80.不器用な愛
王都・南区――
エンデクラウスとディーズベルダが滞在する別邸の応接間には、朝の陽光が柔らかく差し込んでいた。
その中心で、ディーズベルダはひとり、大きな紙を前にして唸っていた。
「うーーーーん……んーーーーー……っ」
机の上には、何枚もの図案スケッチ。
動物、植物、武器、魔法陣……そのどれもが試作段階で、まだ“これ!”という決定打には届かない。
悩ましげに頬をつねってみたり、鉛筆をぐるぐる回してみたりと、どうにも煮詰まっている様子だ。
「うーーーーーん! んーーーーー!」
不意に、そっくり同じ声が隣から返ってきた。
振り向けば、クラウディスが床にちょこんと座りながら、ディーズベルダの表情と声を一生懸命真似しているではないか。
「ふふ……」
それを見て、自然と微笑んだのはエンデクラウスだった。
腕を組みながらも、その表情は完全に“親バカ全開”である。
「……っふふふ。そんなに悩みますか?」
「悩むわよ!! だって、これから先、うちの領の“シンボルマーク”になっていくのよ!? 一度決めたら何百年と使われる可能性があるのに、これが悩まずにいられる!?」
ディーズベルダが勢いよくスケッチを掲げながら訴えると、クラウディスもそれに乗じて、
「なぁむ! まーう! なぁむ!」
と、さらに意味不明な“呪文のような悩み声”を重ねてくる。
「っはっはっはっ……クラウが可愛すぎる……」
とうとうエンデクラウスは限界を迎え、手で額を押さえながら笑い崩れた。
目尻は下がりっぱなしで、顔にはもう“親”の誇りと愛情があふれていた。
そんな賑やかな朝のひととき。
でも、ディーズベルダの手元に広がるスケッチは、やはり真剣そのものだった。
――今から一ヶ月後、王宮で開かれる正式なパーティーの場で、
エンデクラウスとディーズベルダはルーンガルド辺境伯の爵位を正式に授かることになっている。
“最果ての荒れ地”と呼ばれていた未開の地に、新たな名が与えられたのだ。
その名にふさわしい領地として認められるために、そして何より“未来へ誇れる象徴”を残すために――
紋章の提出は、避けては通れない大事な儀式だった。
「……やっぱり、もっと“うちっぽさ”が欲しいのよね。火と水と氷と、ちょっと機械っぽさも入れて……でも、重すぎるのはダメ。シンプルで印象に残るやつじゃなきゃ……うーーーん……!」
再び悩みモードに入るディーズベルダ。
そして再び、それを真似して「んーーー!」と声を張り上げるクラウディス。
愛らしい声に、ディーズベルダの肩から力が抜けた。
「……はぁ、もぅ……この子ったら……」
と思ったそのとき――部屋の扉がノックされた。
「奥様、来客でございます。応接間へご案内しております」
「来客? この時間に? 誰かしら……」
首をかしげながら応接間へ向かうと、そこにいたのは、淡々と座る銀髪の男――ベインダル・アイスベルルク。そしてその隣に、どこか浮かない顔のエンリセアの姿があった。
なぜか今日は、ふたりの距離がいつもより微妙に遠い。
「お兄様!? どうしたの? 突然」
ディーズベルダが声を上げると、ベインダルは面倒そうに視線を向ける。
「……近くを通ったついでだ。顔を見に来た」
変わらず抑揚のない声だったが、実のところ、彼なりの“家族への労り”だったりするのだから不器用だ。
しかし、気になったのは隣のエンリセアだった。
いつもならフリルの洪水のようなドレスを身にまとっているはずが、今日は上質ながらも落ち着いた色味の清楚なドレス姿。髪型もツインテールではなく、すっきりとしたアップにまとめられている。
(……あれ? なんか様子がおかしい)
それに気づいたエンデクラウスが、静かに問いかけた。
「リセ、どうしたんだ? 珍しいな……」
するとエンリセアは、ぷいっと顔を背けて、
「ほっといてくださいまし!!」
と不機嫌を隠そうともせず、ふんっと鼻を鳴らした。
「け、喧嘩でもしてるの?」
戸惑いながら尋ねたディーズベルダに、クラウディスまでもが口を開く。
「けーか? けーか?」
「はぁ……もぅ、この子ったら最近真似ごとばっかりするようになっちゃって……」
ディーズベルダが頬を押さえて苦笑すると、
「ほんむ、こーこっまぁ……」
と、クラウディスは意味不明な言葉で満足げに復唱していた。
そんな賑やかな雰囲気の中、ベインダルが口を開いた。
「……クラウス、ことは順調か?」
低い声で問われ、エンデクラウスは軽く頷いた。
「はい、お義兄様」
「……お前にそう呼ばれると気色が悪い。嫌味にしか聞こえん。前と同じく“ベイル”と呼べ。阿呆」
「やれやれ……相変わらずお厳しい」
そう言ってエンデクラウスは苦笑しながら肩をすくめる。
そのやり取りに笑いつつ、ディーズベルダがエンリセアへと目を向けた。
「リセちゃん、久しぶりね。お兄様に何かされたの?」
するとエンリセアは、涙目で立ち上がり、
「聞いてくださいまし! お義姉様っ!! ベインダル様ったら、私の私服の大半を……っ、燃やしてしまわれたのですわよ!!」
「えぇっ!?」
ディーズベルダが絶句し、エンデクラウスも思わず眉を上げる。
一方で、当のベインダルはというと、顔をそむけて、しんそこ面倒そうな表情を浮かべていた。
「……えーっと。お兄様、どうして?」
「後でその男に聞け」
「え……?」
まるで投げるような言葉に、ディーズベルダはますます困惑する。
けれどベインダルは、話をあっさりと切り替える。
「それより――先日、婚約書を提出してきた。これにより、予定を前倒しして三ヶ月後に婚約式を執り行う」
「えっ……!?」
思わず息を呑むディーズベルダ。
あのベインダルが、あの慎重で、石のように堅物な兄が“前倒し”などするとは――
(……え? あのお兄様が?)
それほどまでに、状況は動いているということか。
「……そうですね。第一王子も帰還したと聞いておりますし、致し方ないでしょう」
エンデクラウスが静かに頷いた。
「え……?」
今度はエンリセアの方が目を見開く。
王子の帰還――その意味を、まだ理解しきれていないようだった。
「クラウス、しっかり責任をとってもらうぞ」
ベインダルの真剣な声に、エンデクラウスもすぐに応える。
「もちろんです。……リセ、結婚式が終わるまで気を抜くなよ。婚約だけでは、いくらでもひっくり返される」
「わかっておりますわ!」
まるで軍議のような真剣さで頷くエンリセア。
そして、ベインダルはすっと立ち上がる。
「もう帰るの?」
「……あぁ。まだまだ“うつけ”のふりが必要でな」
その言葉に、エンデクラウスが皮肉げに笑った。
「ご無理はなさらずとも。お兄様には、冷淡な芝居よりずっとお似合いの冷酷さがありますよ」
「ぬかせ」
吐き捨てるように言いながらも、その背にはほんの僅か、妹のことを思う兄の影が差していた。
「私は――家を守るためなら、なんだってする」
静かに、けれど力強く言い残して、ベインダルは部屋をあとにした。
その背中を見送るディーズベルダは、ふと小さく呟いた。
「……相変わらず、不器用すぎるわよ、お兄様」




