87.心を壊され、愛に堕ちたその後
王都の別邸、寝室――
薄明かりの差し込む部屋の中、ディーズベルダはシーツをかき分け、静かに上体を起こした。
額にはうっすらと汗。吐く息が、ほんの少し震えていた。
「……なんか、嫌な夢を見たわ」
隣では、規則正しい寝息を立てていたはずのエンデクラウスが、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。
「ん……ディズィ、もう起きたのですか?」
彼は寝ぼけたように優しく微笑むと、手を伸ばしてディーズベルダの髪を撫でた。
「夢見が悪かったの」
「どんな夢ですか?」
「……エンディ、あなたの夢よ。学園時代のね」
「それは心外ですね」
小さく笑って、彼はすっとディーズベルダの手首をとり、彼女をベッドに引き寄せる。
「それのどこが悪い夢なんですか?」
そのまま唇を重ねてきた。やわらかく、そしてどこか名残惜しげに。
心臓が跳ねるたびに、学園時代の甘くて苦い記憶が蘇る。
「私たちの……ファーストキスって、いつだったか覚えてる?」
「はい。覚えていますよ」
彼はうっとりとした表情で、喉元、肩先、耳の下――と、今度はいくつものキスを落としてくる。
「……あぁ。確かに悪夢ですね。ディズィが浮気をするなんて」
「浮気じゃないわ」
ディーズベルダは眉を寄せて反論する。
「そもそも、あの時は付き合ってなかったじゃない」
「でも、俺に落ちなかった女性は、あなたくらいですよ。あのキスで、完全に落ちるはずだったのに」
言葉には拗ねたような響きが混じっていたが、その瞳には楽しげな光が宿っていた。
「私はいまや……あの冤罪事件すら、あなたが仕組んだんじゃないかと疑ってしまうわ」
冗談混じりに告げると――
「……まさか」
エンデクラウスの口元に、かすかな影が差すような笑みが浮かんだ。
それは否定とも肯定ともとれない、まるで“してませんとは言ってない”ような――やりました感がにじむ笑みだった。
「……まぁいいわ。過ぎた話だし」
そう、もう終わったこと。私たちは結婚して、夫婦になった。
かつて心に築いた高い高い壁は、結婚とともに、音もなく崩れ落ちていた。
どれだけ抗っても、どれだけ逃げようとしても、
私は――エンデクラウスという男に、堕ちてしまったのだ。
……いや、むしろ。
ここまでされなければ、私は誰にも心を開けなかったのかもしれない。
壊されることでしか、救われなかったのかもしれない。
彼の腕の中で眠るのが、今では当たり前のようになっているなんて――
あの頃の私が知ったら、どんな顔をするだろうか。
きっと信じない。
そしてこう言うに決まってる――「この男だけは絶対に落ちない」と。
ベッドのぬくもりに背を預けたまま、ふわりとまどろみに落ちかけたその時、
耳元に、低く穏やかな声が落ちてきた。
「ディズィ、今日は注文していた衣装を取りに行くついでに――デートをしませんか?」
「……デート?」
目を細めて振り返ると、彼はすでに起き上がり、ゆるく髪をかき上げながら笑っていた。
その目には、どこかいたずらっぽい光が宿っている。
「エンディって、そういうの……好きよね」
「はい。好きですよ」
即答。そして、さらりと続ける。
「ディズィと並んで、いろんなことをしたいんです。街を歩いて、お茶を飲んで、風に吹かれて……全部、あなたと一緒に」
「……学園時代に婚約してから、十八歳になるまで。あちこち出かけて、いろんなことしたじゃない」
ディーズベルダはふっと笑いながら、彼の胸元に指先で円を描くように触れる。
「……でもあの頃、ディズィはまだ、俺に心を預けてなかった」
エンデクラウスの声が少しだけ低くなる。
「だからこそ、今が楽しみなんです。堕ちてくれたディズィが、俺の隣でどんな表情をしてくれるのか……どんな感想をくれるのか」
そう言いながら、そっと彼女の頬を親指でなぞる。
その瞳は、まるで宝物を見るようにまっすぐで――
まるで、あの日私が築いた“心の壁”なんて、とうに見透かしていたような眼差しだった。
ふと、肩に回されていた腕のぬくもりが名残惜しそうに離れる。 同時に、エンデクラウスがすっとベッドを出て、カーテンを開けた。
朝の陽光が差し込む室内に、ふんわりと光が満ちる。 淡い光が彼の黒髪と頬を優しく照らし、まるで一枚の絵画のようだった。
「さて、起きて準備しましょう。今日はクラウを預けて、二人きりでデートをしましょう」
振り返った彼の顔は、どこかいたずらっぽく、それでいて誰よりも誠実だった。 まるで恋を知った少年のように、私との時間を心から楽しみにしている顔。
「はいはい、仰せのままに。旦那様」
私はくすっと笑いながら、ベッドの上で髪をかきあげて返事をした。 眠気が残る中でも、彼の言葉に応えると、不思議と体が軽くなる。
それにしても、二人きりのデートだなんて――
たしかに、ここ最近はクラウディスの世話や領地の仕事、そして王都の用事で、夫婦ふたりだけの時間はなかなか取れていなかった。 だからこそ、こうして“二人きり”という言葉が、妙に胸に響く。
彼はすでに着替えを済ませようとクローゼットへ向かっていた。 その背を見つめながら、私はぽつりと呟く。
「……ねえ、エンディ」
「はい?」
「今日は、私があなたの一歩後ろを歩いてあげるわ。……デートだからね。少しは、淑女らしくしてあげる」
「それは楽しみです。ぜひその姿を、誰よりも近くで堪能させてください」
ふたりの間に流れる空気は、甘くやさしく、どこまでも穏やかだった。
支度を終えて寝室を出ると、ちょうどジャスミンがクラウディスを連れてやってきた。 目をこすりながら「ぱぱ!まま!」と飛び込んできた小さな天使をしっかりと抱きしめ、ふたりで頬ずりをした。
「クラウ、お利口にしててね。今日はパパとママ、ちょっとだけお出かけしてくるから」
「たやたや?ばーばぶ!」
元気いっぱいに手を振る息子の姿を背に、私たちは手をつないで、別邸の玄関をくぐった。




