98.偏った恋と執着の物語④
数日後のことだった。
俺のもとに、思わぬ報せが届いた。
どうやら――王女、スフィーラ・グルスタント殿下が、俺に興味を示したらしい。
王が父に、婿としてどうかと打診してきた、というのだ。
アルディシオン公爵家、本邸・執務室。
父――ディバルス・アルディシオン公爵の前に立った俺に、差し出されたのは一枚の紙だった。
「ここに、サインをしろ」
無機質な声音で告げられたその言葉に、俺は静かに眉をひそめた。
差し出されたのは、スフィーラ王女との“婚約契約書”だった。
「お待ちくださいませ、父上」
「なんだ。口答えはいらん。公爵家の者が感情など持ってどうする。
己を“道具”と思え。それが当主としての務めだ」
淡々と放たれるその言葉に、息をのみそうになった。
……だが、それでも俺は一歩も退かない。
「はい。俺は、自分が道具であることを承知しております。
しかし――“より効率的な道具の使い方”をご提案申し上げたく思います」
父が僅かに眉を上げた。
俺は合図を送り、後方に控えていたジャケルが、さっと分厚い資料を差し出す。
「これは?」
「こちらをご覧ください。
ディーズベルダ・アイスベルルク嬢が、九歳の頃から発明し、稼ぎ出した利益の詳細です。
すでに個人資産だけで、地方貴族五家分に匹敵します。加えて、彼女の発明品は王都市場に広く出回っており、今後も安定した継続的な利益が見込まれます」
「……ふむ、これは……」
分厚い帳簿の一枚一枚をめくる父の手が、次第に止まっていく。
やがて、父の隣に立っていたディバルス家の執務官までもが、目を丸くした。
「父上……この額は、ただの商会とは思えません。王宮御用達にしてもおかしくない規模です」
「うむ……。確かに“天才令嬢”などと噂は聞いていたが……。
まさかここまでとはな……。女とは思えん……」
――失礼極まりない感想だが、俺はそこに食いついた。
「父上、母上は“王族の出”でいらっしゃいましたよね」
「そうだが、それがどうした」
「同じ血統をさらに濃くすれば、後継の誕生に支障をきたす可能性もございます。
加えて、スフィーラ王女殿下の浪費癖は公にも知られております。
それに対し、ディーズベルダ嬢は収益を伸ばす実績を示しており、知性も実行力も並外れています」
「……それで?」
「俺は、このディーズベルダ嬢を“公爵家の駒”として完璧に機能させられます」
そう言い切る俺に、父は沈黙ののち、低く唸った。
「……ふむ。“金の肥やし”には、こやつの方が優れていそうだな」
「俺の目的は、“公爵家の安定と発展”です。
そのためには、“王族”よりも、“稼げる才女”を選ぶべきではありませんか?」
「……よかろう」
重々しい口調で、父が告げた。
「その代わり、逃げ道はないぞ。
本当にその女を公爵家に迎えるのなら、どんな形であれ“全うする”のだ」
「もちろんです」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そうして二年が過ぎた。
ディーズベルダは――まったく俺になびかなかった。
どれだけ距離を詰めようと、どれだけ甘い言葉を囁こうと、彼女は微動だにしなかった。いつも淡々と、冷静で、まるで氷の壁を築くように。
そして、ついにあろうことか。
リーフィット侯爵子息――あの草食系の、温和で礼儀正しい青年と縁を結ぼうとしたのだ。
あの瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
やや強引に。 いや、正確には――脅迫じみた手段で、俺は彼女との婚約を取りつけた。
もちろん、心から望んでいた婚約ではあった。 ただし、彼女にとっては、まったくそうではなかったのだろう。
けれどそれでも――俺は、諦めなかった。
それどころか、すぐさま次の一手を打つため、執務室へと向かい、父ディバルス公爵の前に立った。
「父上。お願いがございます」
「なんだ、今度は何を企んでいる」
執務机に積まれた書類から視線を上げずに、父はぶっきらぼうに答えた。
「アイスベルルク侯爵家に――俺を滞在させてほしいのです」
「……は?」
初めて、ディバルスが顔を上げた。
「文が必要です。“婚約者と愛を育むため”という建前で構いません。公的な書状を出していただければ、アイスベルルク侯爵家も断れません」
「ふむ……」
父ディバルスは、机に指をトントンと叩きながら、俺を値踏みするように見た。
だが本音は別にあった。
この文があれば――あの家に俺を“置ける”。彼女の開発を間近で監視し、盗めそうな技術があれば、すぐにでも手を出せる。誰よりも早く、その才能を我が物にできる。
そう、彼女を“公爵家の駒”として囲い込むには、これ以上ない口実だった。
「……よかろう。公的な文書は、こちらで手配しておこう」
ディバルスがゆっくりと口角を持ち上げる。俺もまた、静かに一礼した。
たとえ今、彼女の心が俺に向いていなかったとしても。
それでも――俺は絶対に手放さない。
好きだから、なんて綺麗事ではない。
そう、あのときの俺は、まだただ“欲しかった”だけだったのだ。
手に入れたい。誰にも渡したくない。ただそれだけの、我儘な欲望。
だが、そう思いながらも、ほんの一瞬、胸の奥がきゅうと痛んだ気がした。
(ディーズベルダ嬢……きっと、あなたはまだ気づいていない。俺が、どれだけあなたに人生を捧げてきたかを――)
ほんの少しでも、報われたくて。
ほんの一度でも、俺を見てほしくて。
振り向いてくれる日を夢見て、積み上げてきた時間だった。
けれど――まだ、彼女の瞳には、俺は映らない。
だからこそ、俺は手段を選ばない。
欲しいものを手に入れるために、俺は努力を惜しまない男だ。
そうして――
翌日には、俺は“婚約者として愛を育む”という名目のもと、アイスベルルク侯爵家の別邸に住まうこととなった。
すべては、彼女の隣にいるために。
どれだけ冷たくされようと構わない。
この距離にいられるなら、それだけで――俺は、十分だ。