月夜のうさぎ〜15の夜〜
「もしもし、聞いて下さる? 私、今日で15歳になるんです。もう立派な大人です。お団子だって1人で作れるようになったんです」
縁側に腰掛けた“鈴”は腰より少し後ろについた手に体重をのせる。
返事の返ってこないまま続ける。
「もしもし、今日はお月様もお祝いして下さるのよね?だって今日は満月だものね。せっかくお団子だって用意したもの。来てくれなきゃ、私嫌よ?」
ふうと一息吐き手を浮かすと鈴の体は支えを失ってパタリと倒れた。
見えるのは灰色一色。
陽だまりを期待した鈴は退屈に感じた。
「母様かあさま、少し出かけてきます。お昼までには帰ります」
「お待ちなさい。出かけるなら帰りにススキを採ってきてちょうだいな」
「ススキ、何に使うんです?」
「お団子と一緒に飾ろうと思って。頼めるかしら?」
「もちろんです! 行って参ります!」
「はいな。気を付けて行ってらっしゃい」
鈴は一人で街を歩いていたが、実のところ用事は無かったのだ。
家にいるのが退屈で外に出たものの、これと言って欲しい物も特に無し、約束がある訳でも無し。
結局退屈で、ただ歩くしかないのだ。
歩いていると、何度か男の人に声をかけられた。
どれも遊びの勧誘だったが、いくら暇とは言え見ず知らずの異性と遊びに行くほど愚かなことは無いと考え、その度に丁重に断った。
「嫁入り前の女子おなごが夫となる方以外と遊ぶのは、些か破廉恥だと思いませんか? そのような事を貴方はこの私にさせようとしているのです。もし腕を掴んででも私を連れて行こうと言うのであれば、私は大声で叫びます。『誘拐だ、辱めを受けさせられる』と。それでも良いと仰るのなら、私を強引にでもお連れくださいな」
大抵の男はここで引き下がったが、ただ一人、引き下がらない男がいた。
「私は月之丸つきのまると申します。貴方ほど面白い女子には出会ったことが無い。良ければ少しだけお話出来ないだろうか?」
歳は鈴と同じくらいの綺麗な黒髪の少年だった。
襟足が少し伸び、癖があるのか少しはねているのがどうにも幼く見せている。
そんな子供っぽい様子に見えるのに、藍色の落ち着いた着物が良く似合う。
返事をしようとした鈴のお腹の虫が鳴いたことに気付き、おむすびをくれた。
鈴は不思議と嫌な気はしなかったので、彼に同行することにした。
彼は鈴のいるこの村に移り住んできたばかりで、同じ年頃の人と言葉を交わすのは今日の鈴が初めてだと言う。
今腰を下ろしているこの河原に来たのも初めてで、とても綺麗だと年齢に似合わず無邪気にはしゃいだ。
そんな姿を見て鈴も心做しか嬉しかった。
それからしばらく話し、空の色が変わっている事に気付いた。
「茜色…」
彼が小さく呟き見つめる先に目をやると、だいぶ下に降りてきた太陽の光が厚い雲の隙間から幾つもの筋になって漏れていた。
「綺麗ね」
「君みたいだ」
「…え? 私?」
彼の方を向くと、隣に座っている彼の目が光を浴びて輝いていた。
目だけではない。黒髪も、大人びた顔も、鈴より少し広い肩も、風で着物の裾が上がって見え隠れする足元も、全てが艶やかで美しい。
頭がぼうっとする。急に頬が熱を持ち始めた。
鈴は慌てて顔を隠そうとするが、それは叶わなかった。
掴まれた腕も、その指先までもどんどん熱くなる。
彼はどう思っているのだろうか?
彼も頬が熱くなって頭がぼうっとなっているのだろうか?
夕陽で彼全体が紅く、頬が紅潮しているのか夕陽で照らされているからか判断がつかない。
鈴が何も答えないでいると、彼は鈴の手を離し、視線を前と同じ場所に持っていく。
「この空は君みたいだ。とても美しくて、そして寂しい。淡くて儚い夢のようだ」
鈴は美しいと言われた事がこれまで生きてきた中で一度も無く、どう反応して良いか分からなかった。だが、
「月之丸様、“寂しい”とは何故です?」
とは、聞かずにはいられなかった。
少し悩み、彼は答えた。
「寂しいさ。君が願ってくれたから私と君は会えたのだ。だけど、私と君とでは、若もしかしたら今日しか会えないのだから。だから寂しい。しかし鈴、今日この日に出会えた事が未だに信じられないのだ。奇跡だ。まるで夢のようだ。君に会えたことで私の世界は輝きに満ちた。私は藍色しか知らなかったが、この茜色、私は決して忘れないだろう。君が“これからも”語りかけてくれれば私はそれに答えよう。君の願いも叶えよう」
彼は不思議だ。
初めて会った気がせず、何でも話せる気持ちになる。
ずっと前から知っていたような感覚に陥る。
「私……」
今にも吸い込まれてしまいそうな彼の黒い目から視線を外さないように話す。
だが何故だろう。意識的に視線を外さないのではない。無意識に外してはいけないと何処かで言われている気がした。
「私、ずっと前から貴方の事を知っていたような気がするのです」
彼はただ頷いた。
「貴方は先程今日しか会えないと仰いました。何故です?私は…私はまだ貴方と話していたい。また会いたいです。この気持ちは何ですか?貴方と会ってからというもの、ずっとこの辺りが変なのです。教えてください」
鈴は自分の胸元に手を当てた。
堪えなければ溢れてしまいそうな気持ちを全部、必死に留めた。
「それが知りたければ、今夜いつも通りに語りかけなさい。きっと答えて差し上げましょう。その時に願いも1つ叶えて差し上げよう。今日は特別な日だ」
「何を言っているのです……?仰る意味がよく分かりません。もう少しわかりやすく……」
「“茜”さん、月にはうさぎが居るのですよ。月のうさぎは餅をつくのが上手いのです。しかし、なかなか上手くお団子が出来ないのです」
「え……何故それを……」
『私は貴方を愛しています』
「私に?」という言葉を遮り、彼は“鈴”の額に柔らかく口づけをした。
堪えていた滴が次々と零れ落ちた。もう止められない。
「15の誕生日おめでとう。私はずっと貴方に会いたかった。私はずっと貴方を待っています」
そう言うと彼は笑顔だけ残して立ち去ってしまった。
茜色だった空は、蒼くなりかけて別世界との狭間のようになっていた。
鈴が家に帰ると母が血相を変えて慌てて駆けてきた。
「只今帰りました。ススキ、しっかり持って帰ってきました。お昼までに帰ると言いながら、遅くなってすみませんでした。ご心配をおかけして…」
──パシン!
鈴の頭は一瞬真っ白になった。
「……!(何が起こって…。頬が痛い)」
すると突然体が何かに吸い寄せられて、包まれた。「心配したんだから!もう二度とこんな事しないでちょうだい」
「はい。ごめんなさい」
「分かればいいの。お夕飯の準備は今日は私がやるから、鈴はお団子を作ってちょうだいな」
「はい」
鈴は母に許しを得て縁側で団子を拵えた。
丸めて、丸めて、出来たら積み上げる。
月の神の為に。
鈴は団子を作りながら月之丸の事を思い出していた。
「私、彼に誕生日って言ったかしら。それに名前……」
彼は一度、鈴のことを“茜”と呼んだ。
どうして彼が鈴を茜と名前で呼んだのだろう。
鈴は一呼吸して深く息を吸った。
「もしもし、今お団子を作っています。ススキも持って帰ってきたのです。これで準備は万端です」
「……もしもし、お月様はいつもお1人で寂しくはないですか? 私は今日はとても不思議な体験をしました。不思議だけど、楽しかったのです。あの方はとても良い方で、美しかったのです。叶うのなら……(私はうさぎになりたい。そうしたらお月様のところまで飛び跳ねて行けるかしら)。 私は彼のことが好きなのかも知れません。(もう一度会いたい)けれど彼は、もう会えないかもしれないと私に言いました。これでまた私は一人です。寂しいわけでは無いのですよ(本当は寂しい)? 話し相手もこれまで通り貴方だけです(だから誰にも自分のことを話した事はありません)。なのに……(なのに何故彼は私の事を知っていたのでしょう……)。(茜は私の古い名前。誰にも言った事の無い過去の話。遠い記憶。それなのに……)それなのに……何故!」
団子を作り終える時にはもう辺りが歪んで見えた。
言葉も涙もどんどん溢れて手では拭いきれなかった。
鈴は沢山丸めた団子のうち1つだけ少し大きい団子を作った。
「もしもし……」
声が震えて喉が詰まりそうになる。
「もしもしお月様、私はこのお団子を貴方への贈り物にします。その代わりですが、もう1度、もう1度あの方にお会いしたいです! 月之丸様……。月之丸様、貴方は本当はお月様なのですよね? いつも私を見守って下さるお月様なのですよね? 今日、会いに来てくださって嬉しかったです。来てくださったのは、私が今日家を出る前に貴方様に会いたいと願ったからですよね? ならば、ならば私は、もう1度貴方様に会いたいです!」
いつしか語りかけは叫び声に変わっていた。
届くかもわからない語りかけでも、鈴はずっと彼の存在や言動が気掛かりだった。
けれどもし、彼が月だと言うのなら、私の過去を知っていてもおかしくない。
何故ならずっと小さい頃から鈴は月に語りかけていたのだから。
──まだ鈴が“茜”だった頃から。
しかしそのまま月之丸が現れることはなく、鈴は床についた。
そろそろ日付も変わろうかという頃、鈴の部屋に一筋の月明かりが入り込んでいた。
「…ね。あ…ね。…あかね。…すず?」
呼ばれていた事に気付いた鈴はゆっくり目を覚ました。
見えるのは天井。
それにまだ暗い。
普段はこんな時間に起きないのに何故だろうか、と、ぼんやり考えている間に目が慣れて、縁側に光が差し込んでいるのが見えた。
不思議な景色だ、と思って瞬きをすると、縁側に1人の男性が腰掛けているのが見えた。
しかもこちらに上半身を捻って視線を向けている。
鈴は慌てて飛び起きた。
「貴方何者ですか!?こんな夜更けに他人の家に上がり込むなど…」
「この空は私みたいだ。とても暗くて、そして冷たい。深い深い闇のようだ」
「……あの、何を仰っているのです? そんなことはどうでもいいのです。早くこの家から出て行って……」
「この空は闇だ。私はこの藍色しか知らない。けれどそんな私に今日、ある少女が“茜”という色を、夕暮れ時の、それはもう美しい色を教えてくれた。そして彼女はまた私に会いたいと願ってくれた。だから私は再びここに来ることが出来た。今日はなんて幸せな日なのだろう」
「……」
「その上、作った団子を私にくれると言うのだから、これ程までに良いこと続きな日はこの先生きる上で無いだろうね。君もそう思うだろう?」
鈴は酷く混乱していた。
話している事や口調は、どう考えても昼間の彼とよく似ている。
しかし容姿はもっと幼く声も高かった。
無邪気にはしゃぐ彼とは雰囲気がまるで違うから、頭の中の彼と結びつきそうにも結びつかない。
鈴が少しの間黙っていると、彼は捻っているのが疲れたのか、上半身を前に戻した。
その瞬間、鈴の全身に電流でも走ったかのような衝撃で心臓が跳ねた。
彼の襟足は少し長く、癖なのかはねている。
昼間の彼と全く同じだ。
不意に懐かしさを感じ、鈴は顔の見えない彼の背中に飛び込んだ。
「おおっと、急にどうしたのです? もしかして、思い出して頂けました?」
「思い出すも何も、今日あれからずっと貴方の事を考えていましたよ」
「はい、知っています」
「あの時はずっと子供っぽくて声も高かった」
「そっちの方がいいですか?」
「いえ、どちらも素敵です」
するりと伸びる白い手が鈴の頬を包む。互いの熱を伝え合うように、どちらともなく口づけを交わした。