73.さようならディルコフ
最果ての荒れ地。
その玄関口とも言える魔王城の大扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。
まだ朝日が昇りきらぬうす曇りの空の下、広場には荷馬車が数台並び、荷を載せる使用人たちの動きが忙しなく行き交っていた。
それを見守るディルコフ・ドルトール伯爵は、立ち去る気配を見せながらも、どこか名残惜しげな様子で振り返る。
魔王城の玄関ホールには、送り出しのために出てきたディーズベルダとエンデクラウスの姿があった。
彼らの凛とした佇まいと柔らかな笑みを前に、ディルコフは一瞬、背筋を正すように立ち止まる。
「魔物が出ると危険ですから……うちの護衛騎士を三人、お付けします」
そう穏やかに告げたのはエンデクラウス。
その声は柔らかくも有無を言わせぬ気品と威厳を帯びており、ディルコフは慌てて頭を下げた。
「う、うう……エンデクラウス様、それにディーズベルダ様……本当に、ありがとうございました」
言葉の途中で声が詰まり、ぐっと喉元を押さえる。
その表情には、名門貴族とは思えぬほどの素直な感謝がにじんでいた。
「短い間でしたが……とても良い経験になりました……」
言い終える頃には、目元がほんのりと赤くなっている。
最果ての地などただの僻地だと侮っていた――そんな過去の自分が、いまさらながら恥ずかしくなる。
すると、ディーズベルダがふっと微笑んで、涼しげな声で返した。
「何言ってるんですか。巨大な食糧庫も、住民の家も、それを覆う防壁や、畑を守る覆い、それに道の整備まで……」
彼女は指折り数えるように語りながら、ほんの少し首を傾げた。
「返しきれないほどの恩を受けているのはこちらの方ですよ?」
一瞬、空気がやわらぐ。
真っ直ぐなその瞳に見つめられ、ディルコフは思わず顔をそむけるようにして笑った。
「……ったく、そういう言い方されると、立つ瀬がないな……」
脳裏に、開拓の記憶が走馬灯のように蘇る。
森林開拓の道を地属性魔法で全て石畳に変えていった初日、連日の深夜設計会議、酷使され続ける建築――
「……ほんと、過酷だったなぁ……」
思わずこぼれた独り言に、荷馬車のそばで待機していた部下たちがくすくすと笑う。
その表情にも、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。
ふと視線を向けると、荷馬車の中には、ぎっしりと積まれた金銀財宝の数々がある。
宝飾品、魔石、希少素材の詰まった箱……どれも王都でも簡単には手に入らぬ品ばかりだ。
(……いや、これだけの報酬をいただいてしまってるんだよなぁ)
内心で苦笑しながらも、それを声に出すことはしなかった。
ディーズベルダの前では、どこか見栄を張りたくなるのだ。
「そうだ。これを……」
不意にディーズベルダが声をかけ、そっと懐から何かを取り出した。
手のひらにのるほどの小さな巾着。
雪の結晶のような模様が繊細に刺繍されており、淡い香草のような香りがふわりと香る。
「これは?」
訝しげに問いかけるディルコフに、ディーズベルダはいたずらっぽく微笑んだ。
「お守りです。身につけていると、きっと良いことが起こりますよ」
「……!」
たったそれだけの言葉なのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
まるでこの最果ての地に、まだ何か“続き”があるかのような、そんな予感さえした。
「……ありがとうございます!」
ディルコフは思いきり頭を下げると、巾着を懐に大事にしまい込んだ。
「……ふふ、次は王都のパーティーででも、お会いしましょうね?」
精一杯の礼節を込めたその言葉に、ディーズベルダは優雅に微笑み、エンデクラウスも軽く頷く。
「はい!それでは……!」
ディルコフは名残惜しさを胸にしまいながら、荷馬車へと乗り込んだ。
やがて車輪が土を踏みしめ、ゆっくりと動き出す。
こうして彼――ディルコフ・ドルトール伯爵は、最果ての地を後にした。
荷馬車の音が遠ざかっていき、土煙もようやく収まった頃。
魔王城の玄関ホールには、柔らかな余韻だけが残されていた。
ディーズベルダは窓辺から彼の背を見送っていたが、ふと小さく息をつく。
「行っちゃったわね」
寂しさ半分、解放感半分といった、どこかくすぐったいような笑顔だった。
隣で立っていたエンデクラウスが、彼女の横顔を見やりながら答える。
「とはいえ、俺たちもそろそろ王都へ行かなければいけませんね」
「えっ、もう?」
驚いたように振り返るディーズベルダの目が少し見開かれ、口元がわずかにすぼまる。
「はい。王都に別荘を用意してあります。とはいえ、まだ使用人の配置が整っていなくて、多少は不便かもしれませんが……」
エンデクラウスは軽く肩をすくめながらも、相変わらず落ち着いた口調で続けた。
「王都で処理すべき用件が山ほどありますからね。逃げ出したくなるくらいに」
「ふふっ、あなたがそんなこと言うなんて珍しいわね」
少し頬を緩めたディーズベルダだったが、すぐに表情を引き締める。
「……でも、その間、ここの管理はどうしましょう?」
その問いには、エンデクラウスが即座に安心させるような声で答えた。
「ご心配なく。ジャケルが爵位を息子さんに譲ったので、これからは彼がこの地に常駐してくれますよ」
「そうなの? それなら安心ね。ジャケルになら信頼して任せられるもの」
ディーズベルダはうれしそうに頷き、少し肩の力を抜いた。
「そういえば、なぜ、ディズィ側の侍女をここへ呼ばないのですか?」
ふとした拍子に思い出したように、エンデクラウスが問いかけた。
その声は柔らかいが、じつは以前から気になっていた様子で、視線を彼女に向ける。
ディーズベルダは「ええ?」とわざとらしく首をかしげてから、すぐにくすっと笑った。
「過保護すぎるのよ。過保護担当はエンディで十分だもの」
彼女は肘をつきながらエンデクラウスの方をちらりと見やり、肩をすくめて見せた。
その仕草はどこか小悪魔的で、じゃれ合うような親しさが滲んでいる。
エンデクラウスは一瞬目を丸くしたが、すぐに諦めたように笑みを漏らす。
「ははっ。そういうことでしたか。……まったく。」
呆れ混じりの笑いを浮かべつつも、その表情はどこか嬉しそうだ。
彼女が誰よりも“自立した女主人”であることを、改めて思い知らされる瞬間だった。
「それに今は領民たちもいるし、十分よ」
ディーズベルダはそう言って、窓の外へと視線を向けた。
城の前では、鍬を担いだ青年や、水を運ぶ少女の姿が見える。皆、生き生きと働いている。
「ちょっと前の私なら、全部自分でやらなきゃって思ってたけど……今は違うわ。ちゃんと頼れる人たちがいるもの」
ほんの少しだけ、声がやわらかくなる。
そんな穏やかな空気を――
「旦那様ーーーーっ!!」
割って入るように、急いで走り込んできた男の声が響いた。
魔王城の廊下から駆け込んできたのは、一人の若い騎士だった。
砂埃をまとったまま、額に汗をにじませながら、手には何かをぎゅっと抱えている。
「買って来ました!」
彼が手にしていたのは、分厚く折りたたまれた新聞の束だった。
数部まとめて運んできたらしく、脇には紙面がはみ出して風に揺れている。
「ああ、ご苦労だった」
エンデクラウスが手を差し出しながら応える。
しかし、その瞬間――騎士の顔に緊張の色が走った。
「ですが……大変です!」
新聞を差し出す手が震え、彼は肩で息をしながら続ける。
「とんでもない記事が載っていて……っ!」
その声には明らかな焦りと驚きが滲んでいた。
ディーズベルダとエンデクラウスが思わず顔を見合わせた瞬間、空気が一変する。
まるで、穏やかな時間に小さな波が立ち始めたかのように、空気がわずかに揺れた。




