上を向いて
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4月
もう既に、全国ネットの放送局は、首都東京の桜が散ってしまったからなのか、桜や花見の実況放送で、大騒ぎする事を、過去のものとしてしまった、そんな季節。
標高400メートルもある長野市は、未だ桜の開花に至らず、地方テレビ各局のニュース番組でしつこく、
桜のつぼみの膨らみ様と、開花予想日をアナウンスしている…そういう時期の事。
長野市の市街地中心部から、北東に位置する、一大ベッドタウンで尚且つ、学園都市としての様相を保つ、ここ北部団地では、真新しい学生服に身をまとった者、だいぶくたびれた制服を着崩す者など、
花はまだ咲かずとも、新学期という節目を過ごしている。
「学校法人 私立青嵐学園」
小中高の一貫教育を旨とし、関東圏の一流大学への進学率も、県内トップの進学校である。
新学期、各ガイダンスを終えて、いよいよ通常の授業が開始されて数日。
学園の生徒達は、新たな出会いと、新たな学園生活に胸を膨らませている最中、
たった一人だけ、不機嫌さを露骨に表情に出しながら、
全てを拒絶するかの様に、心を閉ざし、自らの殻に閉じ籠った少年がいた。
彼の名前は、土岐玲一
今年、就職を訳あって断念し、青嵐学園中等部から、高等部に進学した少年。
玲一の本家にあたる、陰陽師の「高槻家」。その本家筋から、就職を許さず、そのまま青嵐学園高等部に進学する旨、「命令」が下ったのだ。
…従わなければ、高槻家の保護を打ち切り、後見人を解消し、児童保護施設に送るという、従わざるを得ない、強烈な脅迫を盾に。
本来ならば、この件が、玲一の今年起こった最大最悪の出来事であったのだが、
それ以上に、玲一、そして妹のこよみにとって、ショッキングな出来事が、起こってしまったのだ。
青嵐学園の昼休み、弁当持参の生徒たちは、それぞれの教室で昼休みを過ごすのだが、高等部には、売店だけではなく、学生食堂が解放されている。
だが、賑やかな場所をひたすら避ける様に、教室ではなく、学生食堂でもなく…、売店で購入した牛乳パンと、自動販売機で購入したブラックの缶コーヒーを持って、
高等部校舎の屋上から、古くから善光寺平と呼ばれる長野市街地眺めつつ、独りで昼食を取る土岐玲一。
せっかく晴れ晴れとした、春の陽気の中、景色もろくに見る事無く、ただただ、定まらない視点で、ぼんやりと宙を眺めていた。
事の始まりは、まだ春休みの頃。三月後半の出来事である。
生活費を稼ぐ為に、バイトに明け暮れていた矢先、玲一の元に現れた女性教諭。
高槻家総代(高槻家の代理を務める、檀家代表)の藤間橙子。
緊急に会議が行われるから、妹のこよみを連れて、高槻家に顔を出せと、彼女が命じた事が発端。
その命令を拒否出来る訳が無く、玲一とこよみは、指定された日時に、大きな、大きな…高槻邸を訪れたのだ。
巨大な和風庭園の奥にドカリと構える、木造の巨大な母屋、邸宅。
自分自身が「高槻」玲一の名前だった頃の、当時の記憶では、今は亡き父と母の後に従い、そして幼いこよみの手を引きながら、父の兄にあたる本家、高槻の長…高槻征吾の元へ、何度か挨拶に出向いた事がある。
隅々まで手入れされた庭と、歴史を感じる母屋。
そこで出迎えてくれた叔父、高槻征吾は、巌の様な巨躯からは、想像出来ない程の笑みをもって、玲一たちを出迎えてくれた。
しかし、父が病で逝った後、分家としての価値を見いだせなくなったのか、玲一たち母子は分家の家から追い出され、母方の姓である「土岐」を名乗る事に。
追い打ちをかける様に、母が亡くなった事で、もう二度と、本家の敷居をまたぐ事は無かったのだ。
記憶に残る、本家のたたずまい
だが、あの頃と全く変わらない風景が、今はまるで違う世界に見える。
「自宅以外に還るところがある」「血族の本拠地、ルーツの中心」
そういう、何か暖かみのあった場所が今は、寒々しく、忌まわしく思え、待ち構える空間そのものが、まるで玲一を拒否するかの様な、圧倒的な拒絶感を、隠そうともせずに、威風堂々と放っている様にも思えた。
大きな玄関で待つ、檀家の女性たち。年配の女性に案内され、中庭を「コ」の字に囲む廊下を、長々と歩く。
動揺を気取られない様に、表情を殺しながら歩く玲一。こよみは怯えながら、玲一の服の裾をつかみ、極力周囲を見ないよう、玲一の背中を凝視している。
通されたのは畳の大広間。どこまで奥行きがあるのかと、眼を凝らしてしまう程に広い広間。
そこにテーブルがずらりと据えられ、向かい合う様に、檀家の人々が座っている。
いよいよもって恐怖に耐えられなくなったのか、こよみの身体がガクガクと震え、玲一の学生服の裾から、それがはっきりと伝わって来た。
こよみの手を取り、大丈夫、大丈夫だよと励ます玲一。
案内されて二人が座ったのは、広間の一番奥。つまり、一番地位が高いとされる上座。
本来なら高槻本家の主人であり当主の、「高槻謙吾」が座らなければらならい場所。
事情も知らされず、ただただ、檀家の人々の好奇の目に曝される二人、ただ、その視線の熱量と質は、兄と妹ではは全く違う。
玲一にはトゲトゲしい敵意の視線を、ありとあらゆる方向からぶつけ、こよみには親近感のこもった安らぎの視線をたっぷりと注ぎながら、二人が戸惑いながら上座につくまで、それは絶えず続いたのだ。
上座の隣には、檀家代表である藤間家の当主、藤間禄三郎が。
そして禄三郎の下座側には、玲一を悪夢に陥れた、禄三郎の娘、橙子の姿が。
二人とも全くと言って良い程に表情を隠し、橙子の冷たくも透き通る開始宣言をもって、陰陽師「高槻家」の臨時総会が始まった。
地獄だった
恐怖と、怒りと、絶望に押し潰されそうになりながら、議事の進行を見守る二人。
身元保証人、身元引受人の関係を解消すると言う、伝家の宝刀を抜かれれば、玲一もこよみも、ひとたまりもない。
だからと言って、ここまで分家に対して冷たくして来た本家側に対して、要求された内容を、無条件で受け入れる積もりも無い。
……何とか交渉で……
せめて交渉で、五分五分といかないまでも、兄妹二人の生活を、最低限守らなくては。
そう決意していたものの、玲一の思惑などまるで、突風にさらされたロウソクの灯りの様に、簡単に消し飛んでしまった。
結論として、ささやかでも笑顔溢れる、玲一とこよみの、二人だけの生活は、今日終わったのだ。
驚くべき内容が、まだ幼い兄妹にもたらされた。
玲一とこよみの従兄弟にあたる、本家の当主「高槻謙吾」が、既に、一年前に、失踪していたと言うのだ。
謙吾の両親は震災時に亡くなり、本家血筋は長男の謙吾が柱となっていた。彼が命綱だった。
玲一たちより、多少年齢は高く、今年で27歳。
いよいよ、謙吾が新たな伴侶を得る様な年頃となり、檀家の人々も、高槻本家が繁栄する事を、当たり前の様に、期待していた。
だが、その謙吾が、何の理由かもわからないまま、忽然と姿を消してしまったのだ。
この土地に高槻がおらず、祀りごとが出来ないとなれば一大事。
当初から、檀家の人々は警察とも相談しながら、必死に謙吾を捜索していたのだが、
彼の行方は一向にわからず、何の手がかりも掴めないまま、数ヶ月が経過したある日、
高槻家を掃除していた檀家のボランティアの女性が、手紙を発見する。
手紙の主は高槻謙吾。檀家の人々に対して、今後の指針を、指し示したものだった。
「もし、一年経って私が帰って来なければ、一年も十年も同じ事。第三十六代目高槻家当主に、土岐こよみを迎え、
万事、祭祀の滞り無きよう、檀家の皆様にお願い申し上げます」
自分の抜けた穴は、こよみで埋めてくれ。
それが、高槻謙吾の希望であり、高槻の血を絶やす事を避けた、残された檀家衆が取るべき、最後の手段であったのだ。
だから、この場にいる檀家衆は、玲一に酷く冷たく、こよみには気持ち悪い程に、優しかったのだ。
「高槻の血を繋ぐと言う、崇高なる目的の為に、こよみ様には御協力いただく。分家の養子、玲一を長男とは認めない。その血に価値が無いから。余所者は黙って、茶でも飲んでろ」
決して口には出さないが、目的がはっきりしている檀家衆にとって、玲一は極めて邪魔で、目の上のたんこぶでしかなかった。
だが、玲一たちも黙ってはいられない。
保証人の関係をチラつかされ、脅されても、絶対に譲れないものがある。
兄と妹がバラバラにされ、別々の生活を強いられる事だけは、何とか阻止しなければならない。
玲一が強弁し、それを冷たくあしらわれようとも、こよみが涙ながらにそれを拒否しても、
檀家衆の攻勢は続き、そして場は荒れながらも、ひとつの結末へと進んで行く。
どえだけ時間が経ったのか…
善光寺平、長野盆地を囲む山々の残雪を、オレンジ色に照らしながら、太陽が沈み始めた時、全てが決した。
高槻との養子縁組は白紙。玲一もこよみも、母方の姓である、土岐の名前を守った。
しかし、今現在住んでいるアパートは引き払い、高槻本家を、兄妹の住処とする事。
こよみは陰陽師の修行に入り、高槻の祭祀を滞り無く行う事に決定。
しかし、第三十六代目当主の座は空位とし、こよみの立場は、高槻謙吾の名代とする。
名代…つまり、謙吾の代理役で話をまとめたのは、玲一のファインプレーでもある。
こよみがもし、三十六代目となってしまえば、謙吾は過去の人となってしまい、
三十七代目以降は、こよみの血筋…将来誕生する、こよみの新しい家族に、その白羽の矢が、当たってしまうからだ。
本家側の意向を汲みながらも、いつでも逃げ出せる体制は整えておく。
二人の人生を狂わせた高槻に、これ以上どっぷりと浸からない為にも、
罵声や怒声を浴びながらも、玲一が必死に闘った結果でもあった。
だが、最後の最後に、予想外の展開が待っていた。本家の者となった玲一とこよみに、世話係がついてしまったのだ。
その少女は、会の最後に、藤間禄三郎から指示され、橙子の背後で三つ指をついて、二人に挨拶して来た。
「檀家総代、藤間家、藤間橙子の妹で、名は紫乃と申します。今年17歳になる若輩者で、未熟者ではありますが、こよみ様、玲一様のお世話を仰せつかり、光栄に存じます」
炊事洗濯など、家事と言う家事は、この藤間紫乃が行う事となり、
また、生活費は全て本家から捻出するので、玲一のアルバイトはこれを一切禁じる。
名代と言えど、こよみは高槻の血に連なる者。
その兄にあたる者が、家事をこなし、生活費も稼いでいるとあっては、高槻の名前に傷が付き、事の軽重を問われてしまう。
つまりは、体面上の体裁を整える為に、玲一の生きる意義を潰し、使用人を置く事で、こよみの格を上げたのだ。
よって、もう兄と妹だけの生活は、終わったのである。
まだ冷たさの残る春風に、前髪を揺らしながら、ぼんやりと街を見詰める玲一。
昼休み終了まで、後5分。予鈴のチャイムが、学園中に鳴り響き始めた。
ああ、もうそんな時間かと、踵を返して気付く
そして、ほとんど昼食に手をつけていない事に気づく。
藤間紫乃には、昼の弁当はいらないと強弁し、今の玲一がここにいる。
結局、せっかく買った御当地グルメの牛乳パンも、ほとんど食べていない。
もっと言えば、昨晩は、具合が悪いと言って、紫乃が作った夕飯に、半分も手をつけていない。
そして今朝は、ワザと寝坊したふりをして、紫乃が作った朝食に手もつけず、慌てたフリをして、猛然と家から出て来た。
このところ、毎日こんな調子で、まともに食事などとっていないし、
また、自分を心配してくれるどころか、徐々に、藤間紫乃になついていくこよみが、ひどく遠く感じてしまい、藤間紫乃に余計な悪感情すら抱いてしまう。
でも彼女は姉の橙子とは違い、穏やかで柔らかな表情を、兄と妹に向けている。
家の命令とは言え、高槻の血統でもない、雑種の野良犬の様な自分にも、誠意をもって接してくれている。
だから藤間紫乃が、決して悪い訳ではなく、兄妹の離反を画策している訳ではないのだ。
……だけど、いや、だからこそ、何故だろう……
特定の誰かに憎悪している訳でも、嫌悪している訳でもなく、ただ、このやり場の無いやるせない気持ちが起因して、不思議と腹が減らない、目も回らない。
まるで自分自身の身体が、衰弱している事に気付いていない。
もともと自分は、鈍感なのだろうか?いや、一連の地獄の様な出来事で、神経が焼かれてしまったのか?
だがしかし、自分が麻痺していないと言う、しっかりした確証がある。
目の前に出された、紫乃の手料理を拒否し続けた事で、あの優しかった母の、今は亡き愛する母の一言を思い出し、
胸を詰まらせて、腹の底から湧き上がる感情が、教室に赴こうとする自分の足を、ガッチリと足止めしていたからだ。
「玲一、食べ物は粗末にしちゃダメよ」
人工的に作られた、香水の匂いとは全く違う、母の「良い」匂い。
その、当たり前の様に、玲一を包み込んでいた優しい匂いが、母の思い出とともに鼻腔を刺激する。
そして、生きる事に対して早々に絶望していた、無機質だった幼少時代、その絶望に満ちた生活から助け出してくれた母の言葉が…
本当の家族を、本当の愛情を教えてくれた母の笑顔と、優しい戒めが、紫乃の料理を拒否していた玲一を、再び戒めたのだ。
「玲一、食べ物は粗末にしちゃダメよ」
空を見上げる…
上を向いて歩こうとは、良く言ったもので、まさに泣けてきそうだった。
涙がこぼれない様に、顔をクシャクシャにしながら、ひたすら爽やかに流れて行く、新緑の匂いを乗せた春風とワルツを踊る様に、軽快なステップを踏むちぎれ雲を、睨み殺す玲一。
涙が流れ落ちる事を、良しとしなかった気概。
自分が必要とされなくなったのではと言う懸念を、猛然と否定する鬼の様な形相。
何をどうすれば良いか、全くわからないが、俺の感情は麻痺している訳ではない。
そう、あの頃のように…
後々彼に着いて回るセリフがある。
「土岐玲一が白旗を上げる事は無い」
これは、他人や周囲の人々が、彼を表して言ったセリフなのだが、
もう既に、彼はその言葉を、行動で表し始めていた。