中編
海外でお菓子の勉強をすると言って家を出た姉は、1年か2年で帰ってきた。
それが短いのかどうなのか透にはわからない。
両親が死んでひとりになった透は、姉は帰国しないものだと思っていた。
けれど姉は当たり前のように帰国して、さっさと仕事を見つけて透を養った。
透自身『仕事』をしているし、帰ってこなくていいと言ったけれど、
「私は決めたの。
日本で過ごすって」
と言われそれ以上の反論は許されなかった。
姉だって夢があっただろうに。
自分のせいで姉が犠牲になったのではと思うことが、時おりある。
それを一度言ったことがあるが、一笑にふされた。
「私が私の意志で決めたことよ。
あんたが気にすることじゃないわ」
そんな姉が結婚して、家を出る。
いつか訪れることと理解はしていたことだけれど、本当にこの家にひとりになるのかと思うと妙な気分だった。
一階は店舗となっているこの家は、正直広すぎる。
自分が出て行った方がよほどいいのではと思うけれど、たぶん姉は聞く耳を持たないだろう。
姉が決めたことに反対する気はなかった。
相手の家族との挨拶と言うイベントをこなした後、透が結衣の結婚式について何かすることはなかった。
大学入学まで大してすることもないので、休みの日は普通に「仕事」を入れていた。
人に仇をなす妖怪たちを打ち滅ぼすのが透がしている仕事だった。
もともと母親がそう言う仕事をしていて、透があとをついだような形だ。
結衣もそう言うことができるが、滅多にその力を行使しない。
淡々と日々を過ごしている間に、姉が段ボールを用意して荷物を詰めていることに気が付いた。
引越しの日が近いのだろうか。
そう思うと、胸がみしりと音を立てる。
結衣がいなくなる。
わかりきっていることだし、いなくなると言っても近所に住むのだから大して変化はないようにも思う。
親が死んだ時点で、ひとりになると覚悟したし、その時期が若干ずれ込んだだけなのだから。
春休みに入り、緋月が家に入り浸るようになっていた。
「週末は泊まってもいいですか、透さん」
どこか不安げな目をして問いかけてくる幼なじみの申し出を、断ることなどできなかった。
「一泊だけなら」
そう答えると、ぱっと表情を明るくして、透の手を握り、
「十分です。
ありがとうございます、透さん」
と言った。
緋月は、時々家にいられなくなってしまう。
以前はそんなことはなかったが、中学生になってからお願いだから泊めてほしいと言うようになっていた。
中学生にもなれば親に反抗するなど当たり前だろうが、緋月はそれができず、抑圧されているらしい。
さすがに中学生をしょっちゅう家に泊めるわけにはいかないので、試験あけとか条件を付けて許可をだし、彼の親にも報告をするようにはしていた。
父親はあからさまに嫌そうな感じだが、母親はあっさりと許可を出していた。
彼の両親はかなり温度差がある。
子供に、というより緋月にはかなり厳しく家に縛り付けようとする父親に対し、母親はかなり放任だった。
正直なぜそんな極端なふたりが結婚したのか理解に苦しむことがある。
緋月に厳しい父親のほうが、放任でフリーダムな母親に惚れているのだというのだから。人を好きになったことなどない透にはわけがわからない領域だった。
食卓に並ぶのは、鯖の味噌煮に大根とカボチャの煮物。それにキャベツとポテトのサラダ、味噌汁だった。
「いいなあ、ひとり暮らし」
心底羨ましげに言う緋月だが、透には理解できなかった。
どうせたくさんの妖怪がこの家にいるのだ。
ひとりになど、決してならない。
「僕、たぶん大学生になっても家出ること許されないですよ」
緋月の言葉にどう反応していいかわからず、透は黙ったまま煮物に箸を伸ばした。
「透さん、大学には家から通うんですか?」
「ああ」
結衣の結婚を知る前から、そう決めていた。
正直引越しが面倒だし、透の中で家を出る、という選択肢はなかった。
視界の端に、家鳴りたちがダイニングを出て玄関へと向かってくのが映る。
ほどなくして、玄関のドアが開く音が聞こえた。
姉が帰って来たらしい。
お帰り、と騒ぐ家鳴りたちの声が聞こえる。
「ただいまー」
「あ、お帰りなさい、結衣さん」
緋月が箸を置いて立ち上がり、姉を出迎える。
「お帰り」
顔を上げて姉を見れば、手にビニール袋を持っていた。
「ケーキもってきたから後で食べましょう」
言いながら、結衣は袋から箱をだしそれを冷蔵庫にしまう。
「夕食すぐ食べますか?」
「うん。ありがとう、緋月君」
そう言って、結衣は自分の部屋に荷物を片づけに入って行った。
その間に緋月は結衣の食事の用意をする。
「ゆいー! 俺たちには? 俺たちには?」
着替えて部屋から出てきた結衣に、家鳴りたちが目を輝かせて尋ねる。
彼らは結衣のケーキが目当てなのだ。
結衣はしゃがんで、家鳴りたちににっこり笑って見せた。
「ちゃんと買って来てあるわよー。
でも、夕食の後でね」
「わぁい!」
手を上げて全身で喜びを表現する家鳴りたち。
そんな彼らに手を振って、結衣は透の隣の椅子に座った。
そこに緋月がご飯やおかずの皿を置いて行く。
「ほんとありがとう、緋月君。
超助かるー!」
姉はそう言って緋月に笑顔を向ける。
緋月は首を振り、
「いつもおせわになってますし、これくらいは。
お飲み物はどうします?」
と答えた。
「じゃあ、お茶お願い」
「わかりました」
中学1年生にこんなことをさせているのはどうかと思うが、透自身あまり料理はできないし、言えることはなく黙々とご飯を食べ続けた。
「ねえ、透」
「何」
「明日、引っ越すわ」
「そう」
とくに驚きもなく頷いて、黙々とご飯を食べる。
「え、明日ですか?」
緋月のほうは目を丸くして、お茶を淹れる手を止めた。
結衣は緋月のほうを見つめ、
「緋月君の反応、いいわぁ。
透って何言っても驚かないんだもの」
と、心底感心した様子で言う。
驚くも何もないだろうと思う。
だいいち、荷造りしているのは気が付いている。近々引越しをするのだろうということくらいすぐわかるし、姉の性格上、前日などに言うことくらい予想できる。
ゆえに驚く要素は透的には何もないのだが、姉は不満らしい。
緋月は苦笑して、お茶の入った湯呑を結衣の前に置く。
「まあ、透さんですし。
驚いたところあまり見たことないですもん」
「そうなのよねえ。
ちょっとは驚いてほしいんだけど、サプライズのしがいがないのよねえ」
言いながら、姉はため息をつく。
「でも、ご近所ですよね。
なんでこの町にすもうと思ったんです?」
「え? だって、近所にケーキ屋なんてないし。
いろいろリサーチした結果、そう決めたの。
いただきまーす」
言いながら、結衣は手を合わせた。
「まあ、確かにケーキ屋さんてないですね。
デパートに入っているものくらいしか、この辺りにはないですよね」
「そうなのよー。
不便じゃない?
この商店街もシャッター増えたしねー。
今出店すると助成もあるのよね。商店街的には大歓迎よ」
透はそんな姉の話を、半ばうわの空で聞いていた。
明日からひとり暮らしになるらしい。
実感がわかない。
透の足もとでは、家鳴りたちがじゃれあって遊んでいるし、もともと店舗に飾ってあった古い柱時計の付喪神は、リビングの隅で猫の妖怪であるお銀さんや狐の妖怪と一緒に一杯ひっかけている。
他にもこの家は付喪神がいるし、座敷童までいる。
「結衣が出て行くなんて寂しいねえ」
しみじみと、大きな三毛猫であるお銀さんが言う。
「そうだなあ。
結衣ももういい年だからなあ」
白いひげを生やした老人の姿をした時計の付喪神が、お銀さんのもつおちょこにお酒を注いでいく。
「そうだねえ。
結衣は30いくつだっけ?」
「まだ私20代だから!」
食卓から、結衣は酔っ払い妖怪たちに抗議の声を上げる。
妖怪たちはそうだっけー? とかなんとか言いながら、酒をあおり緋月が作ったつまみを食べていた。
「我々にとって、人間の10年なんて大した差ではありませんですからねえ」
顔を紅潮させた白い狐の妖怪はそう言って、おちょこの酒を一気に飲んだ。
「おぉ、言い飲みっぷりだねえ、狐殿」
「今日はとことん飲もうと決めているのですよ。
だって、結衣が出て行ってしまうんですよ?
透だけになっちゃうなんてねえ……」
言いながら、狐はしみじみとした様子でため息をつく。
「透ひとりで生きていけるんかねえ。
なあ、お銀さん」
「そうだねえ……まあ、また痩せそうだねえ」
妖怪にまで好き放題言われ、若干傷つくけれど言い返す気にはなれなかった。
彼らには勝てない。
何と言っても年齢100年を超える妖怪たちだ。言い返したところでフルボッコにされる未来しか見えない。
食事を終え、食器を片づけてさっさと自分の部屋へ引き取ろうとしたとき、後ろから腕を捕まれた。
振り返れば、結衣が箸を持ったまま透の腕を掴んでいた。
その手と彼女の顔を見比べて、透は首をかしげた。
「何」
「ちょっとは私に付き合いなさいよ」
「付き合うって、何」
わけがわからず目を瞬かせると、姉はにこっと笑い、
「あの子たちと飲み会やるのよ。
だからあなたも付き合いなさい」
と言った。
未成年だし、騒がしいのは好きではない。
だからできれば全力で部屋に逃げたいが、姉はそれを許さなかった。