7.夫は冷静だった。
魔王城にあるものは、問題なく使えそうではあった。
……が、それは状態が良ければの話だった。
魔物に荒らされた痕跡は至るところに残っており、家具や道具の多くはボロボロ。
まともに使えそうなものを探すだけで、かなりの時間を要した。
「ふぅ……。」
ディーズベルダは埃まみれの机に腰を下ろし、額に手を当てる。
(使えるものと、そうでないものを仕分けるだけで一苦労ね……。)
ふと視線を上げると、エンデクラウスが城の構造を見渡しながら歩いている。
「ねぇ、エンディ。」
「なんでしょう?」
「最初、この城はどういう状態だったの?」
彼はふっと微笑み、軽く肩をすくめる。
「最初は、魔物だらけでしたよ。」
「……やっぱり。」
ディーズベルダは少し考え込むように天井を見上げた。
「でも、この研究室には魔物がいなかったのよね?」
エンデクラウスはゆっくりと頷く。
「はい。この研究室はもともと鍵がかかっていましたから。」
「鍵が?」
「ええ、魔物は鍵を開ける知能は持っていませんからね。だからこそ、ここだけは手つかずだったんです。」
「……じゃあ、あなたはどうやって鍵を開けたの?」
ディーズベルダが怪訝そうに問いかけると、エンデクラウスはあっさりと答えた。
「燃やしました。」
「……やっぱり……。」
ディーズベルダは軽く頭を抱えた。
(まぁ、手っ取り早い方法ではあるわね……。)
とにかく、ここには転生者が残したものが多く眠っている。
それを活用しない手はない。
ディーズベルダは改めて、ノートに書かれている「装置」の説明を確認する。
「……なるほどね。」
どうやら、ノートに記されている範囲のものなら、装置のコマンドを入力すれば作れる仕組みになっているらしい。
(これをどう使うかが、今後の開拓の鍵ね。)
水道やトイレ、乳牛の生成まで可能なこの装置——使いこなせば、領地の開発が一気に進むだろう。
ただ、問題は……どこまで「安全に」使えるかだ。
「ディズィ、少し良いですか?」
彼はいつになく真剣な表情をしていた。
「どうしたの?」
ディーズベルダは彼を見上げる。
エンデクラウスは少し言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「この領地は、少し危険に感じます。」
「……危険?」
「外に出していいものと、出してはいけないものを、慎重に考える必要があります。」
彼の紫の瞳が鋭く光る。
「今後の発展のためにも——」
彼の言葉を受け、ディーズベルダは再び考え込んだ。
(確かに、なんでもかんでも現代のものを出していたら——)
一見、便利な機械や技術を無制限に使えれば、開拓は飛躍的に進む。
しかし、その代償がどれほど大きいものになるかは分からない。
「例えば?」
ディーズベルダは腕を組み、エンデクラウスに問いかける。
「もし我々がこの技術を無制限に使い、生活を急激に向上させたら……どうなりますか?」
彼は静かに目を細めた。
「まず、周囲の勢力に異常な発展を疑われます。」
(……なるほど。)
最果ての地で突如として文明レベルが飛躍すれば、王国はもちろん、他国にも怪しまれる。
場合によっては、『未知の力を手に入れた脅威』として戦争の火種になりかねない。
「それに、技術が発展しすぎれば、人はそれに頼りすぎるようになる。」
エンデクラウスは、淡々とした口調で続ける。
「急に便利なものが増えすぎると、かえって人間は怠惰になり、何かが起きたときに何もできなくなる。」
(……確かに、そうね。)
もし災害や戦争でこの設備が使えなくなったとしたら——
人々は、その便利さに慣れすぎたせいで、対処する手段を失ってしまうだろう。
「あとは……そもそも、この技術が安全かどうかも分かりません。」
「……安全じゃない?」
エンデクラウスは研究室の奥に目を向けた。
「この施設の持ち主だった転生者たちは、どこへ行ったのでしょう?」
ディーズベルダは、はっと息を呑んだ。
(……そうだ。)
この研究所を作った転生者たちは、どこへ消えたのか?
なぜ、この施設を残したまま、誰一人としていないのか?
——もしかすると、彼らは「何か」を誤って生み出し、それが原因で滅びたのかもしれない。
ディーズベルダはそっとノートに目を落とした。
(転生者の作ったこの国。私が今やろうとしていることは……果たして正しいの?)
彼女はゆっくりと息を吸い込み、視線を上げる。
「……エンディ。とりあえず、私たちは慎重に進めていきましょう。」
ディーズベルダは、深く息を吸い込みながらそう言った。
研究所の設備、転生者の遺産、そしてこの最果ての領地——
慎重に使わなければ、未来を狂わせる危険すらある。
エンデクラウスはそんな彼女の言葉を静かに受け止め、微笑を浮かべる。
「ええ。それが良いでしょう。」
紫の瞳が優しく細められ、その穏やかな視線がまるで彼女を包み込むようだった。
その瞬間——ディーズベルダの胸の奥に、ふとした疑問が生まれた。
(……もしかして。)
婚約後、エンデクラウスは私の家に入り浸っていた。
その頃の私は、「彼はただ異世界料理を堪能しているだけ」だとばかり思っていた。
けれど。
(本当に、それだけだったのかしら?)
ふと、侯爵家の広い書斎で、机に広げた発明の設計図を前にしていた日々が脳裏をよぎる。
エンデクラウスはいつもそこにいた。
紅茶を片手に、何気なく私の発明を眺め——
「それは良い。」
「それは良くないですね。」
彼は淡々と、しかし的確に意見を述べていた。
(あの時の言葉、ただの感想だと思っていたけれど……。)
今になって思えば、あれはただの興味本位ではなく、私の発明がどんな影響をもたらすのか、慎重に考えてくれていたのではないか。
(……私を見守ってくれていた?)
その可能性に気づいた瞬間、胸の奥がほんの少し温かくなった。
「牛を外へ連れて行きますね。」
エンデクラウスが軽く微笑みながらそう言う。
「ええ、お願い。」
ディーズベルダは彼の背を見送りながら、ひそかに心の中で呟いた。
(ありがとう、エンディ。)