91.ルーンガルド辺境伯位
王の演説が終わり、静かな拍手のあと、楽団の調べが響き始める。
祝賀舞踏会の開始を告げる、優雅なワルツの旋律。
「ディズィ、お手をどうぞ」
差し出されたエンデクラウスの手に、自分の手を重ねる。
慣れた動作で一礼し、舞踏の輪へと溶け込んでいく。
(ああ、やっぱりこの人と踊ると、周囲の音がふっと消える)
一歩、また一歩。
彼のリードに身を委ねると、不思議なくらい心が静かになった。
だが――音楽が一区切りを迎えると、空気が一変した。
壇上へと再び歩み出た国王は、厳かな眼差しで会場を見渡し、低く響く声で言葉を発した。
「まず初めに――この場を借りて、謝罪を述べねばならぬ」
一瞬で、空気がぴんと張りつめる。
ざわり、と会場中の貴族たちがざわめいた。
「半年前、我が王国は、ある無実の令嬢に“冤罪”を着せ、彼女を王都出禁、最果ての荒れ地の領主に任ずるという処分に至った。しかし、事実は異なっていた。我々は過ちを犯したのだ」
その言葉に、空気が凍る。
まるで時間が止まったような一瞬の静寂のなかで、私は――ディーズベルダ・アルディシオンは、ただ隣にいるエンデクラウスの手を強く握った。
返ってきたぬくもりが、言葉以上に心強い。
(まさか……この国で、公の場で、王自らが謝罪を口にするなんて)
驚きと戸惑いが入り混じる視線が、一斉に私へと注がれていた。
そのすべてを、まっすぐ受け止める覚悟は……今ならある。
王の言葉は、さらに続く。
「しかし、彼女とその伴侶の活躍により――“最果ての荒れ地”は今や、確かな開拓と発展の兆しを見せている。水源の整備、街道の建設、技術の伝播……」
その声には、確かな敬意がにじんでいた。
「よって今より――最果ての地に新たな名を授けよう。“ルーンガルド”。それは困難の地を越え、再生を成した新たな大地の名である」
場内が、さらにざわめく。
ディーズベルダの“追放の地”が、名実ともに変わる瞬間だった。
「その開拓と導きに貢献した者へ、相応の称号を授けるのは王の務めである。――エンデクラウス・アルディシオン、並びにディーズベルダ・アルディシオン、前へ」
私とエンデクラウスは、無言で顔を見合わせ、そしてゆっくりと歩み出る。
王の前まで進むと、跪き、深く頭を垂れた。
側近がそっと金の飾りが施された証書を差し出し、王がそれを手に取る。
「エンデクラウス・アルディシオン、汝には“ルーンガルド辺境伯”の爵位を与える。王国の誇りとして、新たな地を導く者となれ」
静かに証書が差し出され、エンデクラウスがそれを受け取る。
「ディーズベルダ・アルディシオン、汝には“ルーンガルド辺境伯夫人”の称号を与える。共に歩んだその知恵と力に、王国は深く感謝する」
私の手にも、証書が渡された。
「今をもって――エンデクラウス・ルーンガルド。
そして、ディーズベルダ・ルーンガルドと称すことを許す」
瞬間――
「おおっ……!」
「まさか……!」
「信じられない……」
広間に響く拍手と喝采、歓声とどよめき。
祝福の声に混じって、じわじわと背中に突き刺さるような視線があった。
熱を帯びた羨望。
そして――鋭い嫉妬。
(まぁ、当然よね)
エンデクラウスとともに最前列を下がる中、私はふと苦笑した。
ついこのあいだまで“罪人”と呼ばれていた令嬢が、今や王の口から称賛を受け、辺境伯の称号を得て戻ってきたのだ。
なかには顔を強張らせている貴族もいるし、唇を噛んでいる商人もいる。
でも、それでも私は――
(ちゃんと前を向いてる)
やがて続いて行われたのは、その他貴族への叙勲と爵位継承。
「ローラー子爵家――次期当主、ジーク・ローラー殿」
王の声に、客席のあちこちがどよめく。
クラウディスの乳母ジャスミンの兄であり、執事ジャケルの息子でもあるジークが、次の子爵位を継ぐことになったのだ。
(ふふ、ジャケルさん、きっと誇らしいでしょうね)
その後も続々と名前が呼ばれ、華やかな式典は緩やかに終盤へと向かっていった。
そして再び、会場は社交と舞踏の空間へと変わる。
華やかな音楽。
色とりどりのドレスと礼服が、フロアに花を咲かせるように舞う中――
私は、壁際に追いやられていた。
……いや、正確に言うと、“壁”になっていたのはエンデクラウスだった。
まるで満員馬車にいるかのように、彼の片腕は私の前に伸び、もう片方は腰にまわり、
完全に“貴族式壁ドン”状態で私を囲んでいた。
「……あの、これ、近くない?」
「この距離でないと、ディズィが連れ去られそうで心配でして」
「……まぁ、さっきまであれだけ商人に囲まれてたし……」
つい先ほどまで、発明品への出資や商談の依頼、果ては“お腹のお子様の性別は”と聞いてくる無遠慮な令嬢までいたのだから、疲れもする。
(けど、これはこれで……落ち着かないのよね)
ふと、音楽が切り替わった。
しっとりとしたストリングスが流れはじめ――それは、誰もが知る有名な一曲。
「……この曲、まさか……」
「ええ。求愛の舞、として知られる“星降る夜のワルツ”です」
エンデクラウスの声がやけに柔らかくて、私は目をそらしたくなる。
「この曲、いつかディズィと踊ってみたいと思っていたんです。来年の建国パーティーでは、ぜひ――」
「……え、ちょっと待って。来年って、まだ生まれたばかりでしょ……」
「問題ありません。準備は万全に整えておきますから」
「そもそも、この曲、めちゃくちゃ踊りにくいわよ?
三拍子に乗せて八の字を描いてから、組み替えして足を交差して……あれ、プロでもきついのよ」
「そこをなんとか」
さらっと言うこの男、悪気がないから厄介なのだ。
「……あなた、来年の話してるけど、ちゃんとその……抑える覚悟あるんでしょうね?」
言葉を濁しつつ、私はやや睨み気味にそう言った。
けれど、エンデクラウスは涼しい顔でこう返した。
「必要な時期がくるまでは、“花に露が触れぬよう、慎重な手入れを欠かさぬ”つもりですので」
「……言い方っ」
「ご心配なく。ディズィが望まぬ限り、俺は指一本触れません。……そのかわり、来年のパーティーでは覚悟していてくださいね?」
――この男、本当に……。
遠まわしな“約束”に、私は言葉を失ってしまった。
でも、心のどこかが、少しだけ、くすぐったいように温かい。
なぜだか、すでに来年のパーティーを楽しみにしている自分がいることに、気づいてしまって――
「……やれやれ、あなたって本当に、計画的よね」
私は小さくため息をついた。
エンデクラウスは、その言葉を褒め言葉のように受け取って、満足げに微笑んでいた。




