68.夜会
――夕暮れの光が、アルディシオン公爵家の大理石の床に、琥珀色の長い影を落としていた。
天井から吊られた重厚なシャンデリアが、きらめく光の粒を散らしながら、来客もいないはずの玄関ホールを荘厳に照らす。
その空間に、トン、トン……と、足音が響いた。
螺旋階段の上から、ゆっくりと姿を現したのは――
見目麗しい青年、ベインダル・アイスベルルク。
黒を基調に、金の糸で紋章と細かな意匠を織り込んだ、格式高い礼装に身を包み、銀の髪をいつになくきちんと撫で付けている。
背筋はすっと伸び、肩の動きひとつにまで貴族の威厳と気品が滲んでいた。
だが、その整った顔に浮かぶのは――無表情。
その冷たい瞳には、どこにも感情の色が宿っていなかった。
一歩、また一歩と降りてくるたび、空気がぴんと張り詰めていく。
そして――彼を待っていたのは、ホールの中心で、きらびやかなドレスに身を包んだ少女だった。
「わぁ……! か、かっこいいですわぁぁぁ!!」
両手を胸元で組み、目をきらきらと輝かせながら跳ねるように駆け寄ってくるのは、エンリセア・アルディシオン。
彼女もまた、ベインダルに合わせるように、黒を基調としたドレスを纏っていた。
胸元と裾には繊細な金糸の装飾が施され、アルディシオン公爵家の象徴たる高貴な鷹の紋が、中央にあしらわれている。
髪は美しく結い上げられ、ツインテールには黒と金のリボンがひらひらと揺れていた。
だが、そんな彼女の歓喜の声にも、ベインダルは一言も返さない。
ただ、無言で手を差し出し、エンリセアが差し出した手を取ると――淡々と、歩き出す。
まるで“役割”を演じる人形のように。
その歩みは決して急がず、けれども一度たりとも振り返らない。
エンリセアは、そんな彼の横顔を見上げて、嬉しそうに口元を綻ばせた。
ふたりの歩調はぴたりと揃っており、その様は周囲の使用人たちさえ息をのむほど、絵画のように美しかった。
やがて、玄関の扉が開かれ、荘厳な黒塗りの馬車が屋敷の前に滑り込む。
従者が素早く扉を開けると、ベインダルはそのままの無言で、エンリセアを先に乗せた。
「ありがとうございますわ!ベインダル様♡」
笑顔で礼を述べるエンリセアの声にも、彼は何も返さない。
ただ、その横顔には、どこか遠くを見つめるような、虚ろな光が宿っていた。
こうしてふたりを乗せた馬車は、音もなく静かに動き出す――
目指す先は、夜の社交界――パーシブルスト公爵家の夜会である。
◇◆◇◆◇
夕刻の空に、パーシブルスト公爵家の屋敷が浮かび上がるように灯り始めた。
煌びやかな夜会の会場前に、一台の黒塗りの馬車がゆっくりと到着する。
先に降り立ったのは、黒地に金刺繍を施した格式高い正装に身を包んだベインダル・アイスベルルク。
漆黒の上着は凛とした気配を纏い、金の糸が描く紋様は、冷ややかな彼の雰囲気にどこか威圧感すら添えていた。
そのあとに続いて馬車を降りたのは、同じく黒と金を基調としたドレスに身を包んだエンリセア・アルディシオン。
少女らしい華やかさと、公爵令嬢としての風格を絶妙に両立させた装いで、ふわりとドレスを揺らしながら笑顔を浮かべる。
「お揃いの衣装を纏い、エスコート…夢見心地ですわ!」
見惚れるような視線でベインダルを見上げるエンリセアだったが、彼の表情に色はなかった。
まるで命じられるままに動く人形のように、無言のまま手を差し伸べ、彼女をエスコートする。
周囲の騎士や従者たちが静かに頭を下げる中、二人はそのまま夜会場へと進んでいった。
――会場内。
すでに貴族たちが談笑を交わす空間に、二人が姿を見せた瞬間、空気が揺れた。
まるで風が吹き抜けたように、ざわめきが広がる。
(まさか……あのベインダル様が……?)
(あの令嬢と一緒に……!?)
驚愕、羨望、そして戸惑い――すべての視線が二人に集中した。
なにしろ、あの“氷の貴公子”と呼ばれた男が、社交の場に姿を現すこと自体が異例だったのだ。それも、エンリセアを伴って。
その中心を割るようにして――スフィーラ王女が、ツカツカと真っ直ぐに現れる。
真紅のドレスを纏い、王女としての威厳を纏ったまま、にこりと微笑んで――
「まぁ……若き公爵令嬢が、人の“ゆく先”に、しれりと寄り添うだなんて。流行には少々ついていけませんわね」
スフィーラの声音はあくまで柔らかかったが、その笑みの奥にある棘は誰の目にも明らかだった。
だが、エンリセアは怯まず、首を傾げながら、にこやかに答える。
「まぁ……身も心も、まるで穏やかな眠りの中で手綱を預けてくださるようで。きっと、とても“よく馴染んで”くださっているのですわ」
その遠回しすぎる表現に、周囲の令嬢たちは思わず息を飲む。
誰も明言はしない。だが、その言葉の裏にある“意味”だけが、甘く、鋭く、空気に溶け込んでいった。
スフィーラの口元がかすかに引きつる。
「ふふ……王族とは、時に“他者のご縁”を静かに見送る役目も担いますの。特に、今宵のような節目には」
優美に微笑むその姿はまさに王女であり、しかし、その奥には“譲れ”という意志が確かに含まれていた。
それでもエンリセアは、ひるむどころか、一段と淑やかにカップを傾ける仕草で応じる。
「ええ、礼を尽くすことは常に大切ですわ。……たとえどのようなお立場の方であっても、“順序”を経てのことであれば、喜んで承りましょう」
それは、「正しく進んできたのは私ですの」と、優雅に釘を刺す一言だった。
そして、彼女はふわりと笑みを浮かべたまま、隣に立つベインダルの耳元へと口を寄せる。
小さな囁きが届いたその瞬間、ベインダルの視線がゆっくりと動いた。
無表情のまま、ぎこちなくスフィーラに向き直る。
その動作はまるで――命令に応じて動く、人形そのものだった。
「……王女……殿下……」
言葉はたどたどしく、抑揚もない。いつもの冷ややかで完璧な口調ではなく、どこか上滑りしていた。
その一言に、スフィーラの瞳が揺れる。
(……そんな……本当に、“あの薬”を……!?)
信じられなかった。だが、目の前のベインダルは確かに――自らの意志で動いているようには見えなかった。
“氷の貴公子”と謳われ、誰の干渉も受けつけなかった男が、今――まるで、令嬢ひとりの言葉にだけ従うかのように。
スフィーラの胸の奥に、かすかな震えが走る。
(……ありえないわ。けれど……本当に“操られている”というのなら――)
そんな緊張と注目に包まれた空気の中――
会場の奥、正面の階段から、主催であるパーシブルスト公爵夫妻が姿を現す。
「皆々様、今宵はお集まりいただき誠に感謝いたします。どうぞ、夜が更けるまでご歓談を――そして、舞をお楽しみくださいませ」
公爵夫人が優雅に一礼し、公爵が手を掲げると、楽団がゆるやかに奏で始める。
次の瞬間、ホールに音楽が満ち――
静かに、けれど華やかに、夜会の舞踏が幕を開けた。




