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episode08

「木村さん、今日はどんなお花を買いに来たんですか?」

 柔らかい口調で、花屋の女は言った。

 羽毛のような栗毛だった。ふわふわと風になびく様は、タンポポの綿毛を連想させる。日差しに照らされた彼女の笑みは、神父が祈りを捧げるほどに美しい。大きく、澄んだ輝きを持つ緑の眼は、宝石マニアが高価な値段をつけるだろう。

 彼女はまさに浮世離れしていた。まるで彼女だけ天国から来た使者のように思える。

 名をプシュケと言う。神話に登場する女神をなぞらえた名前だ。

 その神々しい名さえも、妥当に思える容姿。いや言動も、心さえも女神そのものだった。

「今日は花を買いに来たんじゃないんだ」

 花屋に顔を出す色鮮やかな花を眼に入れながら、木村は言った。

 スーツの内ポケットから茶色の封筒を取り出して、プシュケに手渡す。

「木村さん、これは何ですか?」

 受け取った彼女は、真っ直ぐ木村の眼を見て言う。

「俺の財産だ。好きに使ってくれ」

 プシュケが封筒の中身を確認すると、カードだった。全地区で使用できる銀行カードだ。色はブラック。億単位のジャズが詰まった事を示す黒だ。

「い、頂けません! こんな大切なもの!」

 彼女は慌てて封筒と共にカードを押し返した。柔らかい手が、ブラックカードと共に、木村の胸を優しく押す。

「俺は金なんていらねぇのさ。欲しいのは――」

 言い掛けたところで、木村は黙り込む。何も言わず、カードを彼女に突き出す。

「欲しいのは?」

 不思議そうにプシュケは身長差のある木村を見上げた。

 しばらく木村は考え込んで、首を振った。

「いや、俺はもう何もいらねぇ。金も必要ない。あんたもこの金が要らなかったら、カードを捨ててくれれば良い」

「で、出来ませんよ! 木村さんが一生懸命に貯めた、大切なお金ではありませんか!」

 あいにく、プシュケは木村がどんな人間かを知らない。人生のどん底、或いは死の淵に立たされた犠牲者の上に成り立つ金。決して誇れる稼ぎ方ではない手段で手に入れた金だ。

「なら、寄付だ……。あんたの援助する孤児院に全額明け渡す。それで文句ないだろう?」

「木村さんは、死ぬのですか?」

 何の曇りもなく、プシュケは問う。あまりに直接的な質問だったが、不思議と木村は不快感を感じない。むしろ驚いたほどだ。何て澄んだ目をしているんだろうか。

「木村さんは、その……。何か危ない事に巻き込まれているのではないですか? 事件とか事故とか、詐欺とか。何か悪い事に――」

「俺は不死身だ」

 不安げな彼女の言葉を、木村は短く横切った。

「何ですか、それ?」

「俺は死んでも生き返る」

「おばけみたいに?」とプシュケは笑う。

「そうだ、俺は亡霊となってあんたの花を買いに来る」

「恐いような、嬉しいような」と彼女は複雑な表情で笑った。

「多分、金は持ってねぇが、許してくれ……」

「もちろんです。木村さんには言葉では言い表せない感謝の気持ちがありますから」

 彼女はふくよかな胸に手を当てて、目を瞑りながら言う。

「何はともあれ、その金は孤児院に寄付する。花屋の経営でも、生活費でも、男との遊びでも何でも使ってくれれば良い。今日からそれは、あんたの金だ」

「いえ、やっぱり駄目です!」

 プシュケは頑として木村に詰め寄った。

「なら、命令だ」

 木村は腰から拳銃を抜いて、プシュケの喉もとに突き付けた。銃口は彼女の喉一歩手前で、停止している。

「この金を使わなきゃ、殺す。良いか、慈善活動であんたに金を渡すわけじゃねんだ。俺の金を使え。これはお願いじゃない。命令なんだ……」

 ふふ、とプシュケは笑った。この状況で笑える彼女に木村は大きく衝撃を受ける。

 ヤクザみたいな男に拳銃を向けられて、平気な顔をしてやがる。しかもプシュケは丸腰だ。何か、度胸や根性と言った前衛的な姿勢とは違う、不思議な自信が彼女の表情に現れている。

「何が可笑しい?」

「木村さんは優しい人です」

「いや俺は、ゴミ箱にすら拒否されるようなクズさ」

「分かりました。木村さんのお金は大切に使わせて頂きますね」

「それで良い。命令は素直に聞いとくべきだ」

「その代り、木村さんにも命令です!」

 プシュケは、堂々と過激な発言をするものだから、木村は驚愕しっぱなしである。おまけに、彼女が『命令』と言ったところで、棘も腹立たしさも感じない。もし仮に、彼女が『ぶっ殺す』と吐こうが、彼女の周囲に平和が訪れそうな空気感がある。

「生きてください。木村さんの顔が、幸せの皺でいっぱいになるまで。それが私の命令です」

 悪事と呼ばれる行為は全て手を付けた木村に、生きてと言う彼女が恐ろしい。あまりに愚かで温かくて、苦しい言葉。そのプシュケの言葉に木村は、懐かしい苦しみを感じた。

「言ったろ、俺は不死身だ。死にたくても、生きなきゃならんのさ」

 木村は背中を向け花屋を去った。木村が少しだけ微笑んだのを、プシュケは知らない。

 だが、木村は逆に分かっていた。自分の背中を、馬鹿げたほどに暖かく見守る彼女を――。やつはそういう女だ、と木村は知っている。あまりに無力で、混沌三頭ケルベロスに呑み込まれれば、一瞬で散らされる魅惑の花。プシュケは、あまりに無垢だった。


 

【執筆途中です】


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