97.偏った恋と執着の物語③
入学式の朝――
制服の上着を羽織りながら、俺は鏡の前でふっと口元を引き締めた。
(……完璧だ。計画通りにいけば、今日から彼女との未来が始まる)
ディーズベルダ・アイスベルルク嬢。
俺を救ってくれた存在であり、運命の相手。
そしてこの日のために、俺は時間と労力を惜しみなく注ぎこんできた。
まず最初に動いたのは、“彼女の家族”だ。
本人に直接近づくより先に、家族の心象をよくしておく――それが信頼構築の近道だと、本に書いてあったから。
数日前、最果ての荒れ地――常に紫の霧が立ち込め、魔物すら息を潜めるその地を遠征した。
目的は、彼女の兄・ベインダル・アイスベルク殿と接触すること。
荒れ地の最寄り、エルキン村にある小さな宿屋にて、俺は彼と会った。
一流の貴族とは思えぬほど無骨で、物静か。けれど威圧感と気品を感じさせる人物だった。
「初めまして、エンデクラウス・アルディシオンです」
俺が笑みを浮かべてそう言った瞬間、ベインダル殿はまるで「なぜ私に声をかけるのか」とでも言いたげな視線を寄越してきた。
だが、構うものか。即座に手を取り、強引に握手へと持ち込む。
「俺にも妹がいるのですが……少々、男性の趣味に不安がありまして。もしよければ、妹を持つ者同士、お話でもしませんか?」
正直、下手な芝居だったとは思う。けれどベインダル殿は一瞬黙り――そして、淡々と答えた。
「……なぜ私がそのような場に……いえ、恐縮です」
そう。侯爵家は、公爵家の申し出を真正面から断ることはできない。
形式上でも、“対等”ではないのだから。
その場では、取り留めのない話をした。妹の成績、最近の悩み、学園での交友関係。
けれど、その中で彼は――ぽろりと大事なことを漏らした。
「……あいつは、敬語を使う男に妙に反応を示す傾向がある。日記にもそう書かれていたな」
この情報が、俺の“勝利の鍵”となる。
ベインダル殿との別れ際、俺は心の中でガッツポーズを取っていた。
得た情報は一つだけ。それで十分だった。
(よし、今日は絶対に敬語でいこう。あくまで上品に、優雅に、彼女の好みに沿って)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
鏡の前で、俺は静かに息を吐く。
朝に整えたばかりの黒髪に、もう一度手ぐしを通し、制服の襟元をきちんと直す。タイの結び目を確認し、ほんのわずかでも緩みが見えれば、すぐに結びなおした。
(完璧だ)
これから俺は、王立グルスタント学園の入学式に臨む。そして――新入生代表として、壇上に立つ。
なぜ、こんな面倒な役目を買って出たのか?
理由は一つ。
その位置なら、彼女を正面から見つめられるからだ。
ディーズベルダ・アイスベルルク嬢。
俺を救った少女であり、俺のすべての努力の理由だ。
大講堂に整列する新入生たち。その中で、彼女を見つけるのは時間がかからなかった。
酸素を凍らせたような銀色の髪に、澄みきった青い瞳。誰よりも気品に満ちて、美しかった。まだ十二歳の少女とは思えないほどに。
(……やっと、会えた)
司会役の教官が名前を呼び上げ、俺はゆっくりと壇上へと歩を進める。
拍手に包まれる中、あくまで冷静を装いながらも、視線は彼女から一瞬も逸らさなかった。
「新入生代表として、このような晴れの場に立てたことを、光栄に思います」
抑揚をつけ、はっきりと通る声でスピーチを始める。
しかし、その実――
(ディーズベルダ嬢、俺を見てくれているだろうか)
ほんの数秒。彼女と視線が交差する。
その瞬間、俺は、つい――
微笑んでしまった。
(……あ、しまった)
だが、それでも構わなかった。これが、俺の“始まり”なのだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
入学式が終わると、俺はあっという間に女子たちに囲まれた。
「代表スピーチ、すてきでした!」 「さすがアルディシオン公爵家のご子息ですわ!」
一人ひとりに丁寧に返答をしつつも、俺の心は落ち着かなかった。
(彼女が……いない)
この会場にいるはずの、たった一人に会えないという事実に、焦りが込み上げる。
周囲の女子たちの言葉が、ただの騒音のように遠ざかっていく。
(……逃げられた!?)
俺はそのまま、彼女の姿を探して、すぐに人混みを抜け出した。
そして――廊下の先、静かに歩く彼女の後ろ姿を見つけた。
「――俺のスピーチ、退屈でしたか?」
彼女の背中に声をかけると、彼女は少しだけ肩を震わせ、ピクリと反応を返した。
「……急いでるんで」
その一言だけを残して、足早に前へ進んでいく。
その様子は、まるで俺から“逃げている”かのようで。
(あの兄にして、この妹……なるほど、そういうタイプか)
だが――逃がす気はなかった。
「では、ご一緒します」
「ちょっと!?」
まるで当然かのように、俺は彼女の隣に並ぶ。
その一歩一歩のリズムすら、無意識に彼女に合わせていた。
「私、別にあなたに話しかけられるようなこと、してませんけど!?」
「俺も、“話しかけていいですか”と許可を求めた記憶はありません」
「だったらやめなさいよ!!」
その口調が、なんともいじらしくて――
思わず、心の中で頬が緩んだ。
(ああ……可憐だ…。)
まるで氷の結晶のように繊細で、触れればすぐに壊れてしまいそうな――
そんな少女が、俺に対して、憎まれ口を叩いてくれる。
こんな始まり方でも、かまわない。
だって、俺は彼女のために、寝る間を惜しんで勉強し、剣を振るい、全てを準備してきた。
絶対に――この出会いを、逃しはしない。
(これから、ゆっくりと時間をかけてでも……)
ディーズベルダ嬢を、俺の“世界”に迎え入れてみせる。




