晴れ晴れとした寂しさ
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時間はしばし経過し、小鳥がさえずり始める春の朝。
東の山々の稜線から、街に向かって朝陽が差し込み、屋根や樹木の朝露が輝いている。
標高400メートルの長野は春でも寒く、厚い布団の加護が無ければ、とてもじゃないが、穏やかな朝は迎えられない。
ここ、高槻邸でも、タイマー式の石油ファンヒーターが、時間通りにボンと着火し、
屋内の空気をゆっくりと、暖かく春色に変えて行く。
玲一の部屋
花苗との別れが終わった後、崩れる様に、再び眠りの世界に落ちた玲一。
カーテンの隙間から差し込む朝陽に、顔を撫でられ、ゆっくりと目を覚ます。
ひんやりと顔を包む、室内の空気。それとは真逆に、身体を包み込む温かい布団。
そして、右手に感じる、何か柔らかい……人肌のぬくもり。
「……ふぁ?」
半分寝ぼけながら、右手の心地良い異変に気付いた玲一、天井を向いていた視線を、ゆっくりと右側に向ける。
「あれ?」玲一の目の前に現れたのは、ドアップで現れた真琴の寝顔。
更に、真琴の幸せそうな寝顔から、自分の右手へと視線を下げると何故か、
下着姿の真琴が、玲一の右手を抱き枕代わりに、しっかりと抱き付いているではないか。
「……ん…ふぅん…」
真琴の甘ったるい寝息が、玲一の耳にかかった途端、心身共にびっくりした玲一は、
まるで全身に電気ショックを浴びた様に、布団から飛び起き、
「ひああああ…っ!」っと、声にならない声を上げながら、廊下に躍り出て行く。
そのまま廊下の柱に激突し、派手な衝突音と共に屋敷を揺らし、もんどりうってのびてしまった。
異変に気付き、クラリッタや加納達が、寝ぼけた顔で、食堂から慌てて出て来ると、
そこには、目を回しながら、大の字になっている玲一の姿が。
「ふわあああ……。あら、何やってるのよ、玲一」
玲一の部屋からは、目をこすりながら「ほええ……」と声を漏らす真琴が、下着姿のまま玲一の部屋から出て来る。
この光景を一番驚いたのは、加納でもクラリッタでもなく、妹のこよみであった。
(……兄の部屋から下着姿の真琴さん!?……)
兄より先に思春期に突入したこよみは、持てる知識を総動員し、一体深夜に、何が起こったのかを想像する。
想像し、赤面し、嫉妬し、更に赤面し、とうとう壊れてしまったこよみは、
「きょええ!」と、ブルース・リーよろしく、怪鳥音を発しながら、自分の部屋に、逃げる様に飛び込んだ。
「……ふにゃ、何やら朝から騒々しいのだ……」
朝の騒動は、各自の目が覚める事と、言い訳がましい玲一の説明で、何とか丸く収まるが、
真琴の「寝る時は、常識的に、裸になるのだ」と、言う問題発言を、こよみとクラリッタは、
後々まで引きずる事になる。
つまり真琴は、玲一争奪戦の最有力候補として、二人にライバル視された事になる。
ともあれ、時刻はそろそろ、登校時間に間に合せなければならない時間。
シャワーを浴びる者、鏡台を前に髪をとかす者など、皆が皆、登校に向けての準備を急ぎ始める。
そしてメンバーたちは、準備をしながらも、昨晩の出来事を、話題の中心へと据え、賑やかに議論を交わしていた。
「目視は出来たんだ、なんとか映像データに残ってないかな?」
「ライブでは無理でしたね」
「私には、カメラ映像で見えた気が……」
「よし!放課後部室で、徹底的にデータを確認しよう」
隣の藤間家から、紫乃が訪れ、メンバーの為にと、朝食と昼の弁当を用意する中、
熱い議論は止む事は無かった。
そして、玲一の部屋
寝間着から、学生服に着替えていると、ふと、机の上の写真が目に入る。
元気で快活で、そして底抜けに温かく、正しかった母、土岐香苗。
児童虐待から始まった人生で、児童養護施設にも馴染めず、孤独に生き、そして生きる事を諦めた玲一を、
元気で快活で、そして底抜けに温かく、正しい道を模索する少年へと変化させたその母が、
玲一とこよみを両脇で抱き寄せ、アパートの前で並び、笑顔で写っている写真だ。
何も言わず、ぼんやりと写真を見詰める玲一の背中に、真琴の声がかかる。
「あまり未練を持つものでは無いのだ。しっかり、お別れはしたのだろ?」
「ええ…。しっかり、お別れは……しました」
玲一の背中が揺れる。
真琴は、ゆっくりと玲一の背中に近付き、手を伸ばして玲一の頭を撫でる。
振り向いた玲一は、顔をクシャクシャにしながら、嗚咽を我慢しつつ、涙をボロボロと流していた。
「泣くだけ泣いて、スッキリするのだ。そして、前を向け、自分の未来を見据えるのだ」と、言いながら、
母の様な眼差しで玲一を見詰め、優しく胸元に抱き寄せる真琴。
玲一は真琴に抱き締められ、声を押し殺しながら号泣し始める。
香苗が亡くなって数年、既に今は、思い出の中でしか、その笑顔を見る事が出来なかった母が、
今でも、今でも自分を心配し、見守っていたとは……。
もし自分が、自分の心が、生活に疲れて凝り固まっていなければ、もっと早く母に気づいてあげられ、
一日も早く母が、成仏出来る様にしてあげられたのではないか。
母香苗を偲んではいるが、逆に心配をかけていた。
その申し訳ない気持ちと、もう二度と会う事の叶わない人への恋慕の情が、大粒の涙となって、玲一の頬をこぼれ落ちる。
ただ、問題は全て解決した訳では無い。
香苗が玲一の為に譲った力、玲一の深層に眠る力「迦楼羅」とは、そしてその迦楼羅の力を狙う者とは。
今後直面するであろうこれらの事に、まだ玲一の覚悟は一般人並に、定まっていなかったのも事実である。
「迦楼羅の事は、また改めて説明するのだ。だから、今は好きなだけ泣くのが良いのだ」
玲一を抱き寄せながら、頭を撫でる真琴。まさに菩薩の様でもある。
だが、その二人を、「抱き合う男女」として、認識してしまった者がいる。
「お弁当出来たよ」と言いながら、部屋を覗いて来こよみが、その人物なのだが、
相変わらず、余計な想像で自分を赤面させ、「きょええ!」と再び怪鳥音を発しつつ逃げ出し、
廊下の柱に衝突して、吹っ飛んでいた。
母を自縛霊として自らに取り込んで、それを自分の影だと恐れていた時期は終わる。
そして、刺激的で慌ただしい、闘いだらけの「日常」が、今始まる。




