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66.秘伝の密薬

ディーズベルダが息を呑む間もなく、小瓶を握った兄ベインダルが、じりじりとエンデクラウスに詰め寄っていた。


 そのときだった。


 エンデクラウスが、冷静に眉をひそめながら口を開いた。


「……それは、アルディシオン公爵家が門外不出としている“秘伝の密薬”です。なくなったと知れれば、さすがに騒ぎになります。」


 その声は静かだったが、言葉の端々には、はっきりとした警告の色が滲んでいた。


 だが、ベインダルは平然とこう返した。


「同じ色の液体を詰めておけば済むことだ」


「そういう問題じゃないでしょ!!」


 ディーズベルダが思わず素の声で叫ぶ。だが兄はその抗議すら無視し、淡々と小瓶を持ち直した。


「……すまんな」


 まるで事務作業でもこなすように、ベインダルはエンデクラウスの鼻をつまみ、喉に液体を流し込む。


「っ……!」


 抵抗する暇もなく、ゴクリ、と喉が動いた。


「エンディ!!」


 駆け寄ろうとするディーズベルダの声に応える者は、もういなかった。


 エンデクラウスはその場に棒のように立ち尽くし、紫の瞳からは一切の光が失われていた。まるで心が抜け落ちた人形のような姿に、ディーズベルダは息を詰めた。


「……チッ。ディーズベルダ、命令してみろ」


「え、えぇ!? ちょっと待って、何それ……」


「構わん、今すぐだ。」


 ベインダルの声には、普段にはない苛立ちと切迫感が滲んでいた。


(どうしてこんなに……?)


「……エンディ。座って?」


 恐る恐る口にしたその命令に、エンデクラウスは即座に反応した。


 表情ひとつ変えず、無言でゆっくりとその場に膝をつき、床に座る。まるで機械人形。


「……うそ……」


 ディーズベルダは思わず呟いた。そこには、いつもの優しさも、知性も、エンデクラウスらしい色気すらなかった。


「ちょっと!? 本当にどうするつもりなのよ、これ!!」


「此方にも事情がある。時間がないのだ」


 ベインダルの顔は険しかった。眉間には深い皺が寄り、いつもの冷静沈着な雰囲気がほころび始めていた。


「えぇ!? どんな“事情”よ……っ!」


「話している暇も惜しい。ディーズベルダ、今から言う通りに命令を下せ。すぐにだ」


 明らかにおかしい。兄がここまで取り乱すのを、彼女はこれまで一度も見たことがなかった。


「……なによ、どうしてそんなに切羽詰まって……」


 その時、ベインダルが懐から赤いハバネロを取り出した。


「まずはこれを食べさせてみろ」


「えぇ!? とっても辛いやつじゃない! 生で食べたら大変よ!?」


「いいから! その後、私が食べる!」


「はぁ!? 何その流れ!!」


 思わず素の声が漏れた。だが、兄の目は真剣そのものだった。


「ディーズベルダ!……頼む」


 その声に、ほんのわずかに“焦り”が混じっていた。


(なに……? 何が起きてるの……?)


「……エンディ、これ、食べてみて」


 ハバネロをそっと手渡すと、エンデクラウスは無言のまま受け取り、それを丸ごと口に放り込んだ。


 もぐもぐ……。


 無表情で咀嚼し、なんの反応も示さない。涙も出さず、汗もかかず、ただ無機質に咀嚼して飲み込む。


「……ねぇ、お兄様……これって、もしかして“嫌がらせ”なの?」


 ディーズベルダが睨むように言うと、ベインダルは残っていたハバネロを取り上げ、自分の口に放り込んだ。


「っ……ぅ……ぐ……っ……!」


 吹き出す汗をぐっと耐え、顔を引きつらせながら、ベインダルはエンデクラウスの真似をするように平然を装った。


「何を……してるのよ……」


「……次は床を舐めさせろ」


「えっ!? 流石にそんな命令、できるわけ――」


「ならば床の上に、お前の手を置け。それでもいい」


「……っ!」


 しぶしぶ、ディーズベルダは手を床につけた。


 次の瞬間――。


 エンデクラウスは、なんの迷いもなく、その手に顔を近づけ、ぺろりと舐めた。


「ちょ、ちょっと!? 本当にどうするつもり――」


「うるさい……黙っていろ。……せねばならんのだ」


 そう言って、ベインダルも――エンデクラウスと同じ位置に自らの舌を這わせた。


「お兄様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」


 思わず叫んだ声が、客室の壁に反響した。


 目の前の光景――それは、兄ベインダルが床を舐めているという、信じがたい現実だった。


 ディーズベルダは頭を抱え、崩れ落ちそうになる膝を懸命に踏ん張った。


(いったい、なにが起きてるのよ……!)


 それからの2時間50分、彼女は“試験”という名目のもと、切羽詰まった兄の命令と、無表情で従順なエンデクラウスの動きに振り回され続ける羽目となった。


 その様子はまさに、悪夢のようだった。


 ――犬のふりをさせ、特性の苦い青汁を飲ませ、レモンを食べさせ、しまいにはベインダル自身がその真似をして追従するという、混沌の応酬。


 そんな異常な空気の中で、ベインダルは黙って懐から時計を取り出し、ちらりと目をやった。


「……残り、10分か」


 小さく呟かれたその言葉に、ディーズベルダはわずかに希望の光を見出しかけた。


「もう……これで終わりよね? さすがにもう“試験”は十分すぎるわよね?」


 声に疲労と懇願の色が混ざる。


 だが――


「最後に、ディーズベルダ。お前を攻撃させろ」


「……は?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「ま、待って。私……妊娠してるのよ!?」


 言いながら、思わずお腹を手でかばって一歩後ろに下がった。だが、ベインダルの表情はまったく揺らがない。


「だからこそ、私が相手をする。防御は万全に施す。……残りわずかだ。耐えてみせる」


「えぇぇぇぇ!? どういう流れ!? なにこの展開……どうなってるのよ……!」


 頭が追いつかない。けれど、兄の顔は真剣そのもので、これが“本気”だということだけは伝わってきた。


「早くせんか!」


 冷たい声が飛ぶ。


「うっ……!」


 その一言に押され、ディーズベルダは意を決してエンデクラウスに向き直った。


 彼はまだ、ぼんやりと立ち尽くしている。まるで魂の抜けた人形のように、感情の色はどこにもなかった。


「……エンディ。私を……攻撃して」


 ディーズベルダが、震える声で命令を口にした。


 その瞬間、ベインダルの背後で空気が凍りつく。氷の魔力が凝縮され、彼の前に分厚い氷壁が展開された。


 それは、並の攻撃ではびくともしない、ベインダル自らが全力で展開する最大の防御壁だ。


 エンデクラウスはゆっくりと、手のひらをディーズベルダに向ける。その動きには、ためらいも逡巡もなかった。


 だが――


「え……?」


 魔力が集まり始めているのは確かだった。彼の掌には紫色の光が宿り、空気がかすかに震えている。


 けれど、攻撃は放たれなかった。


 どれほど時間が経っても、彼の手はただ差し出されたまま――止まっていた。


「どうして……?」


 ディーズベルダが小さくつぶやく。


 それと同時に、エンデクラウスの身体がふらりと傾き、膝をついた。


 その瞳に再び光が戻り、肩がゆっくりと上下する。浅く、けれど確かに呼吸している。


「……っ!」


 ディーズベルダは思わず駆け寄った。エンデクラウスは彼女の顔を見ると、ほんの少し、かすかに口元を綻ばせた。


「薬の……効果が切れた……?」


 その場にいた全員が、しばらく動けなかった。


 呆然と座り込むエンデクラウス。


 全身の力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだディーズベルダ。


 そして――時計の針を見て、ほんの少しだけ顔をゆるませるベインダル。


「……なるほどな。理屈では説明のつかぬ“抑制”が存在したか」


 彼はぼそりと呟くと、ようやく、少しだけ重みを下ろしたように息を吐いた。

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