【連載版あり】番外編:お嬢様が魔王に攫われたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!
※本作は、連載版『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』と同じ登場人物・題材を用い、短編として構成と展開を再執筆した作品です。
魔王は、己が座る玉座よりも恐ろしいものを、生まれて初めて目にした。
人間の女だった。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちり結われた髪。
右手には、黒塗りの鉄扇。
背筋をまっすぐ伸ばした姿には、一分の隙もない。
どこから見ても、名家に仕える礼儀正しい侍女である。
ただし、彼女の背後には勇者パーティーが並んで正座し、足元には魔王軍四天王が膝を揃えて座らされていた。
炎を統べるガルド。
氷を操るセルフィーナ。
影を渡るノクス。
魔獣を率いるヴォルグ。
魔族の中でも一騎当千と恐れられた者たちである。
それが今は、誰一人として侍女と目を合わせようとしない。
さらに勇者たちは、なぜか全員が白いエプロンを身につけていた。
聖剣を持つ勇者アレク。
剣士バルド。
魔法使いミリア。
弓使いカイル。
神官オルド。
魔王は震える手で、彼らを順番に指差した。
「なぜ勇者どもが、エプロン姿で正座している」
侍女は穏やかに答えた。
「お嬢様をお守りできなかったので、反省中でございます」
勇者アレクが悔しそうに唇を噛んだが、反論はしなかった。
「ならば、なぜ我が四天王まで正座しているのだ」
「お嬢様を攫う計画に賛同したためでございます」
「では」
魔王は自分の膝を見た。
立っているはずなのに、膝が勝手に震えている。
「なぜ我まで、今すぐ座らなければならない気がしている」
侍女はにっこりと微笑んだ。
「ご自身がなさったことを、ゆっくりと思い出してくださいませ」
ぱちり。
黒塗りの鉄扇が開く。
扇面に浮かぶ金文字が輝いた。
『お嬢様第一』
魔王は悟った。
勇者の聖剣より、あの扇の方が危険であると。
***
すべての始まりは、その日の朝。
公爵家へ一羽の飛竜が傷だらけになって舞い降りたことだった。
飛竜の脚に結ばれていた筒を受け取った老執事は、封を開き、書状へ目を通し、もう一度最初から読み直した。
そして、静かに目を閉じた。
長年この屋敷に仕えてきた老執事には分かる。
これから、何かが起きる。
いや。
もう起きている。
「マリベルを呼びなさい」
近くにいた若い従僕が、さっと顔を青くした。
「先に内容を柔らかくお伝えしては」
「柔らかくなる内容ではない」
「では、書状を隠しておくというのは」
「無駄だ。マリベルはお嬢様に関する異変だけは絶対に嗅ぎつける」
「それでは、馬車を準備いたします」
「馬車では遅い。飛竜を三頭。交代で飛ばせるようにしなさい」
若い従僕は頷きかけ、ふと足を止める。
「公爵様へのご報告は」
「当然だ」
老執事は、書状を丁寧に畳んだ。
「それでは、馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
「飛竜では?」
「いつもの言葉を言わぬと、落ち着かん」
「なるほど」
若い従僕が走り出そうとした、そのとき。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
「お呼びでしょうか?」
現れたマリベルは、エレノアの不在中に私室の手入れを終えたところだった。
老執事は、できれば自分以外の誰かに書状を渡してもらいたかった。
しかし誰も目を合わせない。
仕方なく老執事は書状を差し出した。
「魔境前線からだ」
マリベルは盆を近くの台へ置き、両手で書状を受け取った。
封を開く。
読む。
もう一度読む。
しばらく、何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれず、若い従僕が半歩下がる。
書状には、こう記されていた。
『公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様、魔王軍の襲撃により連れ去られる。現在、魔王城に囚われているものと推定。勇者パーティーは救出のため追跡中』
マリベルは書状を折り目に沿って戻した。
一度。
二度。
端と端を寸分違わず合わせる。
彼女は激しく怒っているときほど礼儀正しくなる。
そして礼儀正しくなればなるほど、周囲の者たちは逃げる準備を始める。
「お嬢様が」
マリベルが呟く。
声は静かだった。
「魔王に」
黒塗りの鉄扇が、いつの間にかその手に握られていた。
「攫われたですって?」
廊下にいた者たちが、一斉に耳を塞いだ。
「お嬢様が魔王に攫われたですって!?」
銀盆を持った侍女が壁際に退避した。
窓の外で植木を整えていた庭師が、反射的に生垣へ身を伏せた。
厨房では料理長が鍋の蓋を盾のように構えた。
マリベルは鉄扇を握り締め、屋敷の出口へ向かって踏み出す。
「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
「マリベル」
静かな男の声が、絶叫を止めた。
階段の上に立っていたのは、公爵だった。
普段は動揺を見せない人物だが、今だけは顔から血の気が引いている。
マリベルは即座に足を止め、向き直った。
「はい、旦那様」
「エレノアを」
公爵は一度、言葉を詰まらせた。
「娘を、連れ戻してくれ」
マリベルは、深く頭を下げた。
「命に代えましても」
「代えるな」
即答だった。
マリベルが顔を上げる。
「では、魔王の命と引き換えに」
「話が極端だ」
「恐れ入ります」
「褒めてはいない」
公爵は額を押さえた。
「エレノアと一緒に、必ず戻れ。それだけでいい」
マリベルの目に、わずかに揺れるものが浮かぶ。
「承知いたしました」
彼女は鉄扇を胸元へ添えた。
「必ず、お嬢様とともに帰還いたします」
そう告げると、マリベルは踵を返した。
老執事が廊下の先へ声を飛ばす。
「飛竜を出しなさい。あと、公爵様にご報告を」
若い従僕が、公爵本人を見た。
「旦那様はこちらにおいでですが」
「分かっている」
「では、どなたに」
「形式だ」
公爵は遠ざかっていくマリベルの背を見つめた。
「今は、形式にでも縋っておきたい」
***
同じ頃。
大神殿にも、魔王軍襲撃の報せが届いていた。
神官長が祈りの間へ入ると、聖女リリアーナは祭壇の前で静かに祈りを捧げていた。
「聖女様」
呼びかけられたリリアーナが振り返る。
「何かありましたか」
神官長は書状を差し出した。
「魔境から、緊急の報告です」
リリアーナは書状を受け取る。
読み終えた瞬間、彼女の表情から微笑みが消えた。
「エレノア様が、魔王に」
聖杖を握る指に力が入る。
周囲の神官たちは、そっと祭壇から距離を取った。
以前のリリアーナは、自分の失敗を認められず、エレノアへ罪を着せようとしたことがある。
それでもエレノアは、間違いをなかったことにはせず、やり直す道だけは閉ざさなかった。
以来、リリアーナの中でエレノアの存在は大きくなり続けている。
大きくなりすぎている。
「聖女様」
神官長が恐る恐る尋ねる。
「どうなさいますか」
「決まっております」
リリアーナは立ち上がった。
「魔王城へ向かいます」
「護衛を整えるまで、お待ちください」
「待っている間にも、エレノア様が恐ろしい思いをなさっているかもしれません」
「しかし、お一人では」
「一人ではありません」
リリアーナは聖杖を掲げた。
「聖獣アルシオンを呼びます。聖鎖も持ち出します。浄化の聖具もすべて」
神官長の頬が引きつった。
「それは、救出ではなく大神殿の総力戦では」
「救出です」
リリアーナは美しく微笑んだ。
「エレノア様を攫った魔王を」
神官たちは嫌な予感を覚えた。
「跡形もなく浄化して差し上げますわああああああああああああああああ!!!!」
大神殿の鐘が、誰も触れていないのに鳴り響いた。
神官長は静かに目を伏せる。
「聖獣の鞍を用意しなさい」
「はい」
「聖水も積めるだけ積みなさい」
「はい」
「それから、今夜の祈りの対象を変更する」
若い神官が尋ねる。
「魔王を滅ぼす祈りでしょうか」
「違う」
神官長は遠い目をした。
「魔王城付近にいる者たちの無事を祈れ」
「魔物たちも含まれますが……」
「全員だ」
***
その少し前。
黒い山脈の頂に建つ魔王城では、勇者パーティーと魔王軍が対峙していた。
玉座の間の床には黒い紋様が走り、壁を覆う燭台では青白い炎が揺れている。
玉座へ続く階段の途中に、公爵令嬢エレノアが立っていた。
手足を縛られてはいない。
傷もない。
しかし周囲を囲む黒い結界が、彼女をその場所へ閉じ込めている。
玉座に腰を下ろした魔王は、深紅の瞳で勇者たちを見下ろしていた。
「よく来たな、勇者」
勇者アレクは聖剣を構えた。
「エレノア嬢を返せ」
「ずいぶん必死だな」
魔王が口元を歪める。
「かつては、その女を足手まといと呼んで捨てたそうではないか」
アレクの顔が歪んだ。
前方では、四天王が進路を塞いでいる。
炎獄のガルド。
氷姫セルフィーナ。
影刃のノクス。
獣将ヴォルグ。
勇者たちはすでに幾度か突破を試みていた。
だが、エレノアを巻き込む恐れがあるため大技を使えず、四天王に足止めされている。
「俺が間違っていたことは認める」
アレクは聖剣を握り直した。
「だからこそ、今度は置いていかない」
「反省した勇者か。面白い」
魔王は頬杖をついた。
「だが、反省したところで遅い。その令嬢が貴様らの弱点である事実は変わらぬ」
「私は弱点ではありません」
結界の中から、エレノアが言った。
魔王の視線が彼女へ向く。
「ほう」
「私を奪えば皆様が折れるという考えは間違っています。あの方々は、そんなに弱くありません」
「では、何だという」
エレノアは、四天王と勇者たちの位置へ目を走らせる。
「アレク様、左側へ二歩のところの床に紋様が途切れている場所があります。そこなら氷の術が届きにくいはずです」
アレクが即座に動く。
セルフィーナの放った氷刃が、わずかに逸れた。
「ミリア様、正面ではなく天井の鎖を狙ってください。ガルドの炎は上から落ちるものへの対処が遅れています」
「分かったわ!」
魔法使いミリアの風が、天井から垂れる鉄鎖を揺らした。
炎獄のガルドが舌打ちする。
魔王は愉快そうに笑った。
「囚われてもなお、指示を出すか」
エレノアは答えなかった。
「貴様がいる限り、勇者どもは崩れない。武器を整え、食料を揃え、進む道を選び、負傷者の退路まで用意する」
魔王は指を一本立てた。
「だから俺は便利な駒である貴様を奪ったのだ」
勇者アレクが歯を食いしばる。
「エレノア嬢は、便利な道具なんかじゃない」
「では、何だ」
「仲間だ!」
アレクは迷わず答えた。
「俺たちが魔王城まで来られたのは、彼女が支えてくれたからだ。だから今度は、俺たちが彼女を助ける!」
剣士バルドが剣を構え直す。
「前は戦えない者に価値がないと思っていた」
魔法使いミリアも杖を上げる。
「でも、私たちは通行証一枚すらまともに管理できなかった」
弓使いカイルが矢を番えた。
「今度は後ろを取らせない」
神官オルドが祈りを唱える。
「必ず連れて帰ります」
エレノアの瞳がわずかに揺れた。
彼らは変わった。
自分たちが支えられていたことを知り、今度は自分たちが支えようとしている。
「皆様」
エレノアは結界へ手を添えた。
「無理だけはしないでください」
「こういうときくらい、自分の心配をしろ!」
アレクが叫ぶ。
「私は、皆様の仲間ですから」
その答えに、勇者たちは一瞬だけ言葉を失った。
魔王が指を鳴らす。
「ならば、その仲間が目の前で絶望する様を見せてやろう」
四天王が一斉に動こうとした。
そのときだった。
玉座の間へ続く長い廊下の向こうから、地鳴りのような声が届いた。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
勇者アレクが顔を上げる。
「この声は」
四天王が振り返る。
魔王が眉を寄せる。
次の瞬間、玉座の間の巨大な扉が、轟音とともに開いた。
壊れたわけではない。
蝶番も、扉の彫刻も無事である。
ただし、扉を守っていた魔族たちは廊下の両端へ整然と正座させられていた。
「そこまでです」
開かれた扉の向こうに、一人の女が立っていた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちり結われた髪。
背筋を伸ばし、足音ひとつ乱さず歩く侍女。
マリベルである。
右手には、黒塗りの鉄扇。
飛竜でも一日、馬車なら数日はかかる道のりを半日もかけずに踏破してきた侍女。
途中の関所で何があったのか。
魔王城の門番たちがなぜ正座していたのか。
それを説明できる者は、今のところ誰もいない。
マリベルは玉座の間を見回した。
勇者パーティー。
四天王。
魔王。
そして、結界に閉じ込められたエレノア。
その瞬間、鉄扇を持つ指に力が入った。
「お嬢様を」
声は静かだった。
「そのような狭苦しい場所に閉じ込めたのは」
ぱちり。
鉄扇が開いた。
『お嬢様第一』
「どなたでございますか?」
玉座の間から、音が消えた。
勇者アレクだけが、安堵したように声を上げる。
「マリベル! 来てくれたのか!」
「はい」
マリベルは美しく微笑んだ。
「まずは勇者様方から、お話がございます」
「なぜ俺たちから!?」
ぱん。
聖剣がアレクの手から離れ、壁際の武器掛けへ綺麗に収まった。
ぱん。
バルドの剣が鞘へ戻され、腰から外され、床へ真っすぐ置かれる。
ぱん。
ミリアの杖に巻かれていた飾り布がほどけ、本人の両手を上品に包んだ。
カイルが矢を放とうとした瞬間、鉄扇がひと振りされた。
矢は空中で一束に纏まり、白いリボンを巻かれて本人の胸へ戻る。
「また花束に……」
カイルが呆然と呟く。
神官オルドは、すでに床へ座っていた。
「私は自分から反省いたします!」
「大変よろしい判断です」
マリベルは満足げに頷く。
アレクが膝をつかされたまま叫んだ。
「俺たちは助けに来たんだぞ!」
「存じております」
「だったら、なぜ正座なんだ!」
「お嬢様を攫われたからでございます」
「攫ったのは魔王だ!」
「お嬢様の重要性を敵に見抜かれるほど、お嬢様へ頼りきっていたのは?」
勇者たちが黙る。
「お嬢様を後方へお任せしながら、その後方を守り切れなかったのは?」
さらに黙る。
「お嬢様が結界の中におられるにもかかわらず、四天王の前で立ち往生していたのは?」
アレクが深く頭を下げた。
「……俺たちです」
「理解が早くて結構でございます」
マリベルは懐から、折り畳まれた白い布を取り出した。
広げる。
エプロンだった。
五枚ある。
勇者アレクの顔が引きつる。
「それは何だ」
「反省時の正装でございます」
「そんな正装は聞いたことがない!」
「本日制定いたしました」
マリベルは勇者たちの背後を一度ずつ通った。
気づいたときには、五人全員がエプロン姿になっている。
バルドが背中へ手を回した。
「いつ結んだんだ」
「侍女ですので」
「侍女という職業に、そんな速度は求められない!」
マリベルは五人の姿勢を確認し、満足そうに鉄扇を閉じた。
「お嬢様をお守りできなかった件について、そこで反省なさいませ」
「今は魔王との戦いの最中だぞ!」
「戦う前に、足元を整えることが大切でございます」
「だからといって、なぜエプロンなんだ!」
「以前学ばれた初心を思い出していただくためです」
「俺たちの初心は侍女見習いではない!」
「それでは、本日を初心といたしましょう」
「勝手に職歴を作るな!」
魔王は玉座からその光景を見下ろしていた。
勇者たちが、全員エプロン姿で正座している。
魔王軍の宿敵である。
世界を救うために選ばれた者たちである。
そのはずである。
「勇者とは、あのような格好で戦うものなのか」
「違う!」
アレクが即座に否定した。
「ならば、なぜ全員が身につけている」
「俺に聞くな!」
結界の中で、エレノアが小さく息を吐いた。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「今は勇者様方を教育している場合ではないでしょう」
「お嬢様を危険にさらした方々への指導は、早い方がよろしいかと」
「あとになさい」
「承知いたしました」
マリベルは素直に頷いた。
「帰還後、改めて机の拭き方から」
「そこまでは言っていません」
アレクが青ざめる。
「帰ってからも続くのか」
「お嬢様から、後にするよう許可を頂戴しましたので」
「許可していません、マリベル」
四天王の顔が怒りに歪んだ。
自分たちを無視し、勇者へエプロンを着せ、主人との会話を優先する。
炎獄のガルドが拳を燃え上がらせた。
「人間風情が、我らを愚弄するか」
氷姫セルフィーナが杖を掲げる。
「魔王様の御前で、いつまでその余裕が続くかしら」
影刃のノクスが姿勢を低くした。
「勇者を倒した程度で、勝ったつもりになるな」
獣将ヴォルグが牙を剥く。
「その細い身体ごと噛み砕いてやる」
マリベルは、ようやく四天王を見た。
「まあ」
ほんの少し、首を傾げる。
「お嬢様の御前で、まだ立っておられる方が四名も」
鉄扇が開いた。
「いらしたのですね」
ガルドの炎が、玉座の間を赤く染めた。
「灰になれ!」
巨大な火炎が渦を巻き、マリベルへ迫る。
勇者たちが身構えた。
だが、マリベルは懐から小さな銀の薬缶を取り出した。
「少々、お借りいたします」
鉄扇で炎を受け流す。
巻き取られた炎は薬缶の底へ集まり、ちょうどよい大きさの火になった。
しばらくすると、中の湯が静かに沸き始める。
「お嬢様がお戻りになった際、すぐお茶を淹れられますね」
ガルドの口が開いたまま止まる。
「我が炎を、湯沸かしに使っただと」
「火力の調整には改善の余地がございます」
「改善だと!?」
ガルドが拳を振り上げた次の瞬間、鉄扇が膝裏を払った。
炎獄の四天王は、薬缶の横へ正座した。
「なぜ我が!」
「火のそばを離れては危険でございます」
「我が火なのだが!?」
「でしたら、責任を持って見守ってくださいませ」
セルフィーナが杖を振り下ろした。
「ならば、その身体を氷像にして差し上げます!」
床から氷柱が噴き上がる。
マリベルはそれを一瞥すると、鉄扇を水平に振った。
氷柱は根元から切り揃えられ、次々に透明な箱の形へ整えられていく。
その中へ、玉座の間に放置されていた果物と飲み物が並べられた。
「食材の保冷に便利でございますね」
セルフィーナが震えた。
「わたくしの永久氷牢を、冷蔵庫に」
「庫内が広すぎます。改善を」
「改善ばかり求めないでくださいませ!」
セルフィーナが次の術を放とうとしたところで、足元の氷が滑った。
倒れる前にマリベルが受け止め、そのまま床へ姿勢よく座らせる。
「床を凍らせた方が転んではいけません」
「介抱されたのか正座させられたのか分かりませんわ!」
「両方でございます」
氷姫セルフィーナは、自分の作った氷の前で正座した。
その間に、影刃のノクスの姿が消える。
壁の影。
柱の影。
勇者たちの影。
複数の黒い影を渡り、マリベルの背後へ迫る。
「背後が空いているぞ」
短剣が首筋へ伸びた。
マリベルは振り返らない。
「お嬢様の背後を狙う方を、私は好みません」
鉄扇の先が、床へ軽く触れる。
玉座の間を覆っていた絨毯が、勢いよく捲れ上がった。
影ごとノクスが包み込まれる。
「何だ、これは!」
「絨毯の端が曲がっておりましたので、敷き直しただけでございます」
「俺を巻き込む必要はない!」
「床に紛れておられましたので」
マリベルは絨毯の包みを柱へ立てかけ、白い飾り紐で固定した。
ノクスは絨毯から顔だけを出した状態で、正座の姿勢に整えられている。
「なぜ正座だけは崩れない!」
「結び方には自信がございます」
「その自信を別のところに使え!」
最後に獣将ヴォルグが前へ出た。
巨大な体躯。
鋭い牙。
床へ食い込む爪。
「小賢しい真似は通じぬ!」
咆哮とともに突進する。
マリベルは鉄扇を閉じた。
「まあ」
ヴォルグの顔が歪む。
「何だ」
「お嬢様の前で、その毛を散らすおつもりですか」
「毛?」
マリベルは懐から、洋服用の小さな埃取りを取り出した。
「獣毛は衣装へ付着すると、なかなか取れませんので」
「我は魔王軍四天王だぞ!」
「存じております。だからこそ、身だしなみを整えてくださいませ」
ヴォルグが爪を振り下ろす。
マリベルは軽やかに身をかわし、その腕を滑るように上って肩へ乗った。
「降りろ!」
「すぐ済みます」
さっ、さっ、さっ。
埃取りが毛並みを撫でる。
逆立っていた毛が揃う。
絡まっていた毛玉が消える。
首の周りまで丁寧に整えられる。
「何をしている!」
「お手入れでございます」
「やめろ、そこは」
首筋を撫でられたヴォルグの身体から、ふっと力が抜けた。
「そこは、力が抜ける場所だ」
「承知いたしました」
「ならば触るな!」
ヴォルグの巨体が床へ沈む。
そしてなぜか、前脚まで綺麗に揃えた正座になった。
マリベルは艶の出た毛並みを確認し、満足そうに頷く。
「大変よく整いました」
「敗北の理由が納得できん……」
こうして四天王は、玉座の間へ整然と並べられた。
ガルドは薬缶の火を見守りながら。
セルフィーナは保冷箱の横で。
ノクスは絨毯に包まれたまま。
ヴォルグは艶やかな毛並みで。
勇者アレクが呆然と呟く。
「四天王が、全員」
「お嬢様を攫った時点で、反省は決まっておりました」
マリベルが鉄扇を閉じた直後。
魔王城の外から、魔物たちの悲鳴が聞こえてきた。
続いて眩い白光が窓の隙間から差し込む。
城を覆っていた瘴気が薄れていく。
魔王が玉座から身を起こした。
「何者だ」
城の外で、巨大な獣の咆哮が響く。
次の瞬間。
「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」
白銀の聖獣アルシオンに乗った聖女リリアーナが、壊れた窓から飛び込んできた。
聖衣が光をまとい、聖杖の先には金色の鎖が絡んでいる。
「魔王! エレノア様をお返しなさいませ!」
聖女は聖杖を掲げた。
「さもなくば、この城ごと清らかに浄化して差し上げますわああああああああああああああああ!!!!」
外からさらに魔物の悲鳴が上がる。
神官オルドが正座したまま震えた。
「聖女様の浄化に、全く慈悲がありません」
マリベルはリリアーナへ視線を向けた。
「聖女様」
「はい、マリベル様!」
「お嬢様への距離が近い」
「まだアルシオンの上ですのに!?」
「視線が近うございます」
「視線まで制限されますの!?」
それでもリリアーナは聖杖を構え直した。
「城の外と残った魔族は、わたくしが引き受けます。マリベル様はエレノア様を」
マリベルは頷く。
「承知いたしました」
「どうか、ご無事で」
「命に代えましても」
「命は代えないでくださいませ。エレノア様が悲しまれます」
「では、魔王の命で」
「そちらでしたら、わたくしは何も申しません」
神官オルドが信じられないものを見る目でリリアーナを見た。
「聖女様?」
リリアーナは聞こえないふりをした。
***
そして、魔王は現在の状況に至る。
勇者パーティーはエプロン姿で正座。
四天王も正座。
城の外は、聖女によって浄化中。
目の前には、黒塗りの鉄扇を持った侍女。
「マリベル」
エレノアの声がした。
マリベルはすぐに結界へ振り向く。
「はい、お嬢様」
「怪我はありませんか」
「ございません」
「本当に?」
「かすり傷一つございません。お嬢様こそ、お身体は」
「大丈夫です。魔王様は、私を傷つけてはいません」
その答えを聞き、マリベルの肩からほんのわずかに力が抜けた。
それでも鉄扇は閉じない。
魔王は玉座から立ち上がった。
「侍女よ」
黒い瘴気が、その身体を覆う。
「四天王を退けたことは認めよう。勇者どもを座らせたことについては、理解したくないがな」
「勇者様方は、反省が必要でしたので」
「だが」
魔王の角が黒い光を放つ。
「我を同じように扱えると思うな」
玉座の間を圧倒的な魔力が満たした。
「魔王を傷つけられるのは、選ばれし勇者の聖剣のみ。侍女が持つ扇などで――」
ぱん。
乾いた音が鳴った。
魔王の顔が横へ向く。
玉座の間が静まり返った。
魔王は、ゆっくりと頬へ手を当てた。
「……痛い」
勇者アレクが目を見開く。
「聖剣以外の攻撃が、魔王に通った?」
マリベルの鉄扇が、白銀の光を放っていた。
黒い扇面に刻まれた『お嬢様第一』の文字が、聖なる光を帯びている。
リリアーナが歓声を上げた。
「マリベル様の忠誠心が、聖なる力に変わっていますわ!」
「忠誠心が?」
神官オルドが正座したまま頭を抱えた。
「神学の教本を、最初から書き直さなければ」
マリベルは光る鉄扇を見つめ、静かに頷いた。
「つまり、こちらは鉄扇ではなく」
扇を構える。
「聖扇でございます」
「そんな武器は存在しない!」
魔王が叫んだ。
「今、存在いたしました」
「勇者のエプロンと同じ理屈で増やすな!」
マリベルは一歩、魔王へ近づく。
「魔王様」
「何だ」
「正座を」
「断る!」
魔王が両腕を広げる。
黒い魔力が嵐となり、壁を震わせた。
床の石が浮き上がり、玉座の背もたれに亀裂が走る。
マリベルは、その嵐の中を一歩ずつ進んだ。
「正座を」
「我は魔王だ!」
「正座を」
「魔族すべてを統べる者だぞ!」
「正座を」
「同じ調子で繰り返すな! 精神に来る!」
魔王の膝が震え始める。
四天王が息を呑んだ。
「魔王様が、まだ耐えておられる」
「さすがですわ」
「我らとは格が違う」
マリベルが、わずかに目を細めた。
「まあ」
魔王が笑みを取り戻した。
「どうした。さすがに我は、四天王のようには」
「思ったより耐えますね」
「そうだろう」
「では、少しだけ力を強めます」
魔王の笑みが消えた。
「待て」
「何でしょう」
「今までのものは、本気ではなかったのか」
「お嬢様が近くにいらっしゃいますので、かなり抑えております」
「我は全力なのだが!」
「お見事でございます」
「褒められている気がしない!」
マリベルが踏み込む。
ぱん。
魔王を覆っていた瘴気が、真っ二つに裂けた。
ぱん。
角につけられていた黄金の飾りが外れ、左右揃えて玉座の肘掛けへ置かれる。
ぱん。
黒い外套が魔王の肩から外れ、風を含んで舞った。
次の瞬間には、襟と裾を合わせて美しく畳まれ、玉座の上へ置かれていた。
「なぜ我の外套を畳んだ!」
「皺になりそうでしたので」
「戦闘中に衣類の皺を気にするな!」
「お召し物を粗末に扱ってはいけません」
「我を粗末に扱っているではないか!」
魔王が後退する。
背後には、外套の置かれた玉座。
逃げ道はない。
マリベルが微笑んだ。
「正座を」
「くっ」
魔王の片膝が床についた。
「正座を」
もう片方の膝も落ちる。
魔王の腰が踵へ沈んだ。
背筋は伸び、両手は膝の上。
見事な正座である。
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
「魔王が」
アレクが震える声で呟く。
「正座しましたわ」
リリアーナも呟いた。
四天王は感極まっていた。
「魔王様」
「なんと威厳ある正座」
「やはり我らの王」
「褒めるな!」
魔王が怒鳴る。
しかし姿勢は崩せない。
マリベルは鉄扇を閉じた。
「それでは、事実確認を始めます」
「まだ何かあるのか」
「お嬢様を攫った理由を、お話しくださいませ」
「勇者を倒すためだ」
「詳しく」
「その令嬢が、勇者たちを支える要だと分かった。だから奪った」
「さらに詳しく」
「これ以上、何を話せという!」
「お嬢様をどのようにお連れしたのか、移動中に不自由はなかったか、お食事は、室温は、飲み物は、結界内の換気は」
「尋問の方向がおかしくないか!」
「お嬢様の生活環境は最重要事項でございます」
「我は世界征服の話をしているのだぞ!」
「地下倉庫の清掃状況についても、あとでお尋ねいたします」
「なぜ地下倉庫まで!」
「魔王城全体の管理状況を知る必要がありますので」
「侍女とは城を監査する職業なのか……」
魔王は項垂れた。
エレノアが結界の内側から魔王を見つめる。
「魔王様」
魔王が顔を上げる。
「私を攫えば、勇者様方が折れると思ったのですか?」
「そうだ」
魔王は低く答えた。
「誰かが大切にしているものを奪えば、人は弱くなる。心が折れれば、戦う理由も失う」
「これまでも、そうしてきたのですね」
「それが支配というものだ」
エレノアは結界へ手を触れた。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「この結界を開けてもらえますか」
「危険でございます」
「お話ししたいのです」
「私が代わりに話します」
「いえ、私が話します」
マリベルは、しばらくエレノアの目を見た。
やがて、小さく頭を下げる。
「承知いたしました」
鉄扇が結界の表面へ触れる。
ぱきん、と澄んだ音がして、黒い壁が光の粒になって消えた。
エレノアは、正座している魔王の前へ歩み寄る。
マリベルがすぐ横へ寄った。
「近づきすぎです」
「大丈夫です」
「ですが」
「見ていてください」
エレノアは魔王を見下ろした。
「魔王様」
「何だ」
「大切なものを奪えば、人を従わせることはできるのかもしれません」
魔王は黙っている。
「ですが、それを続けていたら、あなたのそばには誰も残らなくなるのではありませんか」
「我には四天王がいる」
四天王が正座したまま、気まずそうに顔を見合わせた。
エレノアは穏やかに続ける。
「恐怖で膝をつかせることはできます。でも、恐怖だけでは、あなたが倒れたときに立ち上がってくれる人は生まれません」
魔王の指が動く。
「あなたは、誰かにそばにいてほしかったのではありませんか」
「我は魔王だ」
「はい」
「恐れられるために生まれた」
「そう教えられてきたのですね」
「魔族の王は、弱みを見せてはならぬ。情を持てば裏切られる。誰も信じず、誰よりも恐れられなければならない」
魔王の声が、少しずつ小さくなる。
「我は、そうでなければならなかった」
エレノアは責めなかった。
哀れむこともしなかった。
ただ、魔王の言葉を聞いていた。
「恐れられることしか、許されなかったのですね」
魔王の深紅の瞳が揺れた。
「ですが」
エレノアの声が、少しだけ強くなる。
「あなたが苦しかったことと、誰かを苦しめてよいことは別です」
魔王が顔を上げる。
「寂しかったからといって、誰かの大切な人を奪ってよい理由にはなりません。恐れられてきたからといって、これからも恐れさせ続けてよい理由にもなりません」
魔王は唇を結んだ。
「あなたが変わりたいと思うのなら、まず奪ったものを返してください」
「返す」
「物だけではありません。傷つけた人たちへ謝罪を、壊したものには償いを。そして、自分の言葉で向き合うことを覚えてください」
「今さら、そんなことができると思うのか」
「簡単ではありません」
エレノアは迷わず答えた。
「許してもらえないこともあるでしょう。謝っただけでは戻らないものもあります」
「ならば」
「それでも、始めることはできます」
魔王の呼吸が止まった。
滅びろと言われたことはある。
討たれるべき存在だと叫ばれたこともある。
恐ろしい、憎い、消えてほしい。
そうした言葉には慣れていた。
だが。
始めることはできる。
そう言われたことは、一度もなかった。
許されたわけではない。
罪を見逃されたわけでもない。
償いが不要になったわけでもない。
それでも、これからを選ぶことだけは否定されなかった。
魔王は正座したまま、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまなかった」
小さな声だった。
だが、玉座の間の隅々まで届いた。
「エレノア嬢を攫ったことも、勇者どもを追い詰めたことも」
魔王の肩が震える。
「これまで、奪えばよいと思っていた」
四天王たちは、何も言わなかった。
「我は」
魔王は拳を握った。
「変われるだろうか」
「変わるかどうかを、これから選び続けるのだと思います」
エレノアは静かに答えた。
「では」
魔王が涙を拭い、顔を上げる。
「まず魔王をやめる」
四天王がどよめいた。
「魔王様!?」
「そして」
魔王はエレノアを見た。
「侍女になる」
「やめてください」
エレノアは即答した。
「なぜだ」
「今の流れで、なぜそうなるのですか」
「侍女になれば、人を支えることを学べる」
マリベルの鉄扇が、ぱちりと開く。
「お嬢様のお世話係は、すでに定員でございます」
「ならば執事に」
「もっといけません」
「では馬丁」
「お嬢様の馬へ近づかないでくださいませ」
「庭師ならばどうだ」
「魔王様」
エレノアが困ったように眉を下げる。
「まずは魔王城の方々へ、きちんと説明してください」
「では、説明を終えたあとで庭師に」
「なぜ仕えることを諦めないのですか」
そのとき、リリアーナが聖獣から飛び降りた。
「エレノア様!」
駆け寄ろうとすると、マリベルが振り返った。
にこり。
リリアーナは、前へ出しかけた足を静かに戻した。
「ご無事で何よりでございます」
「大変よろしい距離でございます」
「マリベル、聖女様を教育しないでください」
「日頃の成果が表れましたので」
「成果にしないで」
勇者アレクが、エプロン姿で正座したまま声を上げた。
「エレノア嬢」
エレノアが振り返る。
アレクは拳を膝の上に置き、深く頭を下げた。
「すまなかった」
「勇者様」
「助けに来たのに、間に合わなかった。君を守ると言ったのに」
バルドたちも顔を伏せている。
誰も言い訳をしなかった。
エレノアは勇者たちの前へ歩み寄った。
「顔を上げてください」
「だが」
「私は、怖くなかったわけではありません」
エレノアは正直に言った。
「魔王城へ連れてこられたとき、何が起こるのか分かりませんでした」
勇者たちの表情が歪む。
「でも、皆様が来てくださると信じていました」
「エレノア嬢」
「そして、実際に来てくださいました」
エレノアは少しだけ笑った。
「助けに来てくださって、ありがとうございます」
責められるより、その言葉の方が彼らには重かった。
アレクは目を伏せる。
「次は、必ず守る」
「私も、守られるだけではなく、皆様を支えます」
「それではまた狙われるぞ」
「ならば、今度は狙われないように一緒に考えましょう」
勇者たちは、静かに頷いた。
玉座の間に、温かな沈黙が落ちる。
その沈黙を。
ぱちん。
マリベルが鉄扇を閉じる音が切り裂いた。
「それでは、魔王城の清掃を始めます」
「なぜだ!?」
勇者と魔王の声が重なった。
マリベルは床へ視線を落とす。
「瓦礫。煤。瘴気による染み。魔物の足跡。お嬢様がお帰りになる道として、あまりにも不適切でございます」
「ここは魔王城だぞ!」
「だからこそ、改善が必要です」
ガルドが薬缶の前で叫ぶ。
「我ら四天王まで清掃をするのか!」
「当然でございます」
「我は炎獄のガルドだぞ!」
「厨房の火力管理をお願いいたします」
セルフィーナが声を上げる。
「わたくしは氷姫ですわ!」
「食材庫をお願いいたします」
絨毯に包まれたノクスがもがく。
「まず俺を解け!」
「絨毯を敷き直してからでございます」
毛並みの整ったヴォルグが低く唸る。
「我には何をさせる」
「抜け毛の清掃を」
「我自身が原因ではないか!」
リリアーナが聖杖を掲げた。
「浄化はお任せください!」
「聖女様」
「はい」
「距離が近い」
「浄化の距離まで!?」
エレノアは、張り詰めていた息をゆっくりと吐いた。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「迎えに来てくれて、ありがとう」
マリベルの動きが止まった。
鉄扇を持つ指が、わずかに緩む。
「当然のことでございます」
マリベルは深く頭を下げる。
「私は、お嬢様の侍女ですので」
「ええ」
エレノアは優しく微笑んだ。
「だからこそ、帰ったらお説教です」
マリベルが顔を上げる。
「お説教でございますか」
「はい」
「魔王様を正座させた件でしょうか」
「それも少しあります」
「少し」
「一番は、私を助けるためなら、自分が傷ついても構わないと思っていたことです」
マリベルは言葉を失った。
「お嬢様」
「あなたが迎えに来てくれたことは、とても嬉しかったわ」
エレノアはマリベルの目を見た。
「でも、あなたが傷ついていたら、私は嬉しくありません」
「私は、お嬢様をお守りするためなら」
「そこです」
エレノアの声が少しだけ強くなる。
「私を守ることと、自分を粗末にすることを同じにしてはいけません」
マリベルは何も言えなかった。
「あなたは、私にとって大切な人です」
その一言に、マリベルの瞳が揺れた。
「だから、次に私を助けるときは、自分も無事に帰ることまで考えてください」
「……承知いたしました」
「反省してる?」
「はい」
マリベルは鉄扇を胸元へ添え、深く頭を下げた。
「お嬢様をお守りし、必ずともに帰ります」
「よろしい」
エレノアの口元が、柔らかくほどけた。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。
***
後日。
魔王城の大広間には、新しい規則が掲げられた。
一つ。
『公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様を攫ってはならない』
一つ。
『敵軍を支える要を見つけても、安易に誘拐してはならない』
一つ。
『人質によって心を折ろうとしてはならない』
一つ。
『侍女マリベルを怒らせてはならない』
一つ。
『正座は処刑ではない。反省の姿勢である』
四天王は、最後の一文を外そうとしたが、魔王が止めた。
「残しておけ」
「しかし魔王様」
「これは規則ではない」
魔王は、玉座の横に置かれた厚い座布団を見た。
「安全対策だ」
その後、魔王軍は魔境の街道整備を始めた。
ガルドは炊き出しの火力を担当した。
セルフィーナは保存庫を整えた。
ノクスは夜間の見回りを命じられた。
ヴォルグは抜け毛対策のため、毎朝ブラッシングを受けた。
勇者パーティーは、魔王城の廊下を磨かされた。
魔王はエレノアから、謝罪文の書き方を教わっていた。
「魔王だから従え、では謝罪になりません」
「では、魔王だが申し訳ない、では」
「魔王を外してください」
「我が誰なのか分からなくなる」
「謝罪に肩書きは必要ありません」
少し離れた場所で、リリアーナが手を組んで祈っていた。
「エレノア様のお導きが、魔境にまで」
マリベルが振り返る。
「距離が近い」
「独り言ですのに!?」
***
公爵家へ戻った日の夜。
エレノアは自室の長椅子へ腰を下ろした。
マリベルが紅茶を淹れる。
茶葉へ湯を注ぐ音。
白い湯気。
窓辺のカーテンが揺れる音。
見慣れた部屋。
聞き慣れた足音。
それらが、エレノアの肩に残っていた緊張を少しずつほどいていく。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「戻ってこられましたね」
「はい」
「二人とも、無事に」
「はい」
エレノアは紅茶のカップを両手で包んだ。
温かさが、冷えていた指先へ広がる。
「今日は、それだけで十分です」
マリベルは目を伏せた。
「もったいなきお言葉でございます」
「ただし」
「はい」
「次からは、魔王様を侍女志望にさせないでください」
「私が勧誘したわけではございません」
「でも、あなたが勇者様方へエプロンを着せたから、何かを誤解したのではありませんか」
「魔王様の理解力の問題かと」
「少しは責任を感じてください」
「善処いたします」
「絶対に善処しない顔ね」
エレノアが呆れたように笑った。
マリベルは何も言わず、カップの横へ小さな菓子を添える。
揺れる湯気の向こうで、エレノアの顔からようやく不安が消えた。
マリベルにとっては、それで十分だった。
***
そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。
老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
そばにいた従僕が、震える声で尋ねる。
「今回は、どちらへ向かわれるのでしょうか」
老執事は遠い空を見た。
「分からん」
「分からないのですか」
「あの声が響いた時点で、行き先を知ることに意味はない」
「では、何をすれば」
「覚悟を決めなさい」
公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。
お嬢様が呼ばれた。
ならば、戦である。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。
気に入っていただけましたら、第一作目の「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」もぜひ読んでみてくださいね。
また、本作とは異なる展開やエピソードを加えた連載版
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
も投稿しておりますので、そちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。
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