86.毒と解毒と求婚状
それから、月日は流れ――私は十四歳になった。
アイスベルルク侯爵家、本館食堂――
そこに、重たく沈んだ溜息が二つ、同時に響いた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
「……はぁぁぁぁぁぁ……」
椅子に並んで座るのは、ディーズベルダとベインダル。
侯爵令嬢と次期侯爵のはずなのに、その肩は珍しく項垂れていて、どこか疲弊している様子。
その空気を割るように、優雅な足取りで部屋に入ってきたのは、次男・ベリルコート。
酸素すら凍らせそうな銀色の長髪がふわりと揺れ、中性的な美貌はどこか幻想的ですらある。
「……どうしたの、二人とも。朝から陰鬱なオーラが漂ってるけど?」
涼やかな声でそう問いかけると、姉と兄がピタリと息を合わせた。
「「アルディシオン公爵家の……!」」
ベリルコートの眉がぴくりと動く。
「え……お兄様も?」
「お前もか……」
互いに驚いたように顔を見合わせる兄妹の図。
何か通じ合ってしまったことに気づきたくなかったベリルコートだったが、事態は容赦なく加速していく。
「何……二人とも、アルディシオン家に何かされてるの……?」
「ストーカーだ!」「ストーカーよ!」
「……えっ。えぇ……?」
ベリルコートはさりげなく一歩後退した。まさか、あの名門アルディシオン公爵家が――?
「お兄様、接点なんてあるの?社交を嫌ってたでしょう」
「……デビュタントもまだな年齢で、社交に出れば必ず現れて、付け回されるのだ……。あの、ふりふりドレスの……」
「エンリセアちゃんね。……うん、それは、うん、同情するわ……」
ディーズベルダは苦笑しつつ、自身の体験を振り返った。
「お前はどうしたんだ?」
ベインダルが無表情で尋ねると、ディーズベルダは一瞬黙り込む。
「……私は……」
それは、ほんの数日前の出来事だった。
毎日毎日――当然のように隣に張りついてくるエンデクラウスに、とうとう私は限界を迎えた。
(もう無理。息苦しい。むしろ“窒息”って文字が浮かんで見える)
そして私は、“撃退”を決意した。
手を出したのは、同じクラスのリーフィット侯爵家の御子息。
優しくて気配り上手、緑の髪に桃色の瞳という、まるで春風みたいな雰囲気の草食系男子だ。
決して出しゃばらず、でも誠実で――そう、ちょっと“優しさに甘えたい時”には最適な存在。
私が彼と並んで、笑いながら話していた、まさにその時だった。
「……おやめください」
ぴたり、と右手を強引に引かれた。
次の瞬間、私は気がつけばエンデクラウスの横に“移動”させられていた。
「な、なにするのよっ!」
「どういうつもりですか?俺というものがいながら――他の男と笑い合うとは」
「はああああ!?関係ございませんけど!?エンデクラウス様には一ミリも!」
「俺の……何が足りませんか?」
さらっと深刻そうな顔で問いかけてくるその様に、背筋がぞわっとした。
怖い。というか本気の顔やめてほしい。
「足りないものなんてありません。しいて言うなら……あなたと私の“未来”です。この貴族社会で私たちが並ぶことなんて、ありえないのよ」
――そう、これでいい。私は微塵も好きになっていない。
あの日、壁を作ると決めた。心を凍らせて生きると。
目を合わせず、常に斜め下を見て、呼吸を浅くして存在を薄めて――
必殺・イケメンガード、発動中。
……が、その理論武装を、エンデクラウスはあっさり打ち砕いてきた。
ぐいっと、右手が顎を持ち上げられる。
「なっ……!?な、なに、ですか……っ!」
息が触れるほどの距離。あと数センチで、唇が――
「……これを、見てください」
左手に掲げられたのは、2本の小瓶。
片方は血のように赤く、もう片方は海のように青い。
「この赤い方は、微量の毒です。そして青いほうは解毒薬」
「……はい???」
その瞬間、赤い瓶のコルクが、口で“ぷちっ”と抜かれた。
「ま、待って!?ちょっと!?ほんとに何!?やめ――んんんんーーーーーー!!!!!」
ごくんっ!!
喉が焼けるような痛みに、目の前が一瞬、白く染まった。
(ちょっっっ……これ、死ぬやつでは!?!?)
ところが、間髪入れずにエンデクラウスは青い瓶を開け、自ら口に含み、ぐっと私の腰を引き寄せ――
「んーーーーーーー!!!!!ゴクン!!!」
(おまえッ、正気かァアアア!!!???)
舌が甘く痺れると同時に、さっきまでの灼熱が嘘のように消えていく。
「し、信じらんない!!!」
反射的に頬をぶっ叩いた。乾いた音が響く。
「死ね!!変態!!」
「……お言葉、ありがたく」
くっそ!殴ってもなお手を離さないどころか――今度は、ぎゅっと抱きしめられた。
「ちょっ……な、何……離しなさいよ、空気読んで!!」
「……三日後、求婚状を送ります」
「はああああ!?誰が受け取るかそんなの!送り主ごと焼き捨ててやるわよ!!」
「そうですか。では、拒否された場合――」
エンデクラウスは、淡々と“脅迫文”を読み上げるように口を開いた。
「アルディシオン公爵家は、アイスベルルク家との縁談を断られたと見なされます。それはすなわち、“侯爵家は公爵家からの婚姻申し出を拒絶した”という前代未聞の事態に他なりません」
「ちょ、ちょっと待ちなさ……」
「各国の貴族間でも悪印象を与えるでしょうね。“驕った侯爵家”として――」
「ひ、ひどい!!!」
「……つまり、これは“誰よりも優しい脅迫”です。俺があなたを逃がすわけ、ないでしょう?」
あまりに真顔で、あまりに穏やかに、エンデクラウスは言い切った。
……やっぱりこの男、超がつく“腹黒”だ。
しかもイケメンなのが余計に腹立つ!!
――そして、今日がその“問題の三日後”であった。
バンッ!!
突然、扉が勢いよく開かれ、父・アイスベルク侯爵が血相を変えて飛び込んできた。
「たいへんだッ!! アルディシオン公爵家のエンデクラウス君から――求婚状が届いた!!」
「…………」
「…………」
「…………これです。お兄様」
ディーズベルダは、真顔のまま、ベインダルに封を切られていない求婚状を手渡す。
そこに描かれた、流麗な文字と貴族らしい装飾。誰がどう見ても、本気そのもの。
無表情のベインダルが、ずるりとその場に沈みこみそうな表情を見せたのは――たぶん、人生で初めてだった。