96.偏った恋と執着の物語②
日暮れの差し込む塔の一室――
厚い扉に閉ざされた空間の中、エンデクラウスはじっと見入っていた。
届いたばかりの、一枚の絵姿。
そこに描かれていたのは、氷のように透き通る銀髪と、静かな蒼の瞳をもった少女。
「こ……これが、九歳……?」
彼は喉を鳴らし、わずかに震える指で、その絵に触れそうになって止める。
「なんて……なんて美しいんだ……! ま、まるで――妖精だ……!」
その瞬間、胸がじわりと熱くなる。
今まで一度も覚えたことのない感情が、静かに、でも確実に湧き上がってきた。
「アイスベルルク侯爵家は、代々“雪の血筋”と呼ばれております」
背後でジャケルが静かに告げる。
「雪のように白い肌、銀糸のような髪、冷ややかで品のある顔立ち。特に――まつげまで白い方は、希少です」
「……っ」
エンデクラウスは、再びその絵に目を戻した。
そう――そのまつげすら、透き通るように白い。まるで、雪の精霊がそのまま人の姿をして現れたかのような――そんな幻想的な美しさ。
(ああ……これほどの少女が、“俺を救ってくれた”なんて)
彼は机の上に重ねられた報告書に目を移す。
そこには、彼女が家の商会を通し、発明品を売り出して得た収益が、きちんと記されていた。
「な……なんだこの額は……!? これが……九歳の少女の稼ぎだというのか……?」
目が点になるとは、まさにこのことだった。
ページをめくるたび、目を疑うような利益の数字が並んでいる。
一方で、次の報告には、少女の一日の生活スケジュールも記されていた。
その中にあった――“平均睡眠時間・四時間”。
「……なっ!? な、なんで!? まだ九歳なのに……!?」
思わず椅子を軋ませて立ち上がる。
「家族は……この働きぶりに、何も言わないのか!?」
ジャケルは困ったように眉を下げる。
「どうやら、アイスベルルク侯爵家は財政難のようです。ご令嬢の発明でようやく持ちこたえているとか……余裕は、ないのでしょう」
「…………っ」
歯を噛み締めた。
怒りとも違う、もどかしさとも違う。胸の奥で渦を巻いた感情に突き動かされるように、エンデクラウスは叫んだ。
「ボディークリームだ! あのボディークリームを――買い占めろ!!」
「は、はい!?」
「俺に必要な日用品、道具、すべてアイスベルルク商会から買え! 他は使うな!! 彼女の負担を減らすんだ!!」
「え、ええと……」
(……坊っちゃん、完全に末期です)
「それと! 彼女のために情報収集を強化しろ。間者を増やしてでも構わん! 彼女の体調、日常、睡眠時間、食事内容、全部知りたい!」
「も、申し訳ありません、坊っちゃん……もう少しだけ理性というものを……」
「いいからっ!!」
今まで“外の世界”にしか興味を持てなかった自分が、
今ではたった一人の少女に、すべてを向けている。
それでもいい。むしろ――だからこそ、今度はこの手で彼女を支えたいと思った。
その夜、彼の部屋には、少女の絵姿が丁寧に額装され、
誰にも見られぬような書棚の奥――まるで秘宝のように、大切に飾られることになった。
そこからの三年間、エンデクラウスは、まさに鬼気迫る勢いで日々を生き抜いた。
寝る間も惜しみ、家族や使用人の目を盗みながら、机にかじりついて学び、剣を握り、思考を磨く。
――全ては、ディーズベルダ・アイスベルルクを“この手で掴む”ため。
勉学は常に最上位の成績を維持し、剣術では成人貴族を相手にしても負けないほどの実力を身につけ、
帝王学では国の在り方すら見据える鋭さを備えた。
いつしか、周囲の大人たちは「アルディシオン家の次期公爵は彼しかいない」と口を揃えて言うようになっていた。
そして、17歳を迎えた春――ついに、エンデクラウスは“塔”を出た。
父である現公爵は、彼の成長ぶりに言葉もなかったという。
そして正式に、次期公爵としての地位が与えられた。
もちろん、その裏には計算もあった。
「次期公爵」――その肩書さえあれば、いかなる貴族も、婚約の申し出を拒めない。
彼にとって、それはディーズベルダに正面から挑むために必要な“切符”だった。
もっとも、長年次期公爵の座を期待されていた弟・エンドランスからの視線はかなり痛いものになったが――
それも全て“未来の妻”のためだと割り切った。
未だ彼が“自室”として使い続けている別館の塔には、
ディーズベルダの絵姿が三枚、そして彼女が開発した“写真”と呼ばれる不思議な紙片が、壁一面に飾られている。
まるで美術館の一角のような空間だった。
彼女の瞳に、微笑みに、指先に――何百回も目を通した。
けれど飽きることは一度もない。むしろ見るたびに胸が熱くなる。
「……はぁ、ついに明日は入学式か」
高鳴る鼓動を抑えきれず、壁の写真を見上げて、息を吐く。
(やっとだ。やっと――ディーズベルダ嬢に会える)
あの日、ボディークリームで救われてから、ずっと想い続けてきた少女。
絵姿の向こうにしか存在しなかった彼女が、ついに“現実”として目の前に現れる。
彼はベッドに倒れ込んだまま、心の中でそっと呟く。
(明日から、俺の人生が始まる)
その瞳は、確かな決意で満ちていた。
恋でも、憧れでもない。これは“宿命”だ。
彼の人生は、この出会いのためにあった――そう信じて疑わなかった。




