94.王女の狂気と、野蛮人の正義
王都の建国記念パーティーも、夜の帳が落ち始める頃には、ひときわ静けさを帯びていた。
王と王妃はすでに退出され、余韻の残る華やかな会場には、退室のタイミングを見計らう者たちがちらほら。
その中で――
ディーズベルダは、相変わらず商人や学者、貴族の取り巻きに囲まれていた。
彼女の周囲は熱気に満ち、次々と飛び交う発明や商談の話題に、彼女は困ったように微笑を浮かべていた。
(そろそろ限界だな……)
壁際からその様子を眺めていたエンデクラウスが、ふっと視線を鋭くする。
ゆっくりと歩みを進め、彼女の腕を取って取り戻そうとした――そのとき。
突然、腕を強く引かれる感覚。
振り返る間もなく、エンデクラウスの視界に飛び込んできたのは、鮮やかな赤のドレスに身を包んだ、スフィーラ王女――。
「……王女殿下」
警戒するように口を引き結ぶエンデクラウスの腕を、彼女は逃すまいと強く掴み続ける。
その手首から、ほのかに香る――馴染みのある、だが、どこか刺すような匂い。
(……香? また、同じ手を?)
瞬時に理解したエンデクラウスは、無意識に呼吸を止めた。
だが、次の瞬間――
チクリ、と鋭い痛みが腕に走る。
「っ――!!」
針のような異物が皮膚に刺さった感覚。
香とともに、麻痺するような感覚がじわじわと腕から広がり、足元に違和感が生じる。
(……毒!? 否、麻酔……?)
身体の重さに抗うように、力を込めようとするが――
「お願いです……!これが、これが最後のチャンスなの!!」
切羽詰まった声が、エンデクラウスの耳を打つ。
スフィーラ王女は、焦りに満ちた形相でエンデクラウスを支えるようにして、人気のない回廊へとズルズルと引きずっていく。
「……このままじゃ、私は、私は野蛮なダックルスに……っ!」
彼女の手は震えていた。
口調はすでに王女の品位を欠いていたが、それでも彼女は必死だった。
――執着とも、狂気とも呼べる強さで。
(まずい……意識が――)
エンデクラウスは、ゆらぐ視界の中で歯を食いしばる。
なんとか体勢を立て直そうとするが、脚に力が入らない。
エンデクラウスは、ゆらぎ始めた視界の中で、奥歯をギリと噛み締めた。
まるで全身に重りを付けられたかのように体は鈍く、指先の感覚すら遠のいていく。
意識はある。だが、身体が思うように動かない。
(このままでは……本当に危険だ)
なんとか壁に手をついて踏ん張ろうとするが、力が入らない脚は、もはや自身のものではないようだった。
そのまま、連れ込まれるようにして小さな個室へ――
部屋の奥、ふかふかのベッドの上に、無理やり体を横たえられる。
シーツの香りが妙に甘く感じられるのは、体の感覚が鈍っているせいか。
(……くっ、なんて強い薬だ……)
息を荒くしながら、ベッドの上でエンデクラウスは身体を捩らせる。
痺れる手をわずかに動かし、せめて立ち上がろうと必死にもがくが、筋肉は震えるだけで力にならない。
(だが……あの時、ベイルに飲まされた“密薬”よりはまだマシか……)
記憶の底にある、ベインダルによる強制的な“教訓”を思い出しながら、渾身の力で腕を動かす。
「くっ……こんな……ことを……しても……無駄だ……!」
かすれる声を、必死に絞り出す。
そう――
彼にはすでに、【誓い】がある。
ディーズベルダと、聖属性の教皇のもと交わした、“愛と忠誠”の契約。
それは形式的な婚姻の誓いではない。
魂を結ぶ――たとえ肉体が汚されようとも、絶対に壊れない、聖なる契約。
破るには、教皇自身の許可が必要だ。
それ以外の手段では、指一本触れたところで契約の鎖は解けない。
だが――
「わたくしには……もう、この方法しか残されていないのです!!」
苦しげに目を潤ませながら、スフィーラ王女は叫ぶように声を上げた。
「“あの男”に嫁ぐくらいなら……この身を穢し、修道院に入った方が、まだマシ……!!」
その表情は、哀しみとも絶望ともつかぬ、狂気に近いものだった。
かつて王女として微笑みを浮かべていた少女の面影は、もうそこにはない。
「なにを……っ!」
エンデクラウスは、もはや這うようにして身体を持ち上げようとする。
だが力が入らない。どんなに気力を振り絞っても、腕が震えるばかりで動かない。
(まずい……!! このままじゃ、本当に――!!)
背筋を這う冷たいもの。
全身に緊張が走り、額からはじっとりと汗が流れ落ちる。
その時――
――ガンッ!!
重たい扉が、爆音のような衝撃とともに勢いよく開いた。
金属の音が壁に反響し、室内にいた二人の視線が一斉に向けられる。
そして、そこに立っていたのは――
「王女殿下。ここまでです」
部屋に響いたその一言だけで、空気が一変した。
開かれた扉の向こうに立っていたのは、茶色の軍装に金の淵をあしらった礼服に身を包んだ、堂々たる男――コーリック・ダックルス辺境伯。
その瞳は、まるで溶けぬ黄金を思わせる深い金で、目の前のスフィーラ王女を一瞬たりとも逃がすことなく、真っすぐに見据えていた。
その姿はまさに“裁き”そのもの。情けや同情など微塵もない、冷然とした正義がそこに立っていた。
「……その御様子であれば、婚姻の夜も、滞りなく迎えられそうだ」
何気なく告げられたその言葉に、スフィーラの顔が瞬時に引きつる。
「っ……な、何を言って……!? 」
目を見開き、必死に暴れる王女を、コーリックは片手でひょいと抱き上げ――まるで重さなど感じさせないまま、無言でその身を担ぎ上げる。
「離しなさい! 野蛮人がっ!!」
「ふ……その“野蛮人”に嫁がれるのが、あなたです。王女殿下」
冷ややかな笑みすら浮かべながら、抗議の言葉を浴びせるスフィーラの意識を、手際よく落とした。
スッと香の小瓶を開け、彼女の顔元にかざすと、ほんの数秒でスフィーラはぐったりと静かになり、腕の中で力なく眠りにつく。
「……静かになったな」
まるで運ぶ荷物の状態を確認するように一言。彼の声音に、皮肉も、怒りすらない。ただ粛々と“任務を遂行する”者の冷静さがあるだけだった。
ベッドの上で、まだ完全には意識を取り戻せずにいるエンデクラウスは、その光景を薄れてゆく視界の中で必死に見ていた。
だが、もう声を出す余力すら残されていない。ただ、奥歯を噛みしめながら、手の指先をわずかに震わせる。
コーリックはベッドへと近づき、その様子にすぐに気づいた。
「……薬を盛られたのか?」
その問いに、エンデクラウスはかすかにうなずいた。
首を動かすのもやっとの様子だが、それでもしっかりと目を開け、意識を手放すまいとしていた。
「大丈夫だ。安心しろ。今、君の夫人と、アイスベルク侯爵家の嫡男に知らせを送ってある。すぐにこちらへ到着するだろう」
「……すま、ない……」
息も絶え絶えに、それでもエンデクラウスは弱々しく頭を下げようとした。
そんな彼を見て、コーリックは一瞬だけ、ほんのわずかに表情を和らげた。
「いや……むしろ、礼を言うべきはこちらの方だ。
王族の娘を迎え入れる正当な口実を、この手で得られるなど――これ以上ない好機だ」
ほんの一瞬だけ、互いに微笑みが交わされる。
戦場で生き残る者同士が、わずかに見せる“戦友の絆”のような、無言の敬意。
その表情はすぐに消え、コーリックはスフィーラを担いだまま、ドアの方へと歩き出した。




