67.策略の報い
夜の寝室。
分厚いカーテン越しに月の光がぼんやりと差し込むなか、ディーズベルダとエンデクラウスは並んでベッドに腰を下ろしていた。
ベッドの上はふたりだけの世界で、静かな時間がゆっくりと流れていた。
ディーズベルダはそっと身体を寄せると、エンデクラウスの背中に優しく手を添え、そのぬくもりを確かめるようにゆっくり撫でた。
「……大丈夫?」
問いかける声は柔らかく、けれど不安を隠せない響きもあった。
「……はい」
短く返すエンデクラウスの声は低く、どこか震えていた。
ふだんと同じ穏やかな声――でも、目を伏せたその横顔には明らかに疲労と、深い苦悩の色がにじんでいた。
あの不可解な“実験”が終わった直後、ベインダルは何も言わずにフードを深くかぶり、音も立てずに立ち去っていった。
残されたふたりには、ただぽっかりと空虚な余韻だけが残っていた。
「……いったい、何があったの……?」
ぽつりと漏れた問いかけに、エンデクラウスはしばし沈黙したのち、かすかに唇を動かした。
「……俺のせいです」
「え……?」
思わずディーズベルダは手を止め、横顔を見つめる。
けれど、エンデクラウスは視線を上げず、小さく肩を落としたままだった。
「俺が……お義兄様を、そうさせたんです。きっと」
「そうなの?」
ゆっくり問い返すディーズベルダの声には、否定も追及もない。ただ、真実を知りたいというまっすぐな気持ちだけがあった。
(エンディが、そう言うなら……きっと、理由があるはずよね)
ディーズベルダはエンデクラウスの横顔を見つめながら、そっと自分の胸に問いかけるように思った。
隣では、エンデクラウスが静かに息を吐いた。瞳は伏せたまま、何かを思い詰めているようだったが、それでもどこか前を向こうとしている気配があった。
「……お義兄様は、真剣にリセと向き合っているんだと思います」
ぽつりと、静かに言葉がこぼれる。
それは、彼が長年見てきた“義兄”に対する理解と、いま目の前で起こった出来事に対する確信に満ちた言葉だった。
「そういうこと? そっか……」
ディーズベルダは、その一言を受けて、ふっと目を伏せた。思考が静かに回り始める。
お兄様が、エンリセアと向き合う“決意”を固めている――それはつまり、“あの王女”と正面から争うことを意味している。
そのうえで、ディーズベルダは、ふとアルディシオン公爵の言葉を思い出した。
「……わかったわ。多分、そういうことなのよね」
ゆっくりと口にしながら、ディーズベルダはベッドの上で膝を抱えるようにし、視線を天井へ向ける。
「つまり、お兄様は“王女の婚約者”として名を挙げられた。でも、リセちゃんはそれを覆そうとしてる。――彼女なりの、形で……」
その時のリセの表情が、ふっと脳裏によみがえる――あの、覚悟を決めた目。涙を浮かべてもなお、決して諦めなかった姿。
あれはただの恋する少女の感情ではない。“覚悟”と“決意”をまとった、まるで戦士のような気迫が、そこに宿っていた。
「それで――リセちゃんが必死に奮闘してるなかで、“あの薬”が出てきたのね」
言いながら、ディーズベルダは、背筋に冷たい感覚が走るのを感じた。
あの薬の存在が意味するもの。人を傀儡に変えるほどの力を持つ禁忌の密薬――それを、自らの恋を成就させるために使うという狂気。
でも――それすらも演技だったとしたら?
「……そっか。お兄様、もしかして……“あの薬を飲んだふりをしなきゃいけない”状況になってるってこと!?」
思わずディーズベルダは振り返り、エンデクラウスを見つめる。
彼は何も言わず、ただ静かにその視線を受け止めていた。
言葉にしなくても伝わる。確信のようなものが、ふたりの間に流れていた。
そう――これは、ベインダルにとっての“策略”だった。
(やっぱり、あのお兄様が――あんなことするなんて、おかしいと思ったもの)
ディーズベルダは小さく目を細め、ベッドの上で寄り添うエンデクラウスの横顔を見つめた。
月明かりが薄いカーテン越しに部屋へ差し込み、彼の瞳に静かな影を落とす。
その瞬間、彼がふっと目を伏せて、小さな声で言った。
「……ディズィ……すみません。俺は……あなたの家族を巻き込んでいる……。俺自身の、欲のために……」
その声音は、いつになく弱々しかった。
普段は沈着冷静で、物事を俯瞰して判断する彼が、今だけはまるで自分の無力さを噛みしめているかのような響きだった。
ディーズベルダは少し驚いた顔で彼を見つめた。
(珍しい……こんなに落ち込むなんて)
それほどまでに、彼もまた悩み、苦しんでいる。理性の裏で、自分のせいで誰かが傷つくことに耐えられないでいる。
そっと彼の手に、自分の手を重ねて、ぎゅっと指を絡める。
「ううん。何言ってるのよ。もう家族でしょ? 巻き込まれるのなんて、当たり前よ」
にっこりと笑ってそう言ったディーズベルダは、ほんの少しだけ自分の額を彼の肩に預ける。
「それにね。あの頭でっかちで、融通の利かないお兄様が、あんなことまでするんですもの。……きっと、エンディのことを“認めてる”ってことよ。心から」
その言葉に、エンデクラウスの肩がわずかに揺れた。
彼はゆっくりと視線を戻し、ディーズベルダの瞳を見つめる。そこには、揺るがぬ信頼と、包み込むような温もりがあった。
「ディズィ……あなたって人は……」
低く、息を吐くように呟いた彼の声には、安堵と、どうしようもない愛しさが滲んでいた。
ディーズベルダは、もう一度微笑んで、彼の肩にそっと頬を寄せる。
「……さぁ、もう寝ましょう」
「……はい」
彼は素直にうなずき、ふたりは並んで布団に身を沈めた。
ディーズベルダがそっと手を伸ばして、エンデクラウスの身体に腕を回す。すると彼も、同じように優しく彼女を抱き寄せた。
互いの体温が、ふわりと混じり合っていく。
心地よい静けさのなか、ディーズベルダは目を閉じながら、微かに呟く。
「……これから先、何があっても……一緒よ」
「……ありがとうございます。」
やがて、穏やかな寝息が、夜の空間に静かに溶けていった。




