我輩は犬である。名前はまだない
我輩は、犬である。名前はまだない。
飼い主が、名前をつけてくれないのである。実に切ない。
そんないけずなご主人様は、実は凄い人なのである。全ての魔を支配する、強大な力を持った権力者。
そう、我輩は魔王様の、飼い犬である。
我輩の朝は、ご主人様を起こすことから始まる。
魔界鳥の鳴き声と共に目覚めた我輩は、傍らに寝るご主人様にのしかかり、その頬を舐める。
しかし、ご主人様、起きない。いつものことだ。
仕方がないのできゃんきゃん吠えながら、全身ご主人様の上に乗せてゆさゆさ体を揺らしたら、ようやくご主人様はその琥珀色の瞳を開いた。
魔性の美形の寝起き顔ドアップ。相変わらず眼福である。ペットである我輩だけが見れる、特権だ。
おはよう、ご主人様
「――まだ、早いだろう」
しかし、寝汚ないご主人様は、そのまま我輩を抱き枕にして二度寝を図ろうとする。
ちょ、ご主人様。今日は朝から大事な会議があると言っていたでしょうが。寝ちゃいけません。
てしてしとご主人様の顔面に犬パンチを食らわせてやると、ようやくご主人は観念した。
まったく仕方がないご主人様である。
身支度を整えて覚醒したご主人様と連れ立って食堂へ向かう。
ご主人様の椅子の足下。それが我輩の特等席である。
サキュバスのような女性型の魔物のメイドさんが、ご主人様にご飯を並べる。頭上から漂う良い香りに、きゅーと我輩の腹の虫が鳴る。
すぐ後に、浅い皿に盛られた我輩のご飯が置かれる。中身はご主人様のと同じ、肉をメインとした朝からガッツリしたメニューだ。
腹の虫かさらに大きくなって、空腹を主張する。口の端からはだらんと涎が流れてきた。だが、我輩は食欲のままにがっついたりしない。
我輩は、犬である。賢い、忠犬なのである。ご主人様の許可が出るまでは食事についたりはしない。
ちらりとご主人様の方を見上げると、すまし顔で朝食を口に運んでいた。我輩が許可が出るまで食べないのは毎日のことであるから、分かっていて焦らしているのである。
きゅうん…とせつなげに鳴いてみせても、ご主人様は丸無視である。…ひどい。
我輩は賢い忠犬だが、同時に愛玩犬でもある。おねだりをすることは禁じられていない。
ご主人様の長いおみ足に鼻と肩を擦り付けて甘える。
ご主人様、ご主人様、お腹減ったよー。早く早く、ご飯ご飯。
そんな我輩にご主人様に微笑を浮かべた。
「――よし」
―やったあ!!許可がでた!!ご飯、ご飯!!
途端に床にご飯を飛び散らしながら、ご飯にがっついてしまい、後悔する。
……我輩は高貴な魔王様の、飼い犬なのだ。ならば我輩の食事の仕方も気品がなくてはならない。それなのに、なんという失態だ。
飛び散らしかした食事を一ヶ所に集めて片付けながら、今度は優雅に食事を再開する。
我輩の先程の姿を誰にも見られていないといいが…そう思いながら周辺に視線をやると、笑いを堪えているご主人様とばっちり目が合ってしまった。
……見られていたらしい。
恥ずかしいので、ご主人様の足に軽く犬パンチをしておいた。
食事が終わると、我輩は日課の魔王城パトロールに出る。
ご主人様をはじめとした、周囲の魔物たちは、我輩のパトロールを単なる散歩だと思っているようだが、違うのである。我輩は魔王城を歩き回ることで、外敵はいないか、なにか城に変化はないか確かめているのだ。れっきとした仕事である。
四足で歩き回っていると、時折すれ違った魔物達が声をかけてくれるので、わんと鳴いて挨拶をしておく。
ご主人様に飼われた当初は随分と遠巻きにされていたり、敵意を向けられたりしていた物だが、今では我輩はすっかりご主人様のペットとして受け入れられている。実に喜ばしいことだ。
「おぅ、ワン公。今日も元気だな」
顔馴染みのリザードマンのおっちゃんが挨拶してくれたので、取り合えずすりよっておく。顔は凶悪だが、存外気が良い魔物である。
これは別にご主人様以外の魔物に媚びているわけではない。ご主人様の直属の四天王の一人であるおっちゃんを、ご主人様のペットとして労っているだけだ。
おっちゃんは、嬉しそうに近寄った我輩の頭を撫でた。
「よしよし。お前はいい子だなー。……しかし魔王様も、そろそろお前に名前をつけてくれてもいいのにな」
…おっちゃん、それは我輩にとって禁句だ。
きゅーん…と力ない鳴き声をあげて項垂れる我輩に、おっちゃんは慌てる。
「うお!!悪かった、悪かった!!ほら、コカトリスのもも焼きやるから、元気だせ?な?」
「!!わんっ!!」
途端に落ち込みも吹き飛ぶ我輩。
コカトリスのもも焼きは、ジューシーながら身も引き締まっていて大変美味なのである。さすがおっちゃん。我輩の好みがよく分かっている。
苦笑するおっちゃん差し出したもも焼きをあぐあぐかじりながら、仕事へ戻るおっちゃんを見送る。
さて、食べ終わったら我輩も仕事に戻らねば。
数刻後。
我輩は魔物城を必死に駆けていた。
すれ違った魔物の一人に、ご主人様が我輩を呼んでいると聞いたのだ。ご主人様が仕事中に我輩を呼び出すのは珍しい。急いで馳せ参じなくては。
しかし、四足歩行と言うものは、なかなかスピードが出せないから困りものである。ああ、二本足で走れたら、もっと早くご主人様のもとに向かえるというのに。だが、まあ、四足で走ることしかできないので仕方ない。
ようやっと、呼び出された部屋についた。
我輩専用の押しドアをくぐり抜けると、ご主人様の姿が目に入った。
不肖我輩め、只今参上しましたぞ!!
「――ああ、よく来たな」
だが我輩はご主人様の近くに見慣れぬ人影を目にして、固まった。
「来い、犬。今から、こいつらの処刑を行う。傍で、見ていろ」
ご主人様の近くには、鎖で拘束された数人の人間の姿があった。
……ああ、呼び出されたのは、この為だったのか。
我輩は明らかに力なくなった足取りで、ノロノロとご主人様のもとへ向かう。
人間達が我輩を見ながら、口々に叫んでいる。我輩はこいつらを知らないが、こいつらは我輩を知っているらしい。
向けられる言葉が、視線が、痛い。
よくよく見ると部屋の中にいたのは、人間達だけじゃなかった。
おっちゃんをはじめとした、魔王城の上層部が揃っている。おっちゃんが我輩に向ける視線が心配そうだったので、安心させるように首を横に振る。
我輩は、平気だ。こんなことくらい。
ご主人様の足元に伏せると、ご主人様は優しく頭を撫でてくれた。途端向けられる視線も言葉も強くなるが、我輩はただ真っ直ぐにご主人様を見ていた。
「犬、絶対に視線はそらすな。最後までちゃんと、見届けろ――お前がここにいたいのなら」
えぇ分かっています。分かっていますよ、ご主人様。
それが、我輩が貴方の犬でいる条件なのだから。
処刑は凄惨だった。
繋がれた人間一人一人が、虫けらのように殺されていく様を、我輩はただじっと見つめていた。
死の間際に吐き捨てられる呪詛は、ご主人様ではなく、我輩に向けられていた。……人間が吐く呪詛など意味はないけれど、言霊に負の力が宿っているのならば、それは良いことであると思う。彼らの呪いはご主人様ではなく、我輩にのみ作用するだろうから。
最後の一人を殺し終えると、ご主人様はよく耐えたとでもいうように、我輩の頭を撫でた。
ご主人様の手が温かくて、不覚にも涙が出た。
処刑の間中に我輩に向けられていた視線は、既になくなっていた。
「――よし、寝るか」
食事と入浴を終え、暫くご主人様の部屋でまったりしたら、就寝の時間だ。
わん、と高く鳴いて先にベッドの上に潜り込む。
ご主人様のためにベッドを温めるためだ。断じて完璧なベッドメーキングをされた布団に、一番に飛び込みたかったからではない。
そんな我輩にご主人様は笑みを漏らして、隣に寝そべる。
今日が、ご主人様が仕事が忙しい時でなくて良かったと思う。そんな時は、一人寝を余儀なくされる。
処刑の後だ。もしそうだったら、間違いなく悪夢を見ていたことだろう。
寝ころがりながら、ご主人様にすりよる。伝わってくる熱に安心する。
ご主人様は、そんな我輩を優しく抱き締めてくれた。
「――我を、恨んでいるか?」
突然降ってきた問いかけに、くーん?と鳴き声をあげて首を傾げると、ご主人様は苦笑いを漏らした。
「今は、人の言葉を話していいぞ――人の言葉を話すことも、二本足で歩くことも許さず、お前を飼い犬として扱う我を、恨んでいるか」
「……なぜ、我輩がご主人様を恨まなければならないのです?」
「………なんだ、その珍妙な一人称は」
……残念ながら、元の世界で人気の猫の小説から拝借した一人称は、ご主人様には気にいって頂けなかったようだ。
仕方がないから、いつもの一人称に戻すとしよう。
「……なぜ、私がご主人様を恨むとお思いで?」
「恨まないと思わないはずがないだろう」
真っ直ぐ見つめる私から視線を反らして、ご主人様は自嘲する。
「お前は人間で――『勇者』なのだから」
ひさしぶりに耳にした、不愉快な呼称に眉間に皺が寄ったのが分かった。
ご主人様の犬になる前、私は「勇者」と呼ばれる存在だった。
そして圧倒的な力の差を前にして、敗北し、命を助けて貰う条件として、魔王であるご主人様の犬になったのだ。
人間としての矜持を捨てた、犬に。
「ご主人様まで、そんな風に私を呼ばないで下さい」
私は顔をしかめたまま、首を横に振った。
「私は勇者なんかじゃない…貴方の犬です。犬でいたいのです」
人が見れば、生きる為に犬に成り下がった私の姿は浅ましく見えるだろう。
昼間の人間達のように、情けないと、人間の恥さらしだと、裏切り者だと、そう思うことだろう。
けれども私は、ご主人様の犬になったことを微塵も後悔などしていない。
「恨むはずがないでしょう……ご主人様はこの世界で初めて私に安らぎをくれたのだから。殺さなくて、殺されなくて済む生活を与えてくれたのですから。感謝こそすれど、恨むはずがありません…っ!!」
元々私は、ただの女子高生だった。
なのに、突然この世界に召喚され、勇者という役割を押し付けられた。
この世界は、元の世界と違って、名前が人を縛る世界だった。真名と呼ばれる本当の名前をしれば、人一人を簡単に支配出来る。
そんなことを知らずに促されるまま名を名乗った私は、「勇者」という名の奴隷として、魔物達と戦わされた。
毎日が、地獄だった。
死と隣り合わせの、毎日。親身になってくれる人もおらず、近寄ってくる人間からは、ただいいように使われるだけだった。
救うのが当たり前で、救えなければ罵られた。
勇者なのだからと、選ばれた存在なのだからと、勝手な理屈を押し付けて、誰も私の個人的な心情なんて思いやってくれなかった。
そんな中、救いだしてくれたのが、ご主人様だ。
私の魂に刻まれた真名を魔力で消し去ることで、私を真名による支配から開放してくれた。人間達から、開放してくれたのだ。
代わりに私は、名を失ったが、そんなことなんてことはない。
言葉を奪われても
手を使ったり、二本足で歩くことを禁じられても
従順の証として、人間の処刑は必ず見せつけられても
それが、かつての地獄から抜け出し、今の心穏やかな日々を送る為の代償ならば安過ぎる代償だ。
ご主人様には、感謝してもしきれない。
だけど、もし我が儘を言うことが許されるのならば。
「ご主人様――どうか、私に真名を下さい」
「………」
「無くした真名の代わりに私に真名をつけて、私を完全にご主人様の物にして下さい」
真名はこの世界に来た途端、魂に刻まれるもの。本来なら、書き換えなど出来るものではない。
だけど、ご主人様なら、出来る。私の真名を消し去ることができるくらい、強力な魔力を持つご主人様なら。
魂に名前を刻みつけて欲しい。
そしてその名で私を縛って、私を本当の意味でご主人様の犬にして欲しい。
何度も、何度もそう頼んでいるのに、ご主人様はいつもつれない。
「――だめだ」
「……どうして、です…っ!!」
悲痛な声をあげる私の頭を、ご主人様は宥めるように撫でた。
「いつも言っているだろう?我がお前に真名を与えれば、お前の体に私の魔力が染み込んで、どうやってもお前を元の世界に返すことが出来なくなる。それどころか、魂が変質してお前が本当に人でなくなる可能性もある」
……ああ、本当にご主人様は優しい。優し過ぎる。
元の世界に帰るなんて望み、私はすっかり諦めてしまっているというのに、ご主人様はいまだにその術を探してくれているのだ。召喚は、呼び寄せるだけで、返すことができないのが、この世界の通説なのに。
「――元の世界に、帰れなくても良いです。魔物になっても構わないです。寧ろ、私はご主人様のように魔物になりたい……だから、真名を下さい。私の全てを、ご主人様に捧げたいのです」
「そうやって思うのは、お前の錯覚だ。自分の命を守る為に、我に依存することが一番都合が良いから、そんな風に思い込んでいるだけだ」
ご主人様の言葉に、思わず泣きそうになる。
この気持ちが、元の世界におけるストックホルム症候群のようなものだというのか。
ご主人様だけが大切で、ご主人様の為なら命を捨てても良いと思うこの気持ちが。
ご主人様が愛しくて愛しくて仕方ない、この気持ちが。
「違います、ご主人様…私は、本気で…っ!!」
「話は終わりだ。人語も禁止する――もう、寝ろ」
禁止と言われれば、飼い犬である私はもう何も言えない。
泣く泣く口をつぐむ私を、ご主人様は一層強く抱き締めてくれた。
「大丈夫だ。自棄になることはない。いつか我が、必ずお前を元の世界に帰してやるから。争いのない、平和な世界に。……だから、それまでは暫くこうして我の犬でいろ」
………暫くと言わず、一生ご主人様の犬でいる気満々なので、いい加減ご主人様も腹を括って下さい。
悲しいかな、そんな思いは伝わらない。
もしこの気持ちが本当にストックホルム症候群だとしても、まず間違いなく醒めることがない錯覚であると言い切れる。
醒めることがない錯覚ならば、それは真実とどこが違うというのか。
犬の心、飼い主知らず。いつになれば、私の想いがご主人様に届くのだろうか。
私は分からず屋なご主人様にふてくされながら、その体温に包まれて眠りにつく。
ご主人様の腕の中なら、悪夢はきっと見ないだろう。
我輩は――私は犬である。
名前はまだない。
いつかご主人様に名をつけてもらう日をただひたすらに夢見ている、魔王様の飼い犬である。




