つめたいって
ベンチの手すりは思ったよりも冷たくはなかった。
僕の手はもうすでに冷え切っていたのだろう、むしろ少し暖かいくらいだ。
だんだんと掌が綿を握っているかのようにもわんもわんと痺れ、そのうちに右手の感覚はなくなった。
はぁと息を吐きかける。真っ黒な闇で、真っ白の右手だけが僕。心臓も目も鼻もあしくびも全部左手の中に集まってくる。黒い僕の唯一の白。
誰かに左手を見つかってしまいそうで、急いで黒いコートのポケットにつっこんだ。
ふとこんな話を思い出す。これも彼女がしていたのかもしれないな。
「ねえ知ってる?手が冷たい人は心があったかいんだよ」
誰が言い出したかもしれない都市伝説。なのにみんなが知っていた。
有名人、福沢諭吉が書いた著書も、太宰治の死んだ年もみんながみんな知るわけじゃあないのに。嘘か本当かもわからないこんな言葉をみんな知っていたんだ。
でも僕は嘘なんじゃないかなと思う。
なあ、これを僕に教えた君よ。僕の手を握って確かめてくれよ。
はんぶん
はんぶん
ポケットにつっこんだ左手はじわりじわりと温む。
「お前はほんとに昔からから揚げ好きだな」
「はふっ」
白く細い指が持つ揚げの袋はハシモト肉屋の牛マークが規則的に並んでいた。
彼女は僕を見た。
「嫌なことがあった時くらい。食べるのは。」
彼女は唇の端についた衣の粒を指で拭った。油で湿ったピンク色の唇は柔らかそうで、なんだかその行為自体があまりにも色っぽくて、祐樹の白い頬はしもやけに隠れてすこしだけ腫れる。
「そうやって野菜ジュース飲む癖だって、きっと治らないね」
「ねえ知ってる?直そうと思ってないんだよわたし」
「え?」
「嫌なことがあったら太るの気にしてるくせにから揚げ食べること。」
彼女はみっつめの肉塊をはふりと咥えた。袋からは湯気がちろりと上がったが、彼女が頬張ったそれが口内で転がるたびに吐息がふはふはと冬の公園を彷徨った。
「ねえ」
彼女の口にはもうから揚げは残っていないようだった。声はこもっていなかった。
「おかえり、祐樹」
―美香、ああ、ただいま
「寒いな」
僕は小心者だ。そんな簡単な言葉。言えなかった。
僕がこの町から消えた数日間。彼女はきっと僕よりもこの町に深く馴染み、この町に太い根を張った。僕がいないその数日間、彼女はどんな人生を送っていたのだろうか。ベンチから勢いよく立ち上がった。
僕はブランコを囲う枠にもたれかかった彼女のダウンジャケットの上から腕を強くつかんで、無理やり抱きしめた。
「祐樹、こわい」
「ねえ、行こう。二人で暮らそう」
僕はすでに僕ではなかった。抜け殻だと気づいたのはそれからずっと後のことだ。
ただ僕の中の逆流した血液と共に見境なく流れる感情を彼女の顔に注ぎ続けた。しかしどれだけ注いでもその美しい顔が紅潮し、笑いかけ、その優しい声で僕をなでることはなく、僕の耳に近い口元からは吐息の一つ聞こえなかった。無気力に彼女は僕に抱かれるままで、それ以上も以下もなかった。だんだんと僕の心はちくりちくりと痛み始める。
彼女は感情もださず、ただただ青白く乾いていった。僕は彼女を解放した。
―ああ、美香。そんな目を向けないで。
彼女は顔を深く、青く、塗り替えて僕を悲しそうな声でいなした。
「忘れてあげる。」
彼女ははっきりそう言った。言うべくしてそういった。
「忘れてあげる。」
「忘れないで」
「わかってるんだよ祐樹は。ねえ、“優希”?」
彼女は下を抜いたまま瞬きにしては少し長い瞬きをした。
ふっと呼吸をし、また白くあふれたその息が消えるまで時間は動かなかった。
彼女は言った。
どこまでもまっすぐでどこまでも淡白。すこし香ばしい油のにおいがした。僕は悲しかった。どこまでも悲しく少し笑えた。
「あなたは女の子なんだよ。優希。あなたはユウキじゃない。ユウキなの。」
頭はこんなにも冴えているのに、そんな言葉をかけられて僕は、彼女に僕の部屋の敷きっぱなしな汗を吸った薄い布団の上でめちゃくちゃに犯される場面を想像していた。そんな自分が嫌いだった。
今日僕が彼女に伝えたいこと、それは勢いで流れてしまった、「忘れないで。」だったのかもしれない。覚悟は言う前からあったのかもしれない。僕はもう消える気だったのかもしれない。僕はもう彼女に嫌われたいのかもしれない。なのにどうしてだろうかこんなにもやりきれぬ感情を脇息にもたれるようにはべらせたまま、なんとも苦い涙がこぼれた。
気づいたら手はどちらも冷え切っていた。
昔没にした短編を掛け合わせて一つにまとめました。
季節感の出る話では冬が書きやすいです。
次は夏の短編を上げます。
しらゆりのゆびわもよろしくお願いします!