63.真面目に頑張りすぎて沼にハマった男
最果ての荒れ地――その森林の入口に、まっすぐな石畳の大路が伸びていた。
一ヶ月前までは、鬱蒼と茂る木々に阻まれ、入口すらなかったこの地。
だが今では見違えるように整備が進み、広々とした開拓道が堂々と敷かれている。
特に目を引くのは、ディーズベルダが「将来、電車を通すの!」と宣言したルートだ。
通常の三倍はあろうかという広さに加え、両脇には高く美しい壁が築かれ、野生動物や魔物の侵入を防ぐ構造になっていた。
しかもその壁には、魔除け効果のある加工石が等間隔に埋め込まれているという徹底ぶりである。
その道の端――木陰に座り込むようにして、貴族然とした青年が、息も絶え絶えにつぶやいた。
「……うう……死んでしまう……」
ダックルス辺境伯家の傍系にあたる、ディルコフ・ドルトール伯爵である。
疲弊しきった顔、袖口には土埃、足元には無数の石くずと設計図の切れ端。
かつて“貴族然”としていた端整な姿も、今やその気配すら消え失せ、どこから見ても「働かされすぎた真面目な青年」にしか見えなかった。
(なんでもやります、だと……)
自分のその“軽はずみな発言”が、今や何よりの呪いだった。
ディーズベルダは彼の言葉を一切の遠慮なく真に受け、必要なものを次々と依頼し――
それだけならまだしも、労力に見合った報酬とまでくるものだから、断る口実すらなかったのだ。
逃げ場を、完璧に塞がれた状態である。
「……策士というのは、ああいう方を指すのでしょうね……」
涙目で呟いたその先に、ようやく目的地の城が見えてくる。
「久しぶりの魔王城だわ!」
ディーズベルダが、遠くから堂々とそびえる黒い塔のシルエットを見上げ、ぱっと顔を輝かせた。
その瞳はまるで、長旅を終えて帰ってきた子供のようにきらきらしていて、ディルコフは思わず直視できなかった。
「はい。やっと帰ってこられましたね」
エンデクラウスが静かに微笑みながら言葉を返す。
彼の声には疲労ではなく、深い安堵と、家族と共にある時間を慈しむような響きがあった。
魔物の森、海への開拓、塩田整備、大規模な炊き出し……
怒涛のような日々の果てに、ようやく戻ってきた拠点の城は、以前よりもどこか、あたたかな空気を纏っているようだった。
ディルコフは、ここぞとばかりに気配を殺し、そっとその場を離れようとした。
もう、誰にも呼び止められませんように――そんな祈るような気持ちで。
「で……では……私はこのあたりで……」
が、願いは届かない。
「――あっ! お待ちになってください!」
背後から響いたディーズベルダの明るい声に、ぴたりと足が止まる。
「えぇ……」
振り返ったディルコフの顔には、あきらめと恐怖が入り混じっていた。
肩ががくりと落ち、返事も幽霊のような声になる。
「実は……この領地には、“モンスターウェーブ”という現象がありまして」
「ま、まさか……」
「はいっ! 住宅地となるエリアを、モンスターから守るために――ぜひ、ぐるりと防壁で囲っていただけませんか?」
「ひぃぃぃぃぃ!!」
貴族の威厳も何もない叫びが、魔王城の上空に虚しくこだました。
あの日、自信満々に言い放った「いくらでもやりますとも!」の一言を――
ディルコフ・ドルトール伯爵は、これほどまでに後悔することになるとは、夢にも思っていなかったのである。
(……くっ、この氷の夫人め。いや、“氷衣の支配者”と言うべきか……。いっそ倒れてしまえば、少しは楽に――)
そんな不敬な想いが胸をよぎった、その瞬間だった。
ディーズベルダが、ふらりと足元をふらつかせた。
「……うっ……」
かすかな声とともに、身体が傾ぐ。
クラウディスを抱いたまま、バランスを崩し、そのまま倒れこみそうになった――
「ディズィ!!」
エンデクラウスの声が、はっと空気を裂く。
彼は即座に駆け寄り、その身と我が子を両腕でしっかりと受け止めた。
腕の中に、ぐったりとしたディーズベルダの体温と、彼女の肩にしがみついたクラウディスの小さな重みが重なる。
「ひっ……!」
その様子を見たディルコフは、思わずその場で尻餅をつき、後ずさった。
背中に冷たい汗がつっと流れ落ちる。
(ま、まさか……私が、あんな不埒なことを思ったから……!?)
彼の脳裏に、“呪い”や“氷の報復”といった迷信めいた妄想が一気に浮かび上がる。
指の先まで震えながら、彼はただその場に固まっていた。
「ま……まんま……まま……」
クラウディスが不安げに、母を覗き込んだまま小さくつぶやいた。
その声に、エンデクラウスは静かに目を伏せると、ディルコフに向き直った。
「ドルトール伯爵――失礼だが、後のことは任せても構わないだろうか」
その声音は、貴族らしい威厳と礼節を保ちつつも、どこか焦燥を滲ませていた。
「は、はいぃぃ!!」
思わず反射的に返事をしてしまったディルコフは、返した直後に口を押さえ、青ざめた。
(……あ、しまった……)
後悔が遅れて胸を刺すが、もう後戻りはできない。
「ジャスミン! すまないがクラウディスをお願いする!」
「はいっ!」
即座に駆け寄ったジャスミンが、ディーズベルダの腕からクラウディスを丁寧に受け取る。
「まま……ままー……!」
クラウディスの手が小さく伸び、揺れる母の髪に届かぬまま宙を掴む。
エンデクラウスはその手にそっと触れ、目線を合わせた。
「クラウディス、そう心配するな。ママは大丈夫だ」
「……ぱぱ……」
「うむ。……頼んだ」
そう言い残し、エンデクラウスはディーズベルダの体を抱きかかえ、迷いなく城内へと駆け出していった。
残された者たちは、誰一人として声を発せず――ただ、彼の背中を見送るしかなかった。




