72.天国と地獄
各領主にはそれぞれ、王より賜りし“宝玉”がある。
それを用いることで、物理的に距離が離れた場所にいながらも、王城との“遠隔会議”が可能となる特別な魔導装置だ。
この制度が導入されたのは、今から八年前のこと。
発案者は――当時、まだ少女だったディーズベルダ。
会議のたびに家を離れ、夜遅くまで書類に目を通していた父の姿を、幼いながらに「大変そうだな」と感じていた。
ならば、せめて移動や準備の手間を減らす方法があれば――
そう思い立ったディーズベルダは、前世の知識に基づいた技術と、この世界で身につけた魔法とを組み合わせて、遠隔で話ができる“宝玉の会議装置”を作り上げたのだった。
その宝玉は、今や全領地に一つずつ配備され、最果ての荒れ地――魔王城の執務室にも当然のように設置されていた。
「……ディルコフ・ドルトールですか?」
宝玉に手をかざしたエンデクラウスは、相手の映像が浮かぶと、やや気まずそうな顔で応じる。
「はい、現在こちらにおります。ええ……生きておりますが……」
少し言葉を濁すのは、ディルコフの“過酷な働かされ方”を思い出してのことだった。
「……はい。帰還を? かしこまりました。お伝えしておきます」
通信を終えると、彼はふぅと息を吐き、椅子の背にもたれた。
「王様はなんですって?」
ディーズベルダがそっと尋ねると、エンデクラウスは肩をすくめた。
「ダックルス辺境伯家の当主が、王に謁見して直々に捜索願いを出したらしいです。正式に帰還命令が出たそうです。」
「……そう。じゃあ、すぐに本人に伝えないとね」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔王城一階。貴族も平民も関係なく利用できる開放的な食堂は、昼下がりの陽射しを受け、にぎやかな笑い声に包まれていた。
その一角――
「……あーーーーーん!」
ディルコフ・ドルトール伯爵は、満面の笑みでフライドポテトを口に運んでいた。
「ん~~~っ!! 最高だ……っ!!」
黄金色に揚がったポテトの外はカリッと、中はホクホク。絶妙な塩加減と、ほんのり香るスパイスが絶妙なバランスで口の中を支配する。
その味わいに、ディルコフは心の底から感動していた。
「ここでは、見たこともない料理が次々と出てくる! カレーに、ポテチなるものに、フライドポテト! フライドチキンまで……!!」
手にはすでに三品目の料理。周囲の平民たちともすっかり打ち解け、笑いながら頬張っている。
「油をこんなにも贅沢に使った料理が、しかも平民にまで毎日振る舞われるなんて……! 貴族の晩餐ですら、ここには敵いません!」
目を輝かせながら、さらなる料理へと手を伸ばしつつ、呟いた。
「一時は死ぬかと思いましたが……」
その回想の中には、土まみれで倒れかけ、地属性魔法を絞り出すように酷使され、重労働に追われていた姿があった。
――けれど、それを補って余りある。
「なんといっても、塩が惜しみなく使える! この地は魔界じゃない……まさに、食の天国です!!」
そのときだった。
「ディルコフさーーーん!」
遠くから声が響く。振り返ると、ディーズベルダの侍女ジャスミンが手を振って駆け寄ってきた。
「はい? どうかなさいました?」
口元にソースをつけたまま、にこにこと振り返るディルコフ。
だが、侍女の言葉で――彼の世界が一変する。
「ダックルス辺境伯から、“帰還命令”が出ておりますけれど…。」
――ゴロゴロゴロ……。
雷鳴が轟いたのかと思うほど、ディルコフの表情に衝撃が走った。
顔面蒼白、口を半開きにしながら、スプーンが手から落ちそうになる。
「…………帰還…………命令…………?」
耳元で誰かが「さようなら、楽園の日々」と囁いた気がした。
あんなに過酷な日々を乗り越え、ようやく掴んだ“この地上の楽園”を、たった一言で追い出されるなど――
(嘘だろ……!? ここでの食生活を捨てろと!? 塩と油と肉の天国を……!?)
彼の心は今――カリッと揚がったポテトのように、外はサクサクでも中はホロホロ、今にも崩れ落ちそうだった。
――――――――――
――――――――
アルディシオン公爵家――正面玄関からもっとも奥に位置する応接の間。
ドンッ――!
重厚な机に拳が叩きつけられ、硬い音が部屋の空気を揺らす。
「エンリセア!! 聞いておるのか!!」
憤怒の声を上げたのは、公爵家当主――ディバルス・アルディシオン。その隣では、執務用の山と積まれた書類が震えていた。
その怒号にもかかわらず、当の本人であるエンリセアは、まったく動じる様子を見せない。ベインダルの腕にぎゅーっとしがみつき、頬をすり寄せながら、どこか夢見心地な様子でソファーに座っていた。
「ん〜、ベインダル様ったら、やっぱり素敵ですわぁ〜♡」
デレデレとした笑顔で見上げるその姿に、ディバルスの額に青筋が浮かぶ。
「貴様、何をしたかわかっているのか!!」
怒りに満ちた視線を向けても、エンリセアはくるりと振り返り、きょとんとした表情で小首を傾げる。
「だってぇ、お父様が仰ったではありませんか」
「……は?」
「この国の社交界を、“お前の色”で染め上げてみせよと。王すら無視できぬ名声と後ろ盾を、自らの手で勝ち取ってこいって」
そう言って、彼女はふふんと胸を張る。
「ですから、私は“自らの力”で、ちゃんと勝ち取ってまいりましたわ♡」
ディバルスの口元がぴくりと引きつる。
(……くそっ!“色”というのは比喩だ!まさか本当に“足元”の意味で染めてくるとは……!)
「リセ……薬はどこで手に入れた」
低く抑えた声で問いかけるディバルス。だが、エンリセアは平然と微笑む。
「何のことでしょう? 薬だなんて、心外ですわ」
「ならこれはどう説明する!!」
ドンッ!
再び机に叩きつけられたのは――王都の朝刊だった。
一面にでかでかと踊る見出し。
『氷の貴公子、靴に舌を這わす!? アルディシオン公爵家、アイスベルク侯爵家を掌握か!?』
その下には、目を疑うような写真――そう、夜会の裏手で撮られた一枚。エンリセアの靴の甲に舌を這わせるベインダルの姿が、くっきりと映し出されていた。
「あら、まぁまぁ……こぉんな素敵な写真が、もう新聞に……ふふ、嬉しゅうございますわ♡」
うっとりと写真を見つめるエンリセアの姿に、ディバルスは頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えた。
「ベインダル殿……薬を、使われたのだろう?」
視線を向けられたベインダルは、ほんのわずかに目を細め、淡々と口を開く。
「……さて。記憶にございませんな」
「……なに?」
「ただ――以前にも申し上げました通り、私は“権力”の前には、錘のついた傀儡に過ぎません。公爵家の意向、王族の望み……エンリセア嬢が“そうあれ”と願われるのであれば、逆らえるはずもありますまい」
皮肉にも聞こえるその口調に、ディバルスは思わず歯ぎしりした。
(ぐぬぬぬぬ……)
もはや“謀られた”のか、“偶然”なのか――見当すらつかない。
ディバルスは、答えの見えない混沌に沈みながら、深く、深くため息をつくしかなかった。




