69.一滴のジュース
夜会の中心ホール。
弦楽四重奏の音色がふわりと空間を満たし、優雅なワルツが奏でられはじめた。
金と白を基調にした大広間の中央――ファーストダンスを務める二組のカップルが、ゆるやかなステップで回り始める。
そのうちの一組。黒と金の正装をまとったベインダル・アイスベルルクと、真紅のドレスに身を包んだスフィーラ王女。
両者の姿はまさに絵画のように美しく、注目を集めていた。
(少し硬いけど……問題なく踊れているようね)
スフィーラは静かに思う。ベインダルの手の動きは滑らかで、ステップも乱れない。
だが、ちらりと彼の表情を見上げた瞬間、胸の奥に冷たい違和感が走った。
紫の瞳――そこに、光がなかったのだ。
まるで命令だけで動いている機械のような、感情のない瞳。
その異様さに、思わず口を開いていた。
「……ベインダル様? ご体調でも優れませんの?」
言葉はやわらかく、品位を保っていたが、内心には不安がじわりと広がっていた。
対するベインダルは、顔を動かすこともなく、ほんのわずかに唇だけを動かした。
「…………いえ、問題ありません」
その声は掠れていて、どこか遠くの誰かがしゃべっているような空虚さがあった。
(やっぱり、様子がおかしい……。まるで、感情が置き去りにされているみたい)
スフィーラは、胸の奥で不穏な焦りを覚えた。
(このままじゃ、あの小娘――エンリセアにうつってしまうかもしれない)
鋭い視線を一瞬だけ会場の端に送る。エンリセアは壁際で控えめに立っていたが、どこか得意げにベインダルを見つめていた。
(……ならば、こちらが先に“既成事実”を作ってしまえばいい)
王族として、いや、狩人としての直感がそう告げていた。
やがてワルツが終わり、拍手と共に二人が中央から引き下がる。
その瞬間を逃さず、スフィーラはベインダルの腕をとった。
「……ご気分転換に、お散歩でもなさいません?」
声はあくまで優雅に、しかし手の力は確かに強引だった。
ベインダルは無言で従い、そのままスフィーラに導かれるように、ホールの外――人気のない廊下へと連れ出された。
金糸のカーペットが足音を吸い、外の喧騒が次第に遠ざかっていく。
豪奢な燭台の灯りが壁に揺れ、薄暗い通路に静寂が落ちる。
後ろをついてくるベインダルは、まるで意志を失った従者のように無言で歩いていた。スフィーラがどこへ向かおうと、彼は一言も発さず、ただその後をついてくる。
その様子に満足げに目を細めながら、スフィーラは廊下の奥へと進んでいく。人気のない一角、外のざわめきも届かぬ静かな回廊。照明は落とされ、月の光だけが細く床を照らしていた。
(この先に確か控え室があったはず……)
そう考えながら曲がり角を越えた――その瞬間、正面から姿を現したのは黒と金のドレスを纏い、鮮やかなツインテールを揺らす少女だった。
手には、琥珀色の液体が注がれたグラス――見た目はワインにも見えるが、ジュースであることは一目で分かる。
エンリセア・アルディシオンが、涼やかな笑みを浮かべて立ち塞がるように立っていた。
「まあ……王女殿下。こんなところで何を?」
声は丁寧で、しかしその奥には確かな刺があった。
スフィーラは目を細め、ゆったりとした口調で答える。
「ご挨拶ですわ。――婚約者と少し、外の空気を吸いに参っただけのこと。どこへ行こうと、貴族としての自由は認められるはずですもの」
まるで「貴女に口出しされる筋合いはない」と言わんばかりの、柔らかながらも鋭い言い回し。
だが、エンリセアも負けてはいない。小さく首を傾げ、あどけない笑みのまま言葉を返す。
「婚約者? まあ……ですが、“婚約式”も、“婚約書”もまだと伺っておりますわ。そういったものを経ていない関係を“婚約”と呼ぶには、少々軽率ではございませんか?」
その言葉に、スフィーラの頬がわずかに引きつる。
(この小娘……)
睨むように視線を向けるが、エンリセアは怯むどころか、さらりと言った。
「ベインダル様。――此方へ、お戻りになって?」
その声は甘く、響きは静かだったが、命令のように響いた。
そして、ベインダルは何の躊躇も見せず、ぴたりと足を止め、すぐさま方向を変えて――エンリセアの元へと、すっと歩いていった。
「なっ……!?」
スフィーラの目が大きく見開かれた。
(ば、馬鹿な……! 彼が……あの氷の貴公子が、こんなにもあっさりと――!?)
心臓が早鐘を打つ。乾いた唇を舌で濡らし、必死に動揺を抑えようとする。
(いったいどれほどの強い薬を飲ませたというの!? それに、この従順さ……持続性も異常……!)
震える感情を押し殺そうとしたそのとき、エンリセアがふと手元のグラスを傾け――ぽとん、と足元にジュースを落とした。
あえての行動だった。
スカートの裾からのぞく、美しい黒の靴の上を、甘い液体がとろりと伝っていく。
「あら……やだ、うっかりこぼしてしまいましたわ。ベインダル様? お願いしても、よろしいかしら」
まるで世間話の延長のような軽やかな口調だった。
だが、次の瞬間――ベインダルはゆっくりと膝をつき、その顔を彼女の足元に近づけると、躊躇うことなく――舌を滑らせた。
靴の上、そして足の甲を伝う甘い液体を、静かに、まるで命じられたとおりに舐め取ったのだ。
「なっ……!? あなた、正気ですの!?」
スフィーラが叫んだ。その声はもう王女としての品位を保てていなかった。青ざめたまま後ずさり、視線を宙にさまよわせる。
(ありえない……ありえない……! 彼がここまで従うなんて! 本当に……薬を……!?)
理解が追いつかない現実に、王女はついに限界を迎える。
裾をひるがえし、その場から走り去った。
その背を、エンリセアはただじっと見送る。正面を向いたまま、視線も微動だにせず。
そして、唇だけをほんの少しだけ動かした。
「……まだ、後ろの見張りが、それと、数名の貴族が、こちらを観察しておりますわ」
そのささやきに、ベインダルはぴくりとも反応せず、あくまでも“傀儡”として、演技を続ける。
月明かりが、静かに廊下に差し込む。
夜会の仮面舞踏は、まだ――終わらない。




