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70.無言の機微

 王城の一室――深夜の静けさが満ちる中、重厚な扉が勢いよく押し開けられた。


「お父様っ!!」


 その怒声とともに、スフィーラ王女が駆け込んでくる。真紅のドレスの裾が床を払い、怒りと焦りの入り混じった顔が、蝋燭の光に浮かび上がった。


 執務机の前では、グルスタント王が羽根ペンを持ったまま立ち上がりかけていた。深夜の訪問者に一瞬眉を寄せたが、それが実の娘だとわかると、表情が警戒から驚愕へと変わる。


「……スフィーラ? なんだ、このような時間に……何があった?」


 だが、その問いに耳を貸す暇も惜しいとばかりに、スフィーラはドレスの胸元を抑え、怒気をはらんだ声で叫ぶ。


「お父様! ベインダル様が……“アルディシオン公爵家の密薬”を飲まされておりましたの!」


「……な、なんだと……!?」


 その言葉を聞いた瞬間、王の手元から羽根ペンがカツリと音を立てて転がった。彼の双眸が見開かれ、椅子を引く音もせず、ただしんとした空気に、重々しい緊張が立ちこめる。


「まことか。それは……確かなのか?」


 スフィーラは強くうなずいた。ドレスの袖が震えているのは、怒りからか、それとも――恐怖か。


「あれはもう“傀儡”でした! 命令にしか動かない、まるで意思のない人形のように……!」


 その背後で控えていた護衛騎士も一歩前に進み、無言で深く頷いた。その一動作が、言葉以上の証言として王に届いた。


 グルスタント王の表情が厳しくなる。皺を寄せた額に、深い影が差し、口元は固く結ばれる。


「……近衛を呼べ。今すぐアルディシオン公爵家に文を届けさせよ。“明朝一番で謁見に参れ”と、必ず伝えさせるのだ!」


「はっ!」


 扉の外に控えていた近衛兵が即座に反応し、駆け足でその場を去っていく。


 残された王とスフィーラの間には、一瞬の沈黙が落ちた。


 王は静かに机の上の地図に手を添えたまま、視線を逸らさずに思案をめぐらせる。震える娘の息遣いだけが、部屋の静けさを破っていた。


(――ディバルス……お前が、あの男にそんな真似を許すとは。いや……まさか“利用した”というのか?)


 王の胸の内に、信じていた盟友への疑念がじわりと広がっていく。


 政を共にしてきた、アルディシオン家の当主――ディバルス。


 その彼が密薬のような禁忌に手を染めたという事実は、単なる驚きではなく、王政の根幹を揺るがすものであった。


(……まったく。あやつめ……何を考えておる)


 王の表情はやがて、静かな怒りへと変わっていった。


 深夜の静謐な城の一室に、嵐の予兆が静かに満ちていく――。


◇◆◇◆◇


 夜の静けさの中、黒い馬車が石畳を心地よく叩きながら走っていた。


 車内には、ふたりきりの沈黙が流れている。


 カツン、と足音にも似た音が鳴ったのは、ベインダルが足を組み替えたときだった。


 正装に包まれた脚を無造作に組み、左肘を窓の枠に置くようにして頬杖をつく。金の刺繍が光を反射し、その気怠げな姿をより一層絵画のように際立たせていた。


 窓の外へと視線を逸らしながら、彼は長く、深い溜息をつく。


「……」


 対面に座るエンリセアは、まるで縮こまった猫のように姿勢を正し、視線をそらしたまま黙っていた。


 普段なら、真っ先に隣へと座り、はしゃぐように袖を引いていたはずの彼女が、今はただ、両手を膝の上に重ね、正面を見つめている。


「……どうした。隣に来ないのか」


 低く、感情の読めない声が馬車内に響いた。ベインダルはエンリセアの方へ顔も向けず、ただ窓の外を見たまま冷淡に問いかける。


 エンリセアは、はっとしたように瞬きをした。


「……あの、今宵のそのお姿が、あまりにもお美しくて……真正面から、じっくりと目に焼き付けておきたいのですの。……まるで月下に咲いた漆黒の薔薇のようで」


 言葉はふわりと柔らかく、けれどどこかぎこちなく、照れ隠しのように響いた。


 ベインダルは、薄く笑ったような、笑っていないような表情で、ようやく視線を彼女に向けた。


「……あの時の意気込みはどうした?」


 彼の声音は静かで、少しだけ皮肉めいていた。


 けれどエンリセアは返事をしない。ただにこりと笑って、まるでそれが答えであるかのように、彼を見つめていた。


 視線がぶつかることを恐れるような笑みだった。


 数秒の沈黙のあと、ベインダルがふっと目を伏せる。


「……互いに……守るべきもののために、最善を尽くしているだけだろう。気を落とすな」


 それは慰めというにはあまりに無骨で、けれどどこか優しい言葉だった。


 エンリセアは一瞬、目を丸くした。


 彼の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかったのだろう。


「……お優しいのですね」


 ぽつりと呟いたその声は、まるで掠れるようだった。


 しかし、ベインダルは小さく鼻で笑った。


「……はっ。優しい、か。そんなものではない」


 彼は片目を細め、少しだけ唇を歪める。


「私も、嬢も。互いを“利用”しているだけだろう。嬢は……最初から私を慕ってなど、いなかったようにな」


 それは明確な“否定”ではなかった。だが、どこか突き放すようなその口ぶりには、彼自身が“信じてしまいたい”何かを、強引に押し殺そうとしている気配が滲んでいた。


 エンリセアは、すうっと細く息を吸う。


 まるで胸の奥がひどく痛むのを、誰にも気づかれないように押し殺すかのように。


「……お兄様に、何か吹き込まれましたの?」


 静かな、けれど確かな声音だった。装飾された言葉ではあるが、その芯は揺らいでいなかった。


 ベインダルは、その問いに対してただ首を傾けただけだった。


「……どうだっただろうな」


 まるで記憶をたどるように、あるいはすべてを煙に巻くように、彼は曖昧にそう答えた。


 馬車は、静かに揺れながら夜の街を進んでいく。


 揺れる灯の中で、ふたりの影が交わりそうで交わらない距離を保ったまま――。


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