77.王都でデート
場所は、アルディシオン公爵家――
ベインダルが一時的に借り受けている客間にて。
まだ朝の光が差し込む静かな時間。室内では、紅茶の香りと、書物のページをめくる乾いた音が漂っていた。
その落ち着いた空気を――
「ベインダル様〜♪ お出かけいたしませんこと?」
勢いよく、バンッ!!という音と共に打ち破ったのはエンリセアだった。
無遠慮に、けれど楽しそうに部屋へ踏み込んできた彼女は、フリルのついた外出用ドレスに身を包み、日傘まで差している完璧なお出かけスタイル。
その姿はまるで、これから舞踏会にでも行くかのようだった。
対して――ベインダル。
「……はぁ………………」
深く、実に深く、思いつめたような溜息を吐く。
その顔には、いつもの鋭い眼差しも完璧な表情もなかった。
なんと、髪が前髪を残したままふわりと下りており、あの“氷の貴公子”とは思えないほど――幼く見える。
眉間に皺を寄せながら、低い声で呟いた。
「……男性の私室というものは、まだ整いきらぬ舞台裏と同じもの。
ノックもなしに踏み込まれるのは、幕を開ける前の役者に観客が乱入してくるようなものだ」
言葉自体は遠回しだが、明らかに“やめろ”と言っている。
しかしエンリセアは、まったく気にした様子もなく――
「あら、ごめんあそばせ? つい、うっかり扉が軽くて……」
と、明らかにわざとらしい笑顔でくるくると部屋を見回していた。
ベインダルは、ひとつまた小さく息を吐くと、黙って棚へ向かう。
そこから小ぶりな銀の容器――愛用の整髪用ワックスを取り出し、鏡の前に立った。
指先にワックスをとり、手のひらで温めるように伸ばすと、慣れた動きで前髪をきっちりと撫で上げる。
彼の表情にはいつもの冷淡さが戻り、眉のラインもぴしりと整う。
「……即刻、扉を閉めろ。玄関で待っていろ。支度が整い次第、向かう」
鏡越しに、ベインダルは淡々と、しかし微塵の妥協もない声音で告げた。
その言葉に込められた“無言の了承”――つまり、“今日は付き合ってやる”という意思を、エンリセアはちゃんと受け取っていた。
だからこそ、彼女は満面の笑みでくるりとターンし、スカートの裾をふわりとひるがえす。
「はぁ〜い♪ お待ちしておりますわ、ベインダル様〜!」
上機嫌な声を残して、ぱたんと勢いよく扉を閉める。
部屋に再び静けさが戻ったその瞬間。
ベインダルは、鏡の中の自分を見つめたまま――
小さく、ほんの小さく、眉間を押さえて頭を抱えた。
(……この先が、思いやられる)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
王都の中心街では、昼の喧騒が一層活気を帯びていた。
石畳の通りには、高級店が軒を連ね、香水と焼き菓子の香りが風に乗って流れてくる。
そんな中、ベインダル・アイスベルルクとエンリセア・アルディシオンは、腕を組んで通りを歩いていた。
エンリセアは本日もばっちりドレスアップ済み。レースのついた日傘をくるくると回しながら、まるで舞踏会の延長のような軽やかな足取りだ。
「号外! 号外だよーっ!! ダックルス辺境伯家の大ニュース!」
新聞売りの少年が声を張り上げ、手にした紙面を道行く人々に配っていた。
その中には、目を引く見出しが踊っていた。
《スフィーラ王女、ついにご婚約! お相手はあのコーリック・ダックルス辺境伯!》
派手な見出しの下には、華やかなドレスを纏ったスフィーラ王女と、筋骨隆々の軍人然としたコーリックが並ぶ、妙に不釣り合いな写真が大きく載っている。
「ふふっ、あらあら、まぁまぁ……」
新聞の見出しを横目で見たエンリセアが、扇で口元を隠してにやりと笑う。
まるで“計画通り”と言いたげなその表情に、周囲の喧騒がどこか遠く感じられた。
隣を歩くベインダルは、相変わらず無表情を崩さずに歩いている。
けれど、絡みついたエンリセアの腕を振りほどくこともなく、むしろ歩調を合わせている時点で、彼なりに“受け入れている”のだろう。
(本気で俺を慕っているわけではない……それは最初からわかっている)
エンドクラウスから「妹を自由にしてやってほしい」と言われたのは、つい最近のことだった。
エンリセアの目的は、家を出ること。自由を得ること。
それでも――この数日のやりとりの中で、ベインダルの中には確かに、微かな“関心”が芽生えはじめていた。
「これで……私は晴れて、エンリセア嬢との婚約が決まった、ということになるな」
冷淡な声でそう告げた彼に、エンリセアはぱっと顔を明るくして、ぎゅっと腕に抱きついた。
「はいっ! うまくいきましたでしょう?」
彼女の演技じみた明るさもまた、計算づくなのだろう。
だが、その笑顔がどこか“板についてきた”のもまた、事実だった。
「一体いつからだ……」
ベインダルがぽつりと漏らす。
「いずれ夫婦になるのだから、そろそろ言っても差し支えないだろう」
その言葉には、建前の中に一滴だけ本音が混ざっていた。
エンリセアは、ぱちぱちと瞬きをしてから、ふっと笑う。
「まぁ……わたくし、こう見えても、ベインダル様のことはちゃんと慕っておりますのよ?」
その“慕ってます”にどこまで本気が含まれているのか、本人以外にはわからない。
けれど、ベインダルの目にはその微妙な“ずらし方”が、少しだけ興味深く映った。
「今日は……デートと言ったな?」
「はい! そうですわ。ついでに婚約書を教会に持って行きましょう!」
張り切った様子でそう言いながらも、エンリセアの目はちらりとベインダルの反応を窺っていた。
「ならば……近日催される王室夜会に備え、礼装を整えるとしよう。
あわせて、婚約式の衣装も一式――本日中に見繕っておくのが筋というものだな」
ベインダルは、何の迷いもない声でそう告げる。
まるで仕事を淡々と進めるように、段取りよく指示を出す姿に、エンリセアは思わず口元を引きつらせた。
「え、えぇもちろんですわ……買いに参りましょう」
ふたりの足が止まったのは、王都でも指折りの高級店。
上流貴族しか足を踏み入れられない、名実ともに“選ばれた者のための店”だ。
高身長のドアマンが恭しく頭を下げ、重厚な扉を開くと、中からは上品な香りがふわりと漂ってきた。
「いらっしゃいませ、お嬢様、旦那様」
控えめながらも上品な声が店内に響くと、ドレス職人たちがすぐに動き出した。
照明の下で反射するシルクやレースの布地、煌びやかなアクセサリーが整然と並ぶ光景は、まさに“夢の温室”。
エンリセアはぱあっと顔を輝かせ、子供のようにショーウィンドウへ駆け寄った。
「これ! これとか! 三段フリルのこのドレス、かわいい! あっ、このピンクのも――!」
まるで宝石を前にした子猫のように、あれもこれもと楽しげに指差す姿は、自然と周囲の視線を引きつけていく。
だが、その後ろから、ぴしゃりと水を差すような冷たい声が落ちた。
「……どれも、幼すぎる」
はっとして振り返ると、ベインダルはすでに店員と並び、濃紺と銀を基調とした格式高い布地を選び終えていた。
婚約式用にと彼が選んだドレスは、上質な生地に細かなレースをあしらったもの。
フリルなど一切ない、気品と威厳を重んじるデザインだった。
そして彼は、ごく自然な仕草で店員に命じる。
「この布で仕立ててくれ。婚約式にふさわしい一式を、彼女の寸法で」
「あ、あのっ!? ちょっと待って、私、まだ……!」
エンリセアが慌てて声を上げるが、ベインダルはすでに背を向け、注文を終えていた。
そして、淡々と振り返って言い放つ。
「私の妻になるというのは、こういうことだ」
その声音には、ほんのわずかに意地悪さがにじんでいる。
(――私室にノックもせず入った罰かしら)とエンリセアは察しながらも、にっこりと笑みを浮かべた。
「まぁ……ベインダル様ったら」
しかしその瞳には、うっすらと影が差している。
(ああもう、やりやがったわねこの野郎……!)




