82.発明の苦労
私、ディーズベルダは、やることが山のようにある。
朝食を終えたあと、いつものように執務室へ入ると、机の上には研究ノートの複写用原本と、使用人たちが書き写した束がきれいに重ねられていた。
ノートのページは、意味不明なアルファベットと数字の羅列で埋め尽くされている。
これは、魔王――いや、前世の知識を持つ“転生者”だった魔王が地下の研究室に遺した、コマンド式の錬成装置の操作ノートだ。
“a12 = metal + heat + ratio 3:2”
“b4f = liquid base + color + expansion”
一見すると無意味な呪文のように見えるが、ある法則に従って組み替えることで、金属や液体、布すら“錬成”できる装置に指示が送れる。
私は使用人たちが書き写した文字列を、一つずつチェックし、さらにそれを「使えるもの」「危険なもの」「意味が分からないもの」に仕分けていく。
作業は単調でありながら、ミスが許されない。間違えば、錬成装置は平気で“有毒ガス”や“爆発性鉱石”を生成してくる。
目を通しながら、ペンを走らせ、仕分け用の魔法プレートに紙をはめ込む。その繰り返し。
背筋も目も痛むけれど、手は止めない。
次は、【心の図書館】と呼ばれる精神領域――かつて異世界の知識が蓄積された内なる空間へと入り、
“海の生物図鑑”を一枚ずつ引き写さなければならなかった。一ページずつ、手書きで紙に起こしていく。
クジラ、サンゴ、イカ、シャチ、深海魚……この世界にはだいたいいる。
けれど、この知識をもとに保存法や食材応用ができる――そう思うと、やはり手を止める気にはなれなかった。
けれど、それらすべてより今、私の頭を占めているのは――紙の大量生産だ。
この世界の人々は、今でも“羊皮紙”に頼っている。保存性は高いが、とにかく重く、扱いづらい。
私は12歳のころ、羽ペンという存在に心底うんざりしていた。
書いているそばからインクが飛び散り、乾くのを待たなければならず、勢い余れば紙を汚す。
そこで思い立ち、前世の記憶を頼りに“ボールペン”の再現に挑んだ。
試作には成功した。
ただし、問題はすぐに明らかになる。
この世界にある羊皮紙には、インクがのらない。にじむどころか、弾かれる。
何のためのペンだ、と叫びたくなった瞬間だった。
紙そのものがないのなら、作るしかない――
私はそう決めて、“和紙”の試作に取りかかった。
けれど、それは想像以上に厄介な作業だった。
水に浸した繊維をほぐし、漉き、乾かす。
前世ならば専用の設備と薬品が当たり前のように使われていた工程を、すべてこの世界の素材と人力で置き換える必要がある。
私は職人を雇い、工程を細かく言語化し、紙漉き技術を一から教え込んだ。
“魔法でちゃちゃっと”なんて発想は、そもそもこの世界では通用しない。
魔法は貴族が戦場で使うもの。日常の便利のために使われるものではない。
しかも私の“魔法”は、氷と冷気が主で、燃やす・溶かす・分解するといった加工には向いていなかった。
結果、和紙はどうにか完成した。
だがそれも、手間とコストを惜しみなく注いで、ようやく私とエンディが使える分が確保できる程度。
領民に配るには程遠い。
それでも、彼はその紙をよく使ってくれる。
簡潔で美しい文字を、さらさらと書きつける姿を見るたびに――少しだけ、報われたような気がする。
とはいえ、紙そのものよりも、さらなる壁が立ちはだかっていた。
薬品。
化学的処理を施すために必要な、あの世界では当たり前だった液体や粉末は、この世界では存在すらしていない。
正確には、“名前も性質も知られていない”がゆえに、抽出も、合成も、なにもかもが手探り状態だった。
作れることと量産できることは違うという現実を、何度も私に叩きつけてくる。
必要な工程はすべて頭にある。
けれど、道具も、素材も、協力者も、足りない。
一歩一歩、確実に進んではいる。
それでも時折、思ってしまう。
――私は、生きているうちに、このすべてをやり終えられるのだろうか。
――私は、生きているうちに、このすべてをやり終えられるのだろうか。
ふと浮かんだその思いに、手が止まった。
すると次の瞬間、背後からそっと腕が回され、温かなぬくもりに包まれた。
肩越しにふわりと香るのは、彼がいつも身につけている控えめな香油の香り。
「ん? どうしたの?」
耳元に届く、穏やかで優しい声。
それだけで、張り詰めていた気持ちが一気にほぐれてしまいそうになる。
「……働き過ぎです。今日はこの辺にしましょう」
その言葉と同時に、机の上に置かれていたペンを、彼の手がそっと覆って止めた。
窓の外に目をやると、もう陽は傾ききり、茜色の空が城下を包んでいた。
日が落ちるのはいつも突然で、けれど美しかった。
「もう、こんな時間だったのね」
呆れたように笑いながらつぶやくと、背後の彼が、ふっと鼻で笑う気配がした。
「全く……俺がいないと、ずっとやり続けているんですから」
その声には、少しだけ困ったような、それでいて優しい響きが混ざっていた。
「……ごめんなさい。集中してたの。気づいたら時間が飛んでて」
椅子にもたれるようにして、彼の胸に寄りかかる。
柔らかく鼓動が伝わってきて、安心という名の“境界線”が、すっと溶けていくようだった。
――本当に、昔からそうだった。
エンデクラウスは、私が止まることを忘れているとき、いつもその隣にいて、そっと手を伸ばしてくれる。
昔はそれが煩わしくて仕方なかった。
やりたいことを邪魔する、口うるさい男だとすら思っていた。
貴族のくせに、妙に論理的で、鋭くて、いちいち私の言葉に反論してきて。
それでも、決して私を否定することだけはしなかった。
「違う」と言いながら、「でも、それも悪くない」と笑う。
そんな彼の言葉が、いつの間にか私にとって、なくてはならない“支え”になっていた。
――今では、私が歩きすぎるとき、歩く方向を間違えたとき、
ちゃんと“止まって”と言ってくれる、大切な存在だ。
その胸の中で、私はそっと目を閉じた。
疲れていたはずなのに、不思議と重さが消えていく。
心の奥にたまっていた澱が、夕焼けに染まった空とともに、少しだけ薄れていくような気がした。
ほんの少しの休息。それだけで、また明日も前を向ける。
私の人生に、この人がいてくれて――本当に、よかった。