62.貴族サロン
淡い陽光が差し込む、王都の貴族サロン。
絹張りの椅子と花柄のティーセットが美しく整えられ、上品な笑い声があちこちで交錯していた。
甘い焼き菓子の香りと、ローズティーの芳香がふわりと漂うなか――
一段と華やかなテーブルでは、本日の“主役”たちが向かい合っていた。
金髪に淡いブルーのドレスをまとった王女スフィーラ。
その正面には、黒髪のツインテールを揺らす令嬢、エンリセア・アルディシオンが座していた。
――そこに、まるで火種のように差し込んだのは、周囲の令嬢たちのひとつの問いだった。
「ねえ、エンリセア様。噂は本当なの?
ベインダル様が……アルディシオン公爵家に滞在なさっているって」
その一言に、空気がわずかに張り詰める。
数人の令嬢たちがそっとスフィーラの様子を窺い、同時にエンリセアの唇に注目した。
すると、当の本人は――ごく自然にティーカップを口元へ運び、優雅に一口。
そして、さらりと――まるで冗談でも交えるかのように、こう答えた。
「ご縁あって、しばし我が家にて穏やかにお過ごしいただいておりますわ。ええ、“逃げ場”のないほどに」
一瞬、カップのふちに手をかけていた令嬢たちがぴくりと動きを止めた。
けれどエンリセアは、まるで“物語の余談”でも語るかのように続ける。
「そう……例えば、どこかの“だれか”さんのように、香水と甘い声で絡め取るのではなく――
きちんと、心から、時間をかけて“囲い込んだ”結果ですわ」
その言い回しに、周囲の令嬢たちの背筋がぞくりと震えた。
まるで、その“だれか”がすぐ隣に座っていることを、誰もが知っているかのように。
スフィーラの手が、わずかにカップを揺らした。
けれど、彼女もまた負けじと口を開く。
「……ですが、父王からはすでに、“アイスベルク侯爵家の嫡男との婚約”は既定路線であると伺っておりますわ」
強く微笑んではいるが、その声音はかすかに強張っていた。
――そこで、エンリセアは微笑みながら、ぴたりと返す。
「――“王女”というご身分でも、“令嬢”の心までは縛れませんわ」
その瞬間、サロン全体に、静かな戦慄が走った。
スフィーラの笑みが固まるより先に、エンリセアはさらに、決定的な一言を重ねる。
「それに……ベインダル様の“心”も、既に私のものでございますのよ」
そして――紅茶のカップを持ち上げたまま、ひとつ微笑む。
「とても強いのを――“お飲みいただいた”ものですから。
……そう、夢見心地のまま抗えぬほどに、ね」
それが“何を意味するか”など、一言も明かしていない。
けれど、その匂わせにこめられた含みは、誰もが察した。
スフィーラの指が、カップのふちでかすかに震える。
その微細な動きに、周囲の貴族令嬢たちは目を伏せつつも、耳をそばだてていた。
――だが、言葉にしないのは礼儀。
だからこそ、その興味は婉曲な問いとなって、エンリセアへと向けられる。
「まぁ……アルディシオン令嬢。もしよろしければ、ひとつだけ。
その“お心を掴む手法”とは、どのような“深度”まで……?」
それはまるで、“お紅茶の香りのように”さらりと放たれた言葉。
けれど、含まれた意味は極めて官能的で――令嬢たちの頬には、ほんのり紅がさしていた。
エンリセアは少しだけ首をかしげ、まるで秘密の香水の配合でも語るかのように微笑んだ。
「ええと……そうですわね。指先ひとつ、眉の動きひとつに至るまで、反応は極めて良好ですの。お声をかければ、思いのままに――まるで、指揮棒に応える楽団のように」
その言葉に、ふいに場の空気がひやりと冷えた。
それはまさしく――
スフィーラ王女が、かつて己の専属調香師に密かに調合させた“特別な媚香”と、効能の類似を示すものであった。
スフィーラの顔から血の気が引く。
手元のティーカップが、かすかな音を立ててソーサーに戻された。
「……失礼。少々、気分がすぐれませんの」
優雅に椅子を引きながらも、その瞳にはわずかな動揺が浮かんでいる。
王女としての気品を保ちながらも、それは明らかに“退却”の動きだった。
カツン、とかかとの高い音を響かせ、スフィーラはサロンを後にする。
残された令嬢たちが目を合わせ、抑えきれない驚きと興奮を互いに読み取っていた。
エンリセアは――紅茶を一口。
そのまま、涼やかな声で、こう呟いた。
「ふふ……どれほど技巧を尽くされても……“想い”には敵いませんの」
一瞬、場の空気が濃密に揺れる。
彼女の唇に浮かんだのは、無垢を装いながらも――底知れぬ“魔性”を感じさせるほほ笑みだった。
◇◆◇◆◇
サロンでの一戦を終え、夕刻。
アルディシオン公爵邸の正門前に、エンリセアを乗せた馬車が到着する。
小躍りするような足取りで馬車を降りた彼女は、浮かれた様子で玄関の扉を開け――
そして、ちょうど廊下を横切ろうとしていた人物を見つけて、ぱっと顔を輝かせた。
「まぁっ! ベインダル様!!」
その声と共に、エンリセアはほとんど駆けるようにしてベインダルの元へ飛びついた。
勢いに負けてよろめきそうになりながらも、ベインダルはなんとか踏みとどまる。
眉をひくつかせながら、彼女の腕を振りほどくでもなく、低く言葉を落とした。
「……して、何を言ってきたのだ、あの場で」
視線だけで問い詰めるその目には、すでに“嫌な予感”が滲んでいる。
エンリセアは小さくくすくすと笑いながら、楽しげに指をそっと口元へ添えた。
「ええと……そうですわね」
まるで愛しい劇のワンシーンを反芻するかのように、うっとりとした口調で続ける。
「ええ、そうですわね……簡潔に要点だけ申し上げますと――とても“強いもの”をお飲みいただきましたので、現在では、指先ひとつ、眉の動きひとつに至るまで、実に見事な反応を示してくださいますの。
まるで、わたくしの言葉が“指揮棒”となり……、そのご意思も、そのお身体も、夢見心地のままに奏でられるように、ですわ」
その瞬間。
ベインダルは額を押さえ、ゆっくりと天を仰いだ。
「……正気か、お前は」
言葉の端には、乾いた苦笑すらにじむ。
頭を抱えたまま、壁によりかかるように立ち尽くすその姿は、まさに“魂が抜けかけた男”だった。
「……ならば、私は今後、貴族社会の面前で――そのように過ごさねばならんのか?」
その声音は、諦めにも似た静けさと、心底疲れ果てた覚悟に満ちていた。
だが、当のエンリセアはけろりとした顔で、まっすぐに彼を見上げる。
「――やってくださいますの?」
その言葉には遠慮もためらいもなかった。
ベインダルは長い沈黙の後、小さく息を吐く。
「……それが、“必要”とあらば、な」
もはや抵抗する意味も見いだせない――そんな表情で、静かに肩を落とす。
廊下に落ちた夕日の影が、ふたりの距離をゆるやかに繋いでいた。




