛ぶ。
「全く見ているこっちの身にもなれよ」
「本当だぜ、毎日イチャイチャしやがって!今度酒を奢れよな」
団長が俺に言う。
「ロクサーリング、エミリアナ姫を送って差し上げろ」
「了解しました」
エミリーと手を繋ぎながら、王弟殿下の会うのは10数年ぶりだといまさら緊張してきた。
「お父様、ずっと後悔なさってたわ」
ポツリとエミリーが零した。
「そうか…俺もなんだ」
結論から言うと。
「エミリーがどうしても君でなくては嫌だと言ってね、義理息子よ。長くエミリーを待たせてくれたじゃないか」
エミリーを長く待たせやがって、しかも泣かせやかってこの野郎と一発殴られた。
そして深々と腰を折り。
「あの日、エミリーを助けてくれてありがとう」
そう謝罪された。
エミリーから目を離したのは俺のせいでもない、エミリーが拐われそうになったのも俺のせいではない、身を呈してエミリーを庇い機転を利かせて大人を呼んでくれなければ今頃2人とも生きていなかった。
それなのにあの瞬間君を恨んでしまった事を許して欲しいと。
「エミリーがね、君の心が定まらない内に謝罪しても君は素直に聞かないからと会いに行くのを止められていて、結構辛かったんだよ僕等も」
そう王弟殿下夫妻はニコニコとしていた。
「まあ、でも、本当娘を選んでくれて良かったわ。これでエミリーが帝国に行かなくていいもの」
顔色を失くす俺にエミリーが教えてくれた。実は内々に帝国から側妃の話がきていたとか。高位貴族で婚約者のいない令嬢なんてそうそういない。
そう、いないのだ。
グレースが側妃として旅立ったと知ったのは3日後の事だった。
サクリー伯爵に婚約を辞退したいと手紙を送ると、エミリアナ姫との婚約の祝辞とエミリアナ姫の代わりとして既に帝国に旅立ったと返事がきた。その最後の文に俺は凍りつく。
『ユージン・ロクサーリング殿』
『最後に人の親として君に問いたい。
娘を騙すならなぜ最後まで騙してくれなかったのかと、娘は貴殿に淡い恋心を抱いていたと私は思っている。何故なら貴殿とエミリアナ姫の会話を立ち聞きした娘は私の前で崩れ落ちたのだ。
娘は2ヶ月前に婚約白紙を受けた。娘には一切瑕疵がないにも拘らず。その時でさえ私には顔色ひとつ変えなかった娘が。
わかるだろうか?私の気持ちが。
貴殿がもっと早くエミリアナ姫と婚姻を望み婚約を結んでいたら、そもそも貴殿との顔合わせをしなければ、私の娘は徒に傷つかなくてよかったのではないか、帝国には行かなくてよかったのではなかったかと思うと、娘に後悔の気持ちしか湧いてこない。
今後一切、当サクリー伯爵家は貴殿と、白紙にした子息の代わりにと貴殿を紹介したシュバルツ侯爵家との縁を望まない。
ヨハン・サクリー』
あぁ…俺は初恋が実り浮かれていた。
あの不安そうに揺れた瞳を持つグレースの気持ちやその家族の思いなど、この手紙を読むまで考えた事すら無かった。いや考える事すらしていない。
強烈な後悔と羞恥心で動く事すら出来ない。
サクリー伯爵家との縁が切れたとして、兄が当主のロクサーリング家はなにも揺るがない。何も揺るがないが、俺のせいで遺恨は残った。
俺は俯きサクリー伯爵からの手紙をいつまでも握りしめていた。