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61.静かなる傍観者

ベインダルは、窓辺に立ったまま、庭の奥へと進む馬車の姿を見送っていた。


 黒髪のツインテールが、窓越しにわずかに揺れる。


「……サロンへ、攻めに出たか」


 ため息ともつかぬ吐息をもらすと、すぐに扉の向こうから控えめなノック音が響いた。


 コン、コン――。


「失礼いたします。ベインダル様。アルディシオン公爵閣下がお呼びでございます」


「……伺おう」


 手袋を整えながら返答し、ベインダルはゆるやかに踵を返した。


◇◆◇◆◇


 扉が静かに閉じられたのを合図に、ディバルス・アルディシオン公爵は深く腰掛け、落ち着いた口調で切り出した。


「……まずは、先日の件について謝罪せねばなるまい。我が娘が、いささか――いや、あまりに奔放に過ぎた」


 その言葉には、父としての恥と公爵としての誠意が滲んでいた。


 対するベインダルは、まっすぐ座したまま、表情を崩さずに小さく首を振った。


「……とんでもないことにございます、公爵閣下。あれほどの熱意の前に、私ごときが抗える立場ではございません」


 それは一見謙遜のようでいて、婉曲に“制御不能”を訴える、実に上品な皮肉でもあった。


 そして、窓の外に目を向けると、わずかに声を落として続ける。


「……王女殿下をお迎えしておれば、王家の血筋が加わり、アイスベルルク侯爵家もより一層、安定した立場を築けたやもしれません。家というものは、時に誇りよりも“保たねばならぬ形”がございますゆえ」


 その言葉には、淡い諦念と、策士としての冷静な現実認識が宿っていた。


 ディバルスは顔をしかめ、軽く頷いた。


「……まったく、娘の愚行には面目も立たぬ。公爵家の名に恥を重ねたとあれば、いかなる叱責も甘んじて受けねばなるまい」


 その口調には、表向きの丁寧さに隠された深い疲れがあった。


 だが、それでもなお父親としての矛盾を口にせざるを得ないのが、名門貴族という立場だった。


「とはいえ……アルディシオン公爵家も、かつては王家より幾人かを迎えた家柄。我が血脈も、今よりは幾分“格調あるもの”となるやもしれぬ――そう考えたのは、決して見当違いではなかったと信じたい」


 その言葉は、わずかばかりの自嘲を含んだ言い訳だった。


 ベインダルはそれを静かに受け止め、そして――ゆっくりと視線を戻す。


「……されど、権威とは、風のように常に流れゆくもの。

 吹くままに頭を垂れ、従うばかりの我らは、しょせん“錘のついた傀儡”に過ぎませぬ」


 言葉には刺すような痛烈さがあった。

 けれどそれを語る口調は、どこまでも静かで、ただ事実を述べているだけのようでもあった。


 ――その一言が、ディバルスの胸に深く突き刺さった。


(……そこまで言わせるようなことを、私は……)


 公爵としての立場の裏で、ひとりの父として、己の娘の“重さ”に今さらながら打ちのめされる。


 ……それを感じ取ったのだろう。ベインダルはふっと目を伏せた。


(……いや、そもそも)


 脳裏に浮かぶのは、あの最初の出会いだ。


 思えば――あやつは最初から“常軌を逸して”いた。


 初めて会ったのは、私が十八の年。

 ディーズベルダの十三歳の誕生日を祝う、アイスベルク家主催の舞踏会でのことだった。


 あのときエンリセア嬢は、兄エンデクラウスに連れられて、十一の年で我が屋敷を訪れた。


 初対面にも関わらず、私を見た瞬間、客間のど真ん中で高らかに叫んだのだ。


「お兄様っ! あの方!! あの方が欲しいですわ!!」


 まさしく、金細工のグラスを片手にしたまま振り返った私は、完全に“目撃者”になっていた。


 その瞬間からだ。

 私の“完璧に構築されていた人生設計”に、妙なヒビが入り始めたのは。


 ――その後。


 妹ディーズベルダの婚約が決まり、アルディシオン家との縁が結ばれると、事態はさらに進行した。


 エンリセア嬢は“義理の縁者になれる可能性”に歓喜したのか、

 まるで家人かのように我が部屋を訪れるようになった。


 雨の日も、風の日も、予定などお構いなしに――突然に。


 私は公爵令嬢、しかも妹の婚約者の妹という立場を尊重し、最初のうちは応じていた。


 しかし、次第に――訪問の“密度”が、常軌を逸し始めた。


 社交の場に出れば、大声で名を呼び追いかけまわされる。


 当然ながら、あれほど目立ってしまえば、用意された縁談も、そのたびに霧散する。


 公爵令嬢に張り合える家など、そうそう存在するはずもなかったからだ。


 やむを得ず、私は社交の場から距離を取り――戦地へと身を投じるようになった。


 ……が。


 時折、戦地にも“見学”と称して現れるので、本気で叱責したこともあった。


 だが彼女は、にこりと笑って、こう言ったのだ。


『怒ったお顔も素敵ですわ、ベインダル様』


 ――まったく、会話にならなかった。


 それでも私は、手紙で何度か公爵閣下に抗議を送った。

 正式なものとして、封蝋も印章も添え、すべて記録に残る形で。


……そして、今。


こうして、私は貴家の客間で、あの嬢君の“行動の結果”を静かに見届けている。


(――王女殿下との対面において、如何なる結末を迎えるのか……実に興味深いな。)


今や王の信頼を取り戻そうと必死なスフィーラ王女と、なりふり構わず突き進むエンリセア嬢。

あのふたりが社交界という舞台でぶつかり合えば、どれほどの火花が散ることか。


(……今は、ひとまず傍観者として静かに成り行きを見届けるとするか)


逃げても無駄なら、もはや腹を括って静観する他あるまい。

それに――ふと、思う。


(……仮に、これまでの一連の振る舞いが全て彼女の思惑によるものであったとするならば)


唐突な訪問、極端な感情表現、そして今この状況に至るまでの流れ。

すべてが演技――とは言わない。

だが、少なくとも“演出”だったとしたら。


(エンリセア・アルディシオンという令嬢の本質とは、一体いかなるものなのか――実に興味が尽きぬな。)


ベインダルは、机上のティーカップに目を落とし、ふっと小さく息をついた。

彼の周囲にだけ、わずかに冷えた空気が残っていた。

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