18.地獄を逃げ出した悪魔
翌朝になっても、悪魔はいびきをかきながら眠ったまま、目を覚まさなかった。朝食を作りに来た天使のミカさんは、悪魔が戻ってきているのを見て、ひどく驚いた。
「お兄ちゃん、起きなさい!」
ミカさんは悪魔の肩を揺さぶったが、悪魔は起きなかった。するとミカさんは悪魔の三つ叉の矛を取り出して、悪魔の鼻に突き刺した。
「ぎゃあ!」と悪魔は叫び声を上げて跳び起きた。
「痛いではないか。ワガハイを殺す気か」
悪魔は鼻をさすりながら、恨めしそうに文句を言った。するとミカさんは怒った顔で言い返した。
「お兄ちゃんは悪魔なんだから死なないわよ。それよりお兄ちゃん、なんでここにいるのよ。地獄の特訓はまだ終わってないんじゃないの?」
悪魔は気まずそうにうつむき、しばらく黙り込んでいた。やがて情けなさそうに顔を上げると、話し始めた。
「いや、実はな、特訓があまりに厳しかったので、つまりその、だ、脱走してきたのだ。あれではワガハイは死んでしまうと思ってな」
おれは悪魔のあまりのヘタレぶりにあきれ果てた。しかし、いかにもこいつらしいとも思った。
「だから、お兄ちゃんは悪魔だから死なないって言ってるでしょ。それよりどうすんのよ。それじゃあ地獄を追放されてもしかたないじゃない。地獄を追放された悪魔は行き場所がないから、消滅するしかないって言ってたじゃないの」
ミカさんは完全に激怒していた。悪魔はすっかりしょげかえっている。やがてミカさんは気を落ち着かせて言った。
「しかたないわね。大天使ミカエル様を通して、閻魔大王様になんとかしてくれるようにお願いしてみる」
朝食の後片付けを終えると、ミカさんは不機嫌そうな顔をして帰って行った。
おれと二人だけになると、悪魔は部屋の中を見回して、気がついたように言った。
「そういえば、ワガハイには何となくこの部屋が居心地悪いような気がするのだが」
「あんたがいない間に掃除したんですよ。押し入れの中もきれいに消毒しておいた」
悪魔は慌てて押し入れの中をのぞき込むと、その場にぐったりとへたり込んだ。
「ああ、何ということだ。ワガハイの心地よい居場所がこんなになってしまうとは。あの湿気のあるカビ臭い匂いが気に入っておったのに……」
悪魔がすっかり元気をなくしているので、おれはちょっと明るい話題を持ち出すことにした。
「そうだ、あんたがいない間に、おれにはガールフレンドができたんですよ。堅い女だから、まだ手も握ってないけど、昨日はこの部屋で夕食を作ってくれたんです。もっとも、あんたがほとんど食っちまったけど」
「おお、そうであったか。たしかにあの料理は絶品であった。しかしあの女は、うーむ、天使のような性質を持っておるようだから、ワガハイはちょっと苦手だ」
「敬虔なクリスチャンだそうですよ。結婚するまでキスもさせてくれなさそうですけど」
クリスチャンという言葉を聞いて、悪魔は不快そうな顔をした。
「うーむ、いずれは地獄の悪魔となるあんたには、あまりふさわしくない相手だな。他の女を探してはどうかね」
「これまであんたの助けを借りてナンパしたけど、全部失敗だったじゃないですか。彼女の他におれのガールフレンドになってくれる人を探すなんて、無理ですよ。それにおれは、彼女のことが好きなんです」
悪魔は困ったような顔をしていたが、うつむいて黙り込んでしまった。
するとそのとき、ケータイが鳴った。ナオコからだった。
「ねえ、今日の夕方は空いてるかしら。もう一度夕食を作りに行きたいんだけど」
「もちろん空いてるよ。うれしいなあ」
「あの悪魔さんというお友達もいらっしゃるんだったら、余分に材料を買ってくるわよ」
おれは悪魔の方をチラリと見た。悪魔は情けなさそうな顔をしている。
「ありがとう。そうしてもらえると助かるよ」
電話を切ると、おれは悪魔に言った。
「彼女があんたの分も夕食を作りにきてくれるそうです。これから掃除をしますから、手伝ってください」
「い、いや、ワガハイには掃除ほど苦手なものはないのだ。なにしろズボラで不潔好きな性格だからな。はっはっは」
「手伝ってくれなければ、夕食は食べさせませんよ」
悪魔はしぶしぶと掃除の手伝いを承諾した。