17.悪魔が帰ってきた
イタリアン・レストランでのランチの後、ナオコは映画を観たいと言ったので、近くの映画館へ行った。彼女が選んだ映画は真面目な文芸映画で、おれは途中で眠りそうになるのを必死でこらえていた。ナオコは映画にのめり込み、すっかり感動していた。
映画を見終わったときには四時を回っていた。おれは当初はどこか居酒屋で飲んで、あわよくば自分の部屋に連れ込んで、などとよからぬことを考えていた。しかし、ナオコが非常に貞操観念の強い女だということがわかったので、どうしたものかと考えていた。すると彼女は思いがけないことを言った。
「お昼をごちそうしてもらったから、お礼に夕食を作ってあげるわ。料理は得意なのよ。これから商店街で食材を買って、あなたのお家へ行きましょう」
「えっ、本当?」
おれの胸は期待に高鳴った。ミカさんに言われたとおり、部屋の中をきれいに掃除しておいて、本当によかったと思った。
おれとナオコは駅前の商店街へ行った。おれは普段はスーパーで済ませるのだが、ナオコは商店街の魚屋や肉屋、八百屋や乾物屋で買い物をするのだという。乾物屋では鰹節をその場で削ってもらい、肉屋でも塊肉を薄切りにしてもらった。八百屋でもその日のお勧めを聞き、じっくりと鮮度を確かめてトマトやレタスを買った。
買い物を終えて、アパートのおれの部屋に入ると、ナオコは感心するように言った。
「古いけど雰囲気があるわ。きれいにお掃除もしてあるし、感じのいいお部屋ね。なんだかとってもくつろげるわ」
おれはすっかりうれしくなった。台所用品はたいしたものはそろっていないが、ナオコは手際よく調理を始めた。包丁を使う手つきも見事だ。
Ⅰ時間ほどして、料理は完成した。盛り付けも美しく、見るからにうまそうだった。そして実際に食べてみると、これまで体験したことないほど美味だった。おれは本心から感動の声を上げた。
「ナオコちゃん、おいしいよ。本当においしい」
「そう言ってもらえると、うれしいわ」
ナオコも笑顔になった。するそのとき突然、ドアをノックする音がした。せっかくのいい雰囲気のときに、一体誰だろうと思ってドアを開けると、あのヘタレ悪魔が立っていた。
悪魔は疲れ切った顔をして、よろめきながら部屋の中に入ってきた。
「ワ、ワガハイは、も、もう、ダメだ……し、死ぬ……」
悪魔はふらふらしていたが、ナオコが作った料理を見つけると、ちゃぶ台の前に座り込み、手づかみでがつがつと食べ始めた。おれとナオコは唖然として、その様子を眺めていた。
「こ、この変わった方はどなたなの? あなたのお友達?」
「う、うん、まあそんなところだよ」
おれはせっかくいい雰囲気になっていたときに闖入してきた悪魔をうらめしく思った。悪魔は料理をすべて平らげると、横になってぐうぐうと寝てしまった。
「なんだかずいぶんお疲れのようだけど、大丈夫かしら? 死ぬなんておっしゃってたけど……」
ナオコは心配そうに尋ねたが、おれは平然と答えた。
「こいつは悪魔だから、死ぬことはないさ」
「悪魔ですって?」
おれは自分がまずいことを言ってしまったことに気づき、あわててごまかした。
「い、いや、こいつのニックネームだよ。漫画なんかに出てくる悪魔に似ているだろ? それにデーモン小暮に憧れているんだってさ。ちょっと変わったヤツなんだよ」
ナオコは親切にもタオルを濡らして悪魔の顔を拭いてやったり、タオルケットを掛けてやったりした。さらには、あり合わせの材料で病人用のスープまで作ってくれた。そうこうしているうちに夜の八時になった。
「ごめんなさい、ちょっと心配だけど、私そろそろ帰らないといけないわ。門限があるの」
「じゃあ、駅まで送ってくよ」
悪魔は相変わらず間抜けな顔をして、いびきをかきながらのんきに眠っている。おれとナオコは悪魔をそのまま寝かせておいて、部屋を出た。外は涼しい風が吹いていた。
「ごめんね、変なヤツにじゃまされちゃって」
「あら、いいのよ。なんだか楽しかったわ。夕食は今度また作ってあげるわよ」
ナオコの言葉に、おれはうれしくなった。駅の改札口を入ると、ナオコは笑顔で手を振りながら「じゃあ、またね」と言って、ホームの方へ駆けていった。