前篇
山は赤や黄色に色を変え、日々寒さも増してきている。
中間試験を終えた笠置透は、年の離れた姉と夕食をとっていた。
2年前、透が高校1年生の時に両親が死んだ。
お菓子の勉強の為に海外にいた姉の結衣はすべてを置いて帰国して、この大きな家で暮らしてきた。
「私、結婚するわ」
何の前触れもなく、結衣は真顔でそう言った。
特に驚きもなく、透はそう、とだけ言って、味噌汁をすする。
それが少し気に入らなかったらしい結衣は、苦笑して、
「もう少し驚いてくれてもいいじゃない」
と言った。
驚くも何もないだろうと思う。
結衣の交際相手には会ったことあるし、彼女の年齢を考えればいつ結婚してもおかしくないと思っていた。
反応に困っていると、姉はまあいいわ、と言って言葉を続けた。
「同じ町内には住むし。
何かあればすぐ言いなさいよ」
「町内?」
「えぇ。
神社の近くでケーキ屋やるの」
その言葉を聞いて、ご飯を食べていた手が止まる。
てっきり出ていくように言われるかと思った。
けれど今の話からすると、姉が家を出るらしい。
「……本当に?」
「えぇ」
元々、この家の一階で両親はケーキ屋を営んでいた。
姉もパティシエだ。
ここならば設備も整っているし、わざわざ新しい場所を確保しなくてもいいだろうに。
なぜ姉はここで店をやると言わないのか不思議だった。
「ただ一つ心配なのよねえ」
「何が」
「あんた、放っておくとご飯食べないじゃない」
「夕飯は食べてる」
「ひとりだと食べないじゃない。
面倒臭いとか言って」
姉の言うとおりだった。
食べることに無頓着で、特に朝食や昼食はチョコレートやココアだけで済ますことが多い。
ひとり暮らしになったらどうなるだろう?
毎日は食べないかもしれない。
それでも生活できているし、特に倒れたりとかはないのだからいいのではと思うけれど、姉はいろいろと口うるさい。
「ちゃんとご飯は食べなさいよ? ただでさえほっそいんだから。
だいたい、チョコレートが主食ってどうなのよ?」
食べながら結衣はいかに食事が大事かを語りだす。
今まで何度も耳にしてきた言葉なので、透はそれらを聞き流し、食べ終えるとごちそうさまと手を合わせて、さっさと食器を片づけた。
「あ、ちょっとぉ! ねえ、透! 来週の日曜、向こうの両親と挨拶するから! 仕事入れるんじゃないわよ!」
自分の部屋へ向かおうとすると、背中からそう声をかけられる。
相手の両親と挨拶。
いわゆる顔合わせと言うものかと思うとすこし面倒に思う。
両親もいなければ親戚もいない。だから結衣の血縁者は自分だけだ。
だから透がその顔合わせに出るしかないのだが。
高校3年生には荷が重い。
「式っていつ?」
ふと気になって姉を振り返り尋ねれば、
「6月よ」
と短く答えた。
6月とはずいぶん先だなと思う。
ジューンブライドとかそう言うのを気にしてなのだろうか。
「なんで6月」
「え? 6月の花嫁は幸せになれるっていうじゃない? だからよ」
まさか本当にそんな理由とは思わず、透は何を言っていいかわからなくなりとりあえず頷いて自分の部屋へと向かった。
暗い部屋でひとり、ベッドに横たわり、音楽をかける。
大好きな洋楽のハードロックだ。
来年から、この広い家でひとりになるのか。
そう思うと、不思議な気分になる。
両親が事故で死に、2年が過ぎた。
ふたりで暮らすにも広すぎる家に、今度はひとりになる。
親の遺産もあるし、透自身働いてはいるので生活費に困ることはないだろう。
学費は出すと、親の友人に言われた。
「ひとり……」
いや、正確にはひとりじゃない。
「とーる。ねてる?」
「ゆい、家出るの?」
わらわらと、小さな鬼がベッドへとはいあがってくる。
彼らは家鳴りと呼ばれる小鬼だった。
家をきしませ、音を立てる妖怪だ。
この家にはたくさんの妖怪が住んでいる。
家鳴りはよく姿を現す妖怪だった。
「寝てない。
結衣……姉さんは結婚するって」
「結婚?」
「結婚?」
小鬼たちは、弾んだ声で言いながら、透の身体に張り付く。
「ゆい、結婚するの?」
「ゆいが結婚? ほんと? ほんと?」
「嘘は言わない」
小鬼の頭を撫でながら透が言うと、別の小鬼が俺も撫でろと主張する。
家鳴りらの頭を一通り撫でると、彼らは気持ちよさそうに身体を丸めた。
「でも、とーるひとりになる?」
「ひとりじゃないよ! おれたち居るもん」
そう言って、家鳴りの一人が頬を膨らませる。
「そうだよ、とーるひとりじゃないもん。ねー、とーる」
言いながら、家鳴りは透に頬ずりして同意を求めた。
それに何も答えず、ただ彼らの頭を撫でてやった。
その週の日曜日。
姉は仕事でおらず、透は午前中『仕事』で外に出ていた。
昼過ぎに家に帰ると当たり前のように幼なじみが家にいた。
サラサラの黒い髪に二重の瞳。縁なしの眼鏡をかけた、アイドルのような可愛らしい風貌の少年。
甲斐緋月。
透より5歳下の彼は、この家にしょっちゅう出入りしている。
結衣が家の鍵を渡しているので、誰もいなくても家に上がっているのが常だった。
リビングのソファーに隣り合って座り、透は姉が結婚することを伝えた。
すると緋月は目を丸くして、透のほうへ身体を向けた。
「え、じゃあ、透さんひとり暮らしになるんですか?」
明確には間違っているが、人間はひとりだし。
透が何と答えていいか迷っていると、緋月は透の手を掴んで、じっと、目を見つめてきた。
「大丈夫なんですか? 食事、ちゃんと用意できます?」
姉と同じことを言われ、透は目を瞬かせ、心底心配そうな顔をする幼なじみを見た。
「僕がお食事つくりに来ましょうか?」
思いもよらぬ申し出に、尚更どう答えていいかわからず固まってしまう。
この幼なじみは、抑圧的な父親が苦手でよくこの家に逃げてくる。
古い神社の跡取り。
しきたりや因習に縛られている彼は、それが息苦しくなる時があるらしく、透の家に泊まることが時おりあった。
透も結衣も拒みはしないが、緋月の父親から小言をよく言われる。
透が何も答えずにいると、沈黙を肯定と捉えたらしい緋月が、嬉しそうな顔をして、
「じゃあ、毎日ここに来ますね」
などと言いだした。
さすがにそれはまずいだろうと思い、透は首を横に振る。
「お前、中学生だろう。家帰れ」
すると、緋月はあからさまに不満げな顔をする。
「たしかに来年になっても中学生ですけど、でもここにきてご飯作るくらい大丈夫ですよ」
「部活があるだろう」
そう言うと、緋月の視線が泳ぐ。
「……えーと……」
緋月は剣道部だ。
中学の体育会系の部活など毎日練習があるはずだ。
緋月はそうですけどでも、とかなんとかぶつぶつ言っている。
「俺は大丈夫だから」
と言うと、緋月は疑いの視線を透に向けた。
「……土日は来ていいですか」
「なんで」
「土日でしたらお休みですし、土曜日練習あったとしても、遅くはなりませんから」
どうやらどうしても来ないと気が済まないらしい。
可哀そうかなと思い、透は頷いて、わかったと言った。
すると、ぱっと表情を明るくさせて緋月はありがとうございますと言った。
ありがとうと言うのは自分のほうではないだろうか、状況的に。
なにせ食事を作りに来るというのだから。
そうは思うものの、口には出さず、透は握られていた手をそっと引いた。
「6月の花嫁ってなんだかロマンティックですね」
何がロマンティックなのかわからず、透は首をかしげココアの入ったマグカップを手にする。
これは自分で用意したものではなく、緋月がいれてくれたものだった。
牛乳と純ココアで作ってくれたココアは、透向けに相当砂糖がいれられている。
「でもなんでジューンブライドって幸せになれるっていうんですか?」
「ブライダル業界の陰謀」
真顔でそう答えると、緋月は苦笑いを浮かべる。
「それはそうかもしれないですけど、ちゃんと根拠とかないんですか?」
「女神」
「え?」
「6月の語源、女神ユノーが結婚とかの女神で、6月に結婚すると祝福を受けられるから」
「そうなんですか?」
「あぁ」
かなり略したが、間違ってはいないはずだ。
「式はどちらでやるんですか?」
「知らない」
そう言えばそこまで聞いていない。
まだ先のことであるし、透のすることなど相手方との挨拶くらいだ。
当日何かするのだろうか?
結婚式など出たことないからわからなかった。
「結衣さんのウェディング姿、楽しみですね。
クールな美人さんですし」
「……で、お前は今日何しに来た」
結婚の話は正直知らないことも多いので話題を変えようと、透は緋月が今日来た理由を聞いた。
どうせ理由などないのだろうが。
彼はほぼ毎週、試験期間であってもこの家に来る。
緋月は目を瞬かせ、
「遊びに来ました」
と答えた。
「家帰れ」
「嫌ですよ。
宿題でしたらちゃんと持ってきましたし。着替えだって持ってますよ」
話の内容から、どうやら今夜ここに泊まる気でいるらしい。
「なんで泊まる話になるんだ」
「試験終わったら泊まっていいって言ったじゃないですか、透さん。
ちゃんと親の許可は得てますよ」
そんな約束しただろうか。
正直覚えていなかった。
けれど緋月が言うのならたぶんしたのだろう。
「だから、今日夕飯は僕がご用意しますね」
と、当たり前のように言って、緋月は笑って見せた。