93.求愛のワルツ
会場の空気が、目に見えて変わる。
求愛のショーダンス・ワルツ――その旋律が流れ始めた途端、ざわりと人々が距離をとりはじめる。
この曲は、他のどんなダンスよりも空間を使い、動きも大胆で、そして何より“想い”を込める特別なものだからだ。
挑戦する者はごくわずか。この日、踊るのはたった五組。
その中に、今年はほぼ最年少のカップルがいた。
エンリセア・アルディシオンと、ベインダル・アイスベルルク。
二人が中央に進み出たとき、周囲の貴族たちは自然と距離を取っていた。 まるで二人の舞台を、誰もが期待して待ち構えているように。
(……こんな注目の中、わたくしが――)
緊張の色をにじませるエンリセアの手を、ベインダルがそっと握る。
そして――
彼女の腰に手を添え、くるりと一回転。
滑らかな動作の中、片手で太ももを持ち上げ、エンリセアの体を軽やかに宙へと舞い上がらせた。
ふわりと浮いた彼女のドレスが、花のように広がる。 回転の勢いを保ったままベインダルが一歩踏み出し、二人は華やかにその場を旋回した。
ピタリと止まると、彼はそのまま彼女の両手を取り、丁寧に――その甲へと、優雅に口づけを落とす。
「――っ!」
会場が息を呑んだその直後、拍手が自然と湧き起こった。
続けて、エンリセアが一人くるくるとターンしながら離れ、ふわりと距離を取る。 すぐにそれを追いかけるように、ベインダルが堂々とした足取りで近づき、彼女を再び捕まえて抱き止めた。
(うそ、なにこの流れ……本当に踊れるなんて……!)
さらに二人は旋回を重ね、流れるようにステップを刻み―― 次の瞬間、ベインダルの手の中でエンリセアが片足を高く上げ、優雅にフィニッシュポーズ。
再び拍手が波のように広がる。
だが、舞はまだ終わらない。
次の旋律とともに、彼女を一度手放すベインダル。 エンリセアは一人、回転しながら距離を取ったあと――
互いの視線が交わり、同時に引き寄せられるように歩み寄る。
そして、ベインダルはそのまま彼女の両腕をそっと持ち上げ、体ごと宙へと持ち上げ、くるくると回転する。 空中で舞う彼女の表情には、もはや戸惑いも迷いもなかった。
ゆっくりと着地させ、足元が安定したその瞬間――
唇が重ねられた。
会場がどよめき、そして大歓声が響き渡る。
貴族たちの間に広がる拍手の嵐。
王と王妃までもが満足げに微笑み、祝福の拍手を惜しまない。
そして――
そのまま彼女を抱き上げたベインダルは、再びくるりと旋回を描きながら中央へ。 ラストの旋律が響いたその瞬間、再び――深いキスが交わされる。
完全に止まった空気。
直後、爆発するような歓声と拍手が広間を埋め尽くした。
王族も、貴族も、平民も関係なく。
ただ“ふたりの舞”に、誰もが魅了されていた。
ただし――
会場の片隅。
金髪碧眼の第一王子・ラフィートは、まるで飲み込めない現実に目を見開いていた。
その横で、スフィーラ王女はぎりぎりと手袋の上から爪を噛んでいる。
その鋭い眼差しの先で、氷の貴公子は、誰よりも自然に、エンリセアの腰に腕を回したまま彼女を支えていた。
――その姿は、もう誰が見ても、完璧に“相思相愛”の一組だった。
ペアで踊るにはあまりに強烈な、あまりに鮮烈な存在感。
ベインダル・アイスベルクと、エンリセア・アルディシオン。
年齢差を超え、表情差すらも超えたそのダンスは、まさに“絵画”のような一幕だった。
その光景を、会場の壁際で見ていたディーズベルダは、自然と口元を緩めていた。
「……すごい」
小さく、心からの感嘆の声が漏れる。
隣にいたエンデクラウスも、穏やかな笑みを浮かべたまま頷く。
「流石でしたね。完璧でした。
来年の建国パーティーでは、俺たちも“あれ”を踊りましょうね」
「……踊れるかしら? 正直、目が回りそうだったわ」
私は額に手を添えながら、遠くの舞台を眺めた。
あのぐるぐる連発に空中回転、正直見てるだけでもめまいがする。
「一緒に練習すれば、きっと大丈夫ですよ」
エンデクラウスがにこりと笑って、手をそっと私の背中に添える。
そのあたたかさに、思わず肩の力が抜けた。
(でも……お兄様が、あそこまで“見せる”ようなことをするなんて――)
あの人は、基本的に感情を表に出さない。
誤解を恐れず言えば、無表情の氷像のような人だ。
それが、堂々と人前で求愛ダンスを踊り、堂々と三度もキスをして、
そしてなにより、エンリセアの手をとったまま、あのまなざしで彼女を見つめていた。
(……エンリセアちゃんが、ちょっとうらやましいかも)
会場のあちこちでまだざわつきが残る中、
その“中心”にいた二人――エンリセアとベインダルが、ゆっくりと人目から少し離れた柱の陰へと歩いていった。
「……これだけやっておけば、世間も私たちを“既成事実”として扱うだろうな」
低く冷静なベインダルの声は、相変わらずの感情を抑えた貴族言葉。
けれどその響きの中には、確かな意志が含まれていた。
「そ……そうね」
ようやく声を返したエンリセアだったが、その頬は赤く染まり、視線も泳いでいる。
――ベインダルの唇には、まだ彼女の口紅がうっすらと残っていた。
(う、うそでしょ……!? )
それに気づいた瞬間、エンリセアは思わず自分の手で頬を覆い、俯いた。
その表情はまるで、初恋を悟られた少女のように真っ赤だ。
なのに。
ベインダル本人は、まったく気にした様子もなく、いつものように無表情。
まるで自分に口紅がついていることすら意識していないのか、
それとも、わかっていてあえて“見せている”のか。
エンリセアは、こみ上げてくる恥ずかしさを握りこぶしに変えて噛み殺す。
(む、むかつく……!)
いつもは自分が彼を困らせる側だった。
追いかけ、しつこく付きまとうことで、あの氷のようなベインダル様を乱すのが密かな喜びだったのに。
今日は逆だ。
完璧なリード、完璧なダンス、完璧なタイミングでのキス。
観客全員を味方につけた上に、相思相愛とまで誤解させ――――
(……くっ。なんで私がこんなに翻弄されてるのよっ)
唇をきゅっと結び、赤く染まった頬をなんとか冷まそうとするエンリセア。
ベインダルはそんな彼女をちらと見下ろすと、ほんの一瞬、表情を緩め――
だが、それに気づいたのは誰一人としていなかった。




