76.エンデクラウスが敬語な理由
いよいよ、王都へ向かう時が来た。
魔王城の前庭では、荷馬車に次々と荷物が積み込まれていく。
木箱の中には衣服、保存食、試作品の発明品、そしてクラウディスのおむつやミルク道具など、生活必需品がぎっしりと詰められていた。
「やっぱり王都行きともなると、荷物が多くなるわね……」
ディーズベルダはクラウディスを抱き上げながら、荷積みの様子を見つめる。
薄手の外套の下に着た上質なワンピースは、王都での滞在を見越して選んだものだ。
五ヶ月ぶりの王都。いろいろな想いが胸に渦巻いていた。
「……緊張するわ。お兄様の件もあるし、どうせ王都ではお笑いものになるに決まってる」
ぽつりと漏らした本音に、クラウディスが「まま?」と小さくつぶやいて彼女の顔を覗き込む。
その瞬間、横から優しく肩を抱いたのはエンデクラウスだった。
変わらぬ穏やかな笑顔で、彼はまっすぐディーズベルダを見つめる。
「大丈夫ですよ。あなたは王都で、“噂の発明家夫人”としてのほうが、ずっと有名でしょう。
それに……あの発明の数々を前に、誰もあなたを笑うことなんてできませんよ」
「……ふふっ。うまいこと言うわね」
それでも、少しだけ張りつめていた胸の内がやわらぐ。
王都の空気がどんなに冷たくても、この人が隣にいてくれるなら、きっと大丈夫――そう思えた。
今回は、頼もしい面々が同行してくれる。
騎士団の数名に、侍女のジャスミン、侍女長のスミール。クラウディスのお世話も完璧な布陣だ。
さらに、アイスベルルク侯爵家から来ていた騎士団も、帰還ついでに途中まで護衛に加わってくれるという。
「まったく……また当分、異世界料理が食べられないのか……」
馬の手綱を整えながら、侯爵家の騎士のひとりが嘆くように呟いた。
彼の周りでは、他の騎士たちも同意するように肩をすくめている。
「味噌って、結局なんだったんだ……あの香りが忘れられない……」
「甘いのにしょっぱいあれ……もう一回食べたかったなぁ……」
ディーズベルダはくすっと笑いながら、食いしん坊な騎士たちに小さく手を振った。
「王都に出店したら、招待してあげるわよ。ほら、働きっぷり次第でね?」
「マジですか!? 本気でがんばります!!」
張り切る彼らの声が背中を押すように響く。
その一方で、魔王城の留守を任せる者もいる。
ディーズベルダは、執事長ジャケルに小さな黒革の箱を手渡した。
「ジャケル、この“通信機”を持っていて。私といつでも連絡が取れるようにしてあるから」
ジャケルは恭しく受け取りながら、慎重に蓋を開ける。中には、魔石がはめ込まれた小さな装置が入っていた。
「……これは、魔石の波長共鳴による通信装置ですね?」
「ええ。双方向型。私の装置とこの子は、同じ魔力で“対”になるよう調整してあるの。
同調魔力を使えば、ある程度の距離でも音声が繋がるのよ。王都との距離なら、問題ないはず」
「さすがでございます、お嬢様……いえ、奥様」
ジャケルが目を細めて深く一礼すると、ディーズベルダは少し照れたように微笑んだ。
「魔物の報告や、住民の様子なんかも、定期的に送ってくれると助かるわ。心配だから」
「はい、必ず」
すべての準備が整い、馬車の車輪がゆっくりと回り始める。
五ヶ月ぶりの王都――
向かう先には、懐かしい人々と、厄介な出来事、そして新たな未来が待っている。
けれど、彼女の胸には確かな覚悟があった。
発明家として、母として、そして――彼の隣に立つ者として。
「……さあ、行きましょうか。エンディ、クラウ」
「はい。王都に“革命”を起こしに行きましょう」
クラウディスが小さな手をぱちぱちと叩き、まるで出発の合図のように笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
馬車が石畳の坂をゆっくりと下りはじめると、魔王城の尖塔が徐々に小さくなっていった。
その光景を、クラウディスは窓から身を乗り出すようにして見つめている。
膝の上で小さく身体を揺らしながら、目をまんまるに見開いて――
「まぁ~~!!」
高めの声で嬉しそうに叫ぶ姿は、ぬいぐるみのように愛らしかった。
(か、可愛い……)
ディーズベルダは思わず頬をゆるめる。
まったく、この子はどうしてこう毎度毎度、母親の理性を試してくるのだろうか。
ちらりと隣に座るエンデクラウスを横目で見ると――彼もまた、クラウディスを見つめる目が完全に“とろけて”いた。
普段は冷静で優雅なその顔が、今は「愛おしい」が全面に出ていて、ディーズベルダはつい吹き出しそうになる。
「ん? どうしました?」
不思議そうに首を傾げたエンデクラウスに、彼女は笑いながら答えた。
「なんか、いつも完璧な笑みを浮かべるあなたでも、クラウを見る時は砕けた感じになるから、面白くって」
「……俺もすっかり、親馬鹿になってしまいましたね」
自嘲気味にそう言いながらも、その目は確かに幸せそうで――ディーズベルダはもう一度、笑みを深くした。
「ほら、クラウ。こっちにおいで」
ディーズベルダの膝にちょこんと乗っていたクラウディスに、エンデクラウスが両手を伸ばす。
呼ばれた子はぱっと表情を明るくし、小さな腕をのばして父の胸に飛び込んだ。
「ぱぱ!」
「クラウ……良い子だ」
ぎゅっと抱きしめながら、エンデクラウスが低く優しい声を落とす。
その声色には、言葉にしなくても溢れている愛情がこもっていた。
馬車の中に、やわらかな時間が流れる。
けれど、ふとディーズベルダが思い出したように言葉を投げた。
「ねぇ、エンディ」
「はい?」
「ちょっと気になってたんだけど……どうして私には、いつも敬語なの?」
その問いかけに、エンデクラウスは少しだけ目を瞬かせた。
「……知りたいですか?」
「質問を質問で返さないでよぉ」
ジト目でにらむと、彼は苦笑を浮かべてから、しぶしぶと口を開いた。
「……そうですね。あれは十四歳で初めて魔物討伐に出たときのことですが……
その時、あなたのお兄さま――ベインダル殿に、さりげなく“ディズィのこと”を聞いたんです」
「うんうん?」
「そしたら……“妹は敬語キャラが好きらしい”と言われたので」
「――はぁ!?」
思わず叫びそうになるのを、ぐっとこらえた。
その言葉には、どうしても思い当たる節があったから。
(あれ……まさか、見られてたの!?)
脳裏に蘇るのは、前世の記憶を取り戻したばかりの頃。
この世界が乙女ゲームか、あるいは異世界転生モノの小説だと信じて疑わなかったあの時――
自室の机の引き出しには、こっそり書いたノートがあった。
その名も、《男攻略記》
顔、家柄、性格別に貴族男子をリストアップし、「落とすなら誰か」といった無駄に細かいメモが並んでいた。
“敬語キャラ”を捕まえたい――などと書いた覚えも、ある。
(くっ………覚えてなさいよ……お兄様……)




