物語は指数関数的に! 恋は3+4で……2?
パンクポップスの音楽が鳴り響く目覚まし時計を止めて、黒川彩芽は目を覚ました。髪の毛はボサボサで、昨夜、落し忘れたアイシャドウが目元から伸びている。ドクロのTシャツ姿のハローキティがプリントアウトされたパジャマを身に着けている所からすると、そこまではしっかりと意識があったらしい。
昨日は久し振りに高校時代の友人と朝まで飲んで、喋り倒した一日だった。話題はファッションから、音楽、彼氏のあるなし、男の子のタイプまで多岐に渡る。彩芽は仕事もほとんどせずに、ブラブラ遊んでばかりだったので、友人の仕事の大変さや、上司の悪口にはついていけなかったし、ついていくつもりもなかった。だがそこそこに楽しい時間を過ごした。記憶がなくなるまで飲み明かした所からすると、相当満足の行く夜だったらしい。
彩芽は、上條淳司のイラストが描かれたカレンダーを、ぼんやりと眺めて、今日の予定を思い返す。漫画家、上條淳司がスタイリッシュに描いた女の子が彩芽に優しく微笑みかけている。
そう言えば……、とあやふやな自分予定帳を辿って行く。そう、今日は金城おじさんが監督兼キャプテンを務める草野球チームからお誘いが来ている日だった。金城は彩芽が良く飲みに行く飲み屋のマスターだ。
「あんまり気乗りしないなぁ」
そうけだるそうに零すと彩芽は着替えを始める。彩芽は、舌を出すシド・ヴィシャスの横顔をあしらった黒のTシャツに腕を通し、赤のチェック柄のミニスカートを履きこなす。パンクバンド、セックスピストルズのベーシスト、シドは既成の価値観を全てひっくり返すような顔を見せている。
彩芽は黒い光沢のあるミドルヘアーへ、無造作にハードスプレーをかけて、髪をパンキッシュに仕立て上げる。彩芽は大好きなファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウェストウッドの言葉、「平凡であることで得した人間なんて見たことないわ」を胸に刻み、外へと駆け出していく。こう気合いのハイトーンヴォイスを添えて。
「よしっ! 行くぞ!」
小柄で細身の彩芽は部屋から出ると駅へと向かう。せわしげな彩芽は散歩中の犬にワンワンッと吠えられながら駆け抜けて行く。
電車に乗り込んだ彩芽を見て、優等生風の女子高生二人組がひそひそ話を始める。二人組は彩芽のパンクファッションを冷やかしているようだ。
「見て見て。あのカッコ。へーん。ダサイ」
「カッコワルーイ」
それを耳にしても彩芽は意にも介さず、鼻を少し手で拭って、車窓に流れる東京の街並みを眺める。
「ふーんだ」
やがて目的地に着き、電車を駆け降りた彩芽は野球グラウンドに向かう。方向音痴な彩芽は、スマホのGoogleマップを使っても、指定された野球グラウンドに行くのに時間が掛かってしまった。グラウンドではもう試合が始まっている。彩芽は手傘を差すと、他人事のように零す。
「あーん。みんな元気ねぇ」
そんな彩芽を見つけた飲み屋のマスター、金城は彩芽を急いで呼び寄せる。
「彩芽ちゃん、彩芽ちゃん、遅いよ! もう試合始まってるし!」
彩芽は脱力感満点で金城に頭をさげる。
「どうも」
そう言うと彩芽は早速、のんびりとした足取りでグラウンドに向い、金城のチーム、「チーム金城・ゴールデンパラダイス」の守りに就こうとする。その彩芽を金城は慌てて止めてユニフォームとグローブを差し出す。
「ちょっとちょっと、彩芽ちゃん! その格好で守備に就くつもりかい!? はい、これ。ユニフォーム。それとグローブも」
彩芽は目を点にして、首を傾げる。彩芽には知らない単語が混じっている。
「グローブ?」
その言葉を聞いた金城は頭を抱える。
「失敗したかなぁ。と、とにかくあのスコアボードの裏で着替えて、着替えて!」
「はぁい」
そう返事をすると、彩芽はスコアボードの裏に向かい、早速ユニフォームに着替え始める。するとそこには相手チーム「神奈川・ジルバーダークス」のエース、近藤兼人がグローブの手入れをしていた。
兼人は元高校球児で甲子園にも出場した経験のある、野球エリートだった。大学時代に肩を壊して本格的なプレイは辞めてしまったものの、こうして時折、草野球の助っ人を買って出ては、小銭を稼いでいる。
兼人は、彩芽に視線を送ると少し興味をそそられたようだったが、すぐに関心を失って、グローブの手入れを続ける。グローブを布で磨き上げる兼人に、彩芽は言葉を掛ける。
「今から着替えるから、覗くなよ」
それを聞いた兼人は、口を強く真一文字に結んで彩芽に言い返そうとする。
「覗くわけねぇだろ……!」
兼人はそう言い掛けて言葉を失ってしまった。彩芽は人目もはばからず、黒のTシャツを脱いで 形のいいバストを曝け出している。兼人は面食らって目をそらす。それを見た彩芽は二ヒヒと笑う。
「覗くなって言ったろ?」
「覗いてねぇって! そっちが勝手に……!」
顔を少し赤らめる兼人を前にして彩芽は尋ねる。
「あのさぁ。訊きたいことあるんだけど」
「何?」
何とか襟を正した兼人は、彩芽に応じる。彩芽は自分の唇にそっと指先を触れる。
「野球って……、どうやるの?」
それを聞いた兼人は素人にも分かりやすく、野球のルールを手短に説明する。その間中、彩芽はうんうんと頷いていたが、良く把握していないようだった。兼人の言葉の一つ一つは、右耳から左耳へとスルーしている。兼人は少し訝しげに彩芽を見たが、彩芽は気にする素振りも見せない。一通り、説明を聞くと、彩芽はグラウンドに向かう。
「分かった。要するに、バットにボールが当たったら右に走ればいいわけね」
「ん! まぁそれには違いないねぇけどよ……!」
兼人とのやり取りを終えると、彩芽は足早にグラウンドへ駆け出していく。今はまだ「神奈川・シルバーダークス」の攻撃中だ。兼人が見ると、彩芽はマウンドに堂々と陣取ろうとしている。それを金城が慌てて止める。
「ちょっと、ちょっと! 彩芽ちゃん! そこはマウンドって言ってピッチャーの守備位置! 彩芽ちゃんはライト。あっちあっち!」
彩芽は不思議がり右目だけを少し艶やかに見開く。
「マウンド? ピッチャー?」
「とにかく! ここは彩芽ちゃんのいる所じゃないの。ほら向こう向こう!」
困り果てた金城に見送られて、彩芽はライトのポジションに就く。
試合はルーズな展開になった。「神奈川・シルバーダークス」が三回に五得点を入れて、攻撃を続ける。彩芽はライトの守備位置に就くと、腰に手をあててふんわりとアクビをした。その姿を見た兼人は零す。
「大丈夫かよ。あいつ」
それから試合は更に間延びしていく。「神奈川・シルバーダークス」は尚も三点を加える。その間に打球は何度か彩芽のライトに飛んだが、彩芽は見事にバンザイして、ボールを後ろに逸らしていた。かと言って「金城・ゴールデンパラダイス」の面々も結果にはさほど興味がないらしく、彩芽を責める様子はない。そうしてのんびりと草野球の時間は過ぎて行く。その光景を見て兼人は口にする。
「つまんねぇ試合。メチャクチャだな。どっちも素人そのものだ」
ようやく三回の攻撃を終えた「神奈川・シルバーダークス」の面々は守備へと就いていく。彼らは大勝の予感に包まれている。マウンドにはもちろん、気乗りしない様子の兼人が向かう。彩芽はその兼人に目を付けると、彼に指を差して言ってのける。
「お前、この勝負、もう決まったと思ってるだろ?」
その言葉に挑発された兼人は少しカッとなって答える。
「当たり前だろ? 三回でスコアは12-0。おまけに投げてるのはこの俺。逆転出来るわけねぇだろ」
すると彩芽は口元に満面の笑みを浮かべてこう返した。
「分かんねぇぞ? ゲームは何事も。人生と一緒でな!」
その言葉を聞いた兼人は胸に何か重いものがズシンッと来るのを感じた。だがその気持ちを隠すと、ふて腐れて呟く。
「決まりだよ。こんな試合」
やがて始まった「金城・ゴールデンパラダイス」の攻撃はあっさりツーアウトになり、九番に座った、というか据えられた彩芽に打順が回ってきた。彩芽はブカブカで大き目のヘルメットを被って、打席へ向かう。左打者のバッターボックスに立とうとする彩芽を見て、金城は戸惑い気味に尋ねる。
「あれ? 彩芽ちゃん、左利きだったっけ?」
それを聞いた彩芽は気にもせずにこう答える。
「んにゃ。右利きだよ。おじさん」
「じゃあ、右バッターボックスに立たなきゃ」
「いいじゃない。どっちでも。何事も自由でさ」
「それもそうだけど」
笑い合って言葉を交わす彩芽達。その「金城・ゴールデンパラダイス」の連中を見て、兼人は段々腹立たしくなってきた。こんな奴らと、甲子園まで行った自分が野球をする羽目になるなんて……。情けねぇ。正直悔しい。そう思うと兼人はいてもたってもいられず、マウンドの砂を足で激しく払い、彩芽を急かした。
「何やってんだ! 早くしろよ。こっちは忙しいんだ。早く終わらせたいんだよ。こんな試合」
苛立ち気味の兼人を見て、彩芽は気だるそうに口にする。
「はぁい」
「さっさと終わらせてやる」
そう兼人は意気込むとピッチングフォームを構える。その姿を見た彩芽はふと思いついたようにこう兼人に訊く。
「あのさぁ、お前何が不満なわけ? こうして五体満足で好きな野球も出来るって言うのに。カリカリしてさぁ。何か欲求不満?」
その言葉を聞いた兼人は、ムッとして、心を閉ざしたように口にする。
「俺だって好きでこんな試合に出てるわけじゃねぇよ」
その返事を耳にした彩芽は、首をカリカリと掻いて、呆れたように返す。
「あっそ。じゃあやめれば?」
「やめるわけにはいかねぇよ。金もらってるからな」
「あっそう」
素っ気ない彩芽の返事を皮切りに、彩芽と兼人の勝負は始まった。兼人は容赦なく、ストレートをキャッチャーミット目掛けて投げ込む。そのスピードは兼人の全盛期には及ばないが、130キロは超えている。その球を見た彩芽は、酩酊感のある右目を見開く。
「わぁお、早えじゃん。すっげぇすっげぇ」
兼人の苛立ちはピークに達していた。なぜ、どうして、この俺が、こんな連中と野球をしなければならないのか。兼人は自分が恥ずかしく、腹を立ててもいた。肩さえ壊さなければ。肩さえ壊さなければ。その思いが兼人の心を駆け巡る。兼人はキャッチャーからの返球を乱暴に受け取る。
「当たり前だろ! 俺はホントはこんな連中とつまんねぇ草野球やるはずの男じゃなかったんだよ!」
「へぇ。あんたそんなにスゴいんだ」
彩芽は関心なさそうに返す。自分への不甲斐なさ、嫌悪感がいよいよ絶頂に達した兼人は叫ぶ。
「俺は甲子園まで行ったんだ! 肩さえ壊さなきゃ! 肩さえ壊さなきゃな!」
兼人の心の叫びを聞いた彩芽は目を細めて尋ねる。
「壊さなきゃ、どうなってたわけ?」
朴訥と言い返された兼人は返事に困り、マウンドの砂を悔しげにもう一度蹴り飛ばす。
「くっ!」
その様子を見た彩芽はバットの先を兼人に突き出す。
「あんたさ。何があったか知んないけど、そのこだわり……」
兼人の苦渋の告白が響き渡ったグラウンドは静けさに満ち、彩芽の次の言葉を待っている。彩芽は、沈む込む兼人に留めをさす。
「カッコわるいぜ」
そう彩芽は言ってのけると、ライトスタンド目掛けてバットを指し示す。こう言葉を添えて。
「予告ほぉむらん」
その宣言を聞いた兼人は激情すると、フォームを構えるのもそこそこに、キャッチャーミット目掛けてストレートを投げ込もうとする。その瞬間、彩芽は軽く右目で目配せしてみせた。
「えっ?」
その彩芽の目配せで、ややスピードの落ちた兼人の直球を、それでも120キロは出ていた兼人の直球を、彩芽は力の抜けたスイングで、振りぬいて、軽々とライトスタンドへ放り込んでしまった。その打球を見送った兼人は呆然とする。
「う、嘘だろ?」
打球の行方を見届けた彩芽は兼人を指さすと笑みを浮かべる。
「なっ? 言ったろ? ゲームは何事も終わらなきゃ分からねぇってな?」
「くそぉ……」
そう悔しげに呟く兼人を横目に、彩芽はダイヤモンドを周ろうとする。……サードに向かって。それを見た金城がまたも慌てて止める。
「ちょっとちょっと彩芽ちゃん! バッターは打ったらあっち! ファーストに向かって走らないと!」
彩芽はボーっと不思議そうに立ち尽くすと足を止める。
「ファースト?」
「右側、右側!」
「あっ、そうかぁ。さっきそう聞いたんだっけ」
そうして彩芽はダイヤモンドをゆったりと周りだす。兼人にこう言葉を投げ掛けて。
「人生も一緒だぞ。青年」
「……」
悔しげに、苛立たしげに、兼人はホームインする彩芽を見送った。だが胸の奥を涼しげな気持ちが覆っているのも気づいていた。
それからの試合は「金城・ゴールデンパラダイス」を完璧に抑え込んだ兼人の好投もあって、スムーズに進んだ。試合が終わり、スコアボードには兼人が四回以降重ねた0の数字が並ぶ。そのスコアを口を半分開いた彩芽と、全力投球を続けて息を切らした兼人は見上げている。彩芽がスコアボードの数字を数えて行く。
「3、1、8、0、0、1、2、3、1で……えっーと11点か」
その答えを聞いた兼人はガクッとコケる。
「えっと……19点だよ。足し算もマトモに出来ないのかよ。お前。どうなってんだよ? お前の頭」
「あっ、ホントだ。あんた、頭いいな」
「普通だよ」
「金城・ゴールデンパラダイス」と「神奈川・シルバーダークス」の面々は肩を叩きあって、嬉々として試合を振り返っている。その光景を微笑ましげに見つめる兼人はこう彩芽に告げる。
「楽しかったな。今日の試合」
彩芽は嬉しそうに両手を組んで背筋を伸ばす。
「だな」
兼人は微笑んで右手を軽く挙げる。
「19対1。1点だけだったな。お前のホームランの」
「ああ、あれ。あれは、ま・ぐ・れ」
「まぐれでも……」
そう言い掛けて兼人は言葉に詰まってしまった。しばらくの沈黙のあと、兼人は勇気を振り絞って彩芽に告げる。
「あの……! 今度よかったらどこか一緒に遊びに行かないか?」
「……」
兼人の誘いに彩芽はしばらく黙り込む。兼人はその静けさに耐えきれず口を開く。
「ダ、ダメかな。嫌だったら別に……!」
すると彩芽は涼しげな瞳を見せて右腕を広げる。彩芽の後ろにはどこまでも澄みきる青空が広がっていた。
「いいよ。ダメだと思った? 言ったろ? 何事も終わってみなきゃわかんねぇってな」
デートの誘いにOKを貰った兼人は、安心したように息をつく。
「そ、そうだな」
それから一週間後の日曜日、兼人は彩芽を迎えに行く。彩芽は待ち合わせ場所の公園で、ベンチに腰掛け、足をブラブラとさせている。兼人は背を伸ばして、少しジャンプすると公園の柵越しに彩芽を見つけ出す。彩芽はベンチから立ち上がる。
「じゃ、行こうか」
そうして二人は街へ出掛けて行く。彩芽の方から兼人の手を繋ぐ。彩芽は兼人の手を引っ張り、駆け出して口にする。
「恋ってさ、1+1でプラス3にも4にもなるじゃん」
「うん、それで?」
兼人が訊き返すと彩芽はこう締めくくる。
「だからぁ……、恋は3+4で……2?」
「はっ?」
そう返して兼人は笑う。街へと繰り出す二人の後ろ姿には、煌めく光が瞬いている。二人の物語はこれから、指数関数的に、急上昇で、始まろうとしていた。