88.甘すぎる罠
王都・南区の一角に佇む、白壁のかわいらしい建物。
木製の窓枠には色とりどりの花が飾られていて、ガラス越しにのぞく店内は、朝の光でふんわりと明るく照らされていた。
看板には、繊細な筆記体でこう書かれている。
《Fleur de Miel》
――“はちみつの花”。
果物を中心にしたスイーツ専門店で、特に朝のフルーツプレートは“王族級の味”と噂されている人気店だ。
そんな場所の前で、私は首をかしげた。
「ここ……って?」
聞きながら、建物の扉に下がる札に目を向ける。
“Closed”――つまり、閉店中。
(朝だから、営業前……? でも、だったらどうしてここに?)
そんな疑問を抱く私に、隣のエンデクラウスが何気ない調子で答えた。
「朝食にと思って、貸し切りました」
「――ブッ!!」
変な声が出た。いや、これは仕方ない。
「ば、馬鹿なの!? ここ、王都でも超有名店よ!? 予約も数ヶ月待ちって噂の!」
「ええ、だから貸し切りました」
あくまで落ち着いた口調。でも、その目の奥にはわずかに悪戯っぽい光が宿っていた。
「……その方が、イチャつけるかと思ったんです」
「……はあああっ!?」
声が裏返った。
「なに言ってるのよ!? お店だよ!? 店員さんいるじゃないの!」
「さて、それはどうでしょうね」
意味深な笑みを浮かべながら、エンデクラウスは優雅な所作で扉を開いた。
真鍮の取っ手が軽く鳴って、あたたかな空気がふわっと迎えてくる。
中に足を踏み入れると――思わず「かわいい……」と声に出しそうになる。
淡いピンクとクリーム色でまとめられた店内は、壁には手書きの果物スケッチ、
天井にはドライフラワーがリース状に飾られ、
奥のショーケースには、季節の果実をふんだんに使った美しいスイーツがずらりと並んでいた。
甘くてみずみずしい香りが漂っていて、それだけでちょっと幸福な気分になる。
(な、なにこの空間……女子力の塊じゃない……?)
エンデクラウスが、慣れた足取りで奥のテーブル席へ向かうと、
制服姿の店員――唯一のスタッフらしき女性が、静かにお辞儀をして私たちを迎えた。
「ご来店ありがとうございます。本日は、お二人のための特別な朝となりますように」
小声で、優しく。
まるで舞台劇のワンシーンみたいな対応に、私は思わず背筋を伸ばした。
「どうぞ、こちらへ」
エンデクラウスが椅子を引いて、私に座るよう促す。
(あぁもう……)
苦笑しながら腰を下ろすと、ふわっと背中を包みこむクッションの感触。
座るだけでリラックスできるって、どれだけ居心地を計算して作られてるのよ……。
そしてテーブルには、すでに小ぶりな水差しと、フルーツを描いた可愛いおしぼりがセットされていた。
その向かいにエンデクラウスが静かに座り、私を見つめる。
「好きなものを頼みますか? それとも、俺が選んでもよろしいですか?」
「えっ……あ、うーん……」
ちょっと迷って、私は正直に口を開いた。
「私、こういうところ……あまり来たことなくて。何を選べばいいのか、わからないの」
「なるほど。では、すべて俺にお任せを」
彼はにっこりと笑い、軽く指を鳴らす。
すぐに店員がすっと現れ、彼の前に立つ。
「ちなみに――このお店には、以前も何度か来ていますよ。ディズィと一緒に」
「……え、そうだっけ……?」
私はちょっと驚いた顔になった。
記憶を手繰ろうとするけれど、思い出せない。
(結婚前……学園時代……)
その頃の私は、“意識しないようにする”ことで精一杯だった。
近くにいるだけで心が揺れるあの人を、見ないように、感じないように。
だから、どこに行ったかなんて、正直まったく覚えてない。
「……ごめん。全然思い出せないわ」
私が苦笑交じりにそう言うと、エンデクラウスは「大丈夫ですよ」と穏やかに返し、
スラスラと注文を始めた。
「本日の旬のフルーツプレート、シロップはレモンハニーで。
あと、アプリコットとベリーのミルフィーユ、ホワイトチョコレートのムースも一つ。
飲み物は、アイスベルガのブレンドティーと、炭酸水を。彼女の好みに合わせて」
(……すごい)
ただ注文しているだけなのに、声のトーンも、所作も、言葉の選び方まで――全部スマート。
横顔を見るだけでドキッとするなんて、そんなのずるい。
私は思わず頬に手を当てて、
ひとつ深呼吸をした。
注文から、ほんの数分。
テーブルの上に、まるで“タイミングを見計らった”かのようにスイーツが運ばれてきた。
――というか、その速さが異常だった。
(……早っ!?)
キラキラと輝く果物の盛り合わせに、香りの良いレモンハニーのシロップがとろりとかかっている。
見た目だけで美味しそうなのに、その香りが鼻をくすぐって、食欲を刺激してくる。
(まるで最初から、全部わかってたみたいな速さ……)
そんな違和感を感じる間もなく、隣に座るエンデクラウスがさりげなく動いた。
つやつやと熟れたイチジクのひと切れを、長い指でそっとつまみ――
そのまま、私の唇へと、柔らかく押し当ててきた。
「……んっ」
驚いて身を引きかけたけど、甘い香りに包まれて、つい口を開いてしまう。
舌に触れた瞬間、果汁がじゅわっと広がり、
酸味と甘さが絶妙に混ざり合って、思わず目を細めた。
(……この感じ、なんか……)
「前も、こうして食べさせたでしょう?」
彼が静かに微笑んで言った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥にしまっていた記憶がふっとよみがえる。
あの頃、確かに――こんな風に、スイーツを口に運んでくれたことがあった。
「……思い出してくれましたか?」
穏やかで優しいその声が、耳の奥に心地よく響いた。
(……やっぱり、ずるい。ほんとに、こういうのずるいってば……)
ぼんやりと彼の顔を見つめていたそのとき――
「っ……ちょっ、なに……!?」
突然、椅子が鳴る音とともに、エンデクラウスがスッと立ち上がった。
次の瞬間、私はふわりと宙に浮いて――
彼の腕の中に、軽々と抱き上げられていた。
「え、ちょっと!? や、やめ……!」
慌てて抗議する間もなく、そのまま彼の椅子に腰を下ろし、
私を膝の上に――まるで当たり前かのように乗せる。
「ちょ、ちょっとぉ!? これは流石に、やりすぎじゃ――」
反射的に店内を見渡す私。
(まずい、店員さんに見られたら……!)
でも――
いない。
さっきまでいたはずの店員が、どこにもいない。
カウンターにも、厨房にも、気配すらない。
見回すほどに“私たちしかいない空間”なのがはっきりしてくる。
しかも、よく見れば――テーブルの上には次に食べる予定のスイーツが、すでに完璧に並んでいた。
さっきエンデクラウスが注文していたものよりも、さらに品数が多い。
つまり――
(……最初から、全部準備されてたってこと!?)
店員がいない理由も、自分で注文しなかったことも、全部“見越されていた”。
まるで、最初から筋書きが決まっていたかのように。
私は呆れを込めて、彼を睨んだ。
「……あなた、またやってるわね」
エンデクラウスは、一瞬だけ“とぼけたような”表情を浮かべた。
「さぁ? なんのことでしょう?」
その距離の近さ。
膝の上という、逃げられない状況。
どこか得意げな彼の目と、優しさに包まれた空気。
(……もう、なんなのよほんとに……)




