64.命の兆し
――夕暮れ。
薄く茜に染まったカーテンが、開け放たれた窓から入る風にゆらりと揺れていた。
重厚な寝台の傍には、あたたかなぬくもりが寄り添っている。
ゆっくりと瞼を開くと、天井に映る光のゆらぎが、まるで水面のように揺れていた。
まだ少しぼんやりとする頭であたりを見渡したディーズベルダに、柔らかな声が降りてくる。
「……目が覚めましたか?」
優しく、けれどどこか張り詰めたような声音。
視線を向けると、椅子に腰をかけていたエンデクラウスが、静かにこちらを見守っていた。
彼の紫の瞳は、安堵と、それ以上に深い感情で満たされていた。
「エンディ……私……」
ディーズベルダが言葉を探すように呟くと、エンデクラウスは黙ってベッドの傍に膝をついた。
そしてそっと、彼女の手を取ると、そのままゆっくりと下腹部に重ねた。
「……よく……耐えていましたね」
まるで壊れものに触れるように優しい手つきで、彼は彼女のお腹に触れた。
その温もりに、ディーズベルダははっと息をのむ。
「やっぱり……そうなの?」
震えるような声で尋ねると、エンデクラウスは静かに頷いた。
その動きには、誇らしさと、言葉にならないほどの感情がこめられている。
「はい。……あなたは、命を授かっています」
ディーズベルダの喉が、小さく鳴る。
「そっか……私、初めてだから。不安だな……もちろん、すごく嬉しいけど」
涙が出るほど嬉しい。
けれど同時に、未知の道に足を踏み入れるような不安が胸を締めつけていた。
「……無粋なことを聞いても?」
ふいにエンデクラウスが口を開く。
少しだけいたずらっぽく、それでいて真剣なまなざし。
「ふふ……いなかったわ。彼氏……じゃなくて、恋人とか。結婚もしてなかったの。だから何もかも、エンディが初めて」
照れくさそうに笑いながらも、ディーズベルダは真っ直ぐに彼を見つめた。
その一言が、どれほど彼を救ったか、本人は知らない。
エンデクラウスは、ふっと表情を緩めると、目元をやさしく細める。
「……読まれてしまいましたか」
「わかるわよ、あなたの考えることくらい」
お互いのことを知り尽くしている。
言葉にしなくても通じ合える、そんな空気が二人のあいだに流れていた。
窓の外からは、カラスの鳴き声が一声だけ響く。
日が完全に沈む前の、ひとときの静けさ。
しかし、ディーズベルダは突然くるりと身を起こし――
「でも、王都のパーティーは出るわよ」
「……なっ!? だめです。危険です」
反射的に声をあげたエンデクラウスが、眉をひそめる。
心配がそのまま言葉になっている。
「じゃあ、また一人で行く気?」
「……っ、それは……」
言葉を詰まらせる彼に、ディーズベルダは静かに微笑んだ。
「片時も離れたくないって……言ってたのに?」
「ぐ…………」
完全に言い返せなくなったエンデクラウスは、唇を噛み、しばしの沈黙の末――
「……わかりました」
「ふふ、素直でよろしい」
ディーズベルダはくすくす笑いながら、枕に頬を埋めた。
目元はまだ少し赤いが、表情は明るく輝いていた。
「ドレスも新調しなきゃね。どれくらい大きくなるかしら……先生はなんて?」
「妊娠三ヶ月、とのことです」
「ふむふむ……パーティーは三ヶ月後よね?」
「ええ、そうです」
「六ヶ月かぁ。ふふふ、やっぱり楽しみが大きいわ!」
ディーズベルダはそっとお腹に手をあてた。
そこに確かに存在している、もうひとつの命。
小さな心臓が、とくんとくんと鼓動を打っている気がした。
「ねえ、エンディ」
「はい?」
「この子、きっとあなたに似てると思うの。……優しくて、強くて、ちょっとおせっかいで」
「……“ちょっと”で済んでいるなら嬉しい限りです」
そう返した彼の目元にも、かすかな涙が滲んでいた。
「この子、きっとあなたに似てると思うの。……優しくて、強くて、ちょっとおせっかいで」
ディーズベルダが微笑んでそう言うと、エンデクラウスはほんの少し、肩をすくめてから目元を緩めた。
「……“ちょっと”で済んでいるなら、嬉しい限りです」
ふっと笑いながらも、その紫の瞳には、かすかに潤んだ光が滲んでいた。
言葉では語らぬままに、彼の中に渦巻く感情――それは、喜びと安堵、そして愛しさに他ならなかった。
そしてエンデクラウスは、ゆっくりと立ち上がると、やわらかな声音で告げた。
「クラウディスが……とても心配していました。こちらに連れて来ても良いでしょうか?」
その問いに、ディーズベルダは一瞬、目を丸くし、そしてすぐに頷いた。
「うん。来てくれると嬉しい」
彼女がうなずくのを確認すると、エンデクラウスはそっとドアの方へ向かい、部屋をあとにした。
――その背を見送りながら、ディーズベルダは再びそっと腹部に手を当てた。
まだ目立たぬそのお腹には、小さな命が確かに宿っている。
(……私が、エンディの子を授かるなんて。考えてもみなかったな……まぁ、もうクラウディスがいるけども…。)
なんだか……不思議な気分
この一ヶ月の開拓は、本当に過酷だった。
寝る間も惜しんで作業に参加し、虫も、魔物も――全てと向き合ってきた。
それでも、エンデクラウスはいつも私を気にかけ、そっと支えてくれていた。
(そういえば……重いものを持たせなかったのって……もしかして……)
彼の手がいつも先に動いていた。
荷物運び、伐採、工具の準備、すべて彼が率先してやっていた。
その上、料理中にも鍋や重いカゴには近づかせなかった――それら全てが、今となっては思い当たる。
(……気づいてたのね。エンディなら、ありえるわ)
苦笑混じりにふっと微笑んだその時――
「――まんまー!! ま……ままーっ!!」
廊下の向こうから、必死な声が聞こえてきた。
「クラウ!」
思わず身を起こしかけたディーズベルダの元へ、扉が勢いよく開かれる。
その先に立っていたのは、泣きそうな顔で小さな手を伸ばすクラウディスだった。
その後ろには、微笑を浮かべたエンデクラウスと、サポートをするジャスミンの姿。
エンデクラウスが静かにベッドに歩み寄り、クラウディスをそっと彼女の腕の中へと託す。
「クラウ……!」
ディーズベルダは両腕でクラウディスをぎゅっと抱きしめた。
小さな手が彼女の髪に触れ、安心したように「ままぁ……」と何度も呼ぶ。
その温もりに、ディーズベルダはこらえていた涙を一粒、こぼした。
「……ありがとう、クラウ。おなかにね……クラウの妹か弟がいるのよ」
「……みぃ?とぅと?」
不思議そうな顔で見上げるクラウディスに、彼女はふわりと微笑んだ。
「一緒に、待っててくれる?」
「……まぁ~!」
小さく頷いたその姿に、ディーズベルダは再びクラウディスを抱きしめた。