60.数々の迷惑行為が事を成す
重厚な気配が漂う、アルディシオン公爵家の賓客室。
深紅の絨毯と黒檀の家具が整えられた空間に、銀器のティーセットだけが無駄のない美しさを添えていた。
そんな格式高い空間の中、ひときわ重い溜め息をついたのは、他ならぬベインダル・アイスベルクだった。
その腕には、いまだエンリセア・アルディシオンがしっかりと抱きついたまま。
「……申し訳ないが、エンリセア嬢。そろそろ、離れていただけるか?」
声は低く静かに、しかし明確に“拒絶”の意志を込めた貴族紳士の言葉。
しかし、エンリセアはその腕にぎゅっと力を込めると、キッと顔を上げて言い返した。
「嫌ですわ!! 何が何でも、婚約していただきますもの!!」
まっすぐなその声に、室内の空気が一瞬、ぴたりと凍りついた。
そのやり取りを、ソファに腰を下ろしながら無言で見ていたのは――
この屋敷の主、アルディシオン公爵当主、ディバルス・アルディシオンその人だった。
彼は額に手を当て、重々しくひとつ息をつくと、深く低い声で口を開いた。
「エンリセア。……賓客の前だ。よい加減に、離れなさい」
その叱責に、通常であれば令嬢は恥じ入って手を放す――だが。
「嫌ですわ!! お父様!」
今のエンリセアに、そんな常識は通じなかった。
紫の瞳を潤ませた彼女は、父へとまっすぐに詰め寄る。
「アルディシオン公爵家ほどの権威があれば、この婚約など強引にでも通せましょう!? それが家の威光というものではなくて!?」
「……ぐっ……ぬぅ……」
ディバルスの顔に苦渋がにじむ。
「……私とて、ベインダル殿の優秀さは十分に理解しておる……。
むしろ、この国で最も才を持つ男のひとりとして一目置いておるほどだ」
そこまで言ったあとで、さらに重たく付け加える。
「……だからこそ……先日、王命を受けた際に、スフィーラ王女との縁談候補として名を挙げてしまった……」
言葉の最後は、まるで罪を吐き出すように小さく、低かった。
その瞬間、エンリセアの顔がはっと強張る。
「……お父様……なんですって……?」
だが次の瞬間には、その瞳に決意の炎が宿った。
懐から、小さな薬瓶のようなものを取り出すと、彼女はまるで演劇のように高らかに宣言した。
「では、こういたしましょう――この薬を使ってでも、私はベインダル様を我がものにしてみせますわ!!」
「なっ――!」
公爵の眉が跳ね上がる。
ベインダルは一瞬だけ目を細めたが、何も言わず、ただ静かに彼女の行動を見ていた。
そして、さらにエンリセアは言葉を重ねる。
「それとも……それを止めようとなさるならば……私の命で、責任を取らせていただきますわ」
彼女は薬瓶を握る手をすっと自分の胸元に近づけながら、微笑を崩さず、こう言った。
「お父様が私の心をお踏みにじるのなら……私は、もう、望まれてこの世に生まれたとは思えませんもの……」
その場に、深く重い沈黙が落ちた。
令嬢としての“理性”と、“誇り”と、“情熱”――
すべてを捨ててでも、ただひとりの男にすがり、手に入れたいと願うあまりにも純粋な言葉。
アルディシオン公爵・ディバルスは、深く眉を寄せながらエンリセアのその姿を見つめていた。
――娘が、ベインダルに向けてしてきた数々の迷惑行為は、父としてすべて把握していた。
意図的な接触。度重なる押しかけ。過剰な贈り物や噂話の尾ひれ。
だが、今、彼女の目に宿る“必死さ”は――それらとはまるで違っていた。
(……こやつ、本気か……)
もはや“憧れ”や“執着”ではない。
――命を懸けてでも、愛そうとしている。
それがわかってしまったからこそ、ディバルスは言葉を失った。
ため息ひとつ、絞り出すように口を開く。
「……わ、わかった。……そこまで申すならば、もはや止めることも無意味だろう」
エンリセアの表情が、ぱっと輝く。
だが、その直後――
「……だが、お前が思うほど簡単ではない」
その声に、再び空気が引き締まる。
「私は……ベインダル殿を、王女スフィーラ殿下の縁談候補として――すでに、王に推薦してしまっているのだ」
「……!」
エンリセアの目が揺れる。
だが、ディバルスは続けた。
「つまり、お前は“王命の婚姻候補者”に、正面から挑もうとしているということだ」
「…………」
「よいか、エンリセア。これはただの“わがまま”では済まされぬ。
王命を跳ね除けるには――お前自身が“スフィーラ殿下”以上の影響力を示さねばならんのだ」
そう、まるで試練のように。
「この国の社交界を、お前の色で染め上げてみせよ。
王すら無視できぬ、名声と後ろ盾を――自らの力で勝ち取ってこい」
その目は、もはや“父”ではなかった。
アルディシオン公爵――ディバルスが、後継の令嬢に課す“責任の眼差し”。
「……そして、ベインダルの名を奪いたいのなら――お前が、スフィーラ王女を退けてみせよ」
その言葉に、エンリセアは静かに立ち上がり、フリルのスカートを整えると、
可憐な笑みを浮かべながら堂々と宣言した。
「ええ、やってみせますわ。社交界だろうと、王女だろうと――全て私の舞台にしてみせます」
そして、まるで“ついで”のようにさらりと言った。
「……ですが、お父様。もし万が一……そのスフィーラ王女が、ベインダル様に薬など盛ったりして何かあったら……」
くるりと一瞬、背後のベインダルを見やりながら――にこ、と微笑する。
「私でしたら、迷わず王都に火を放ってでも、お守りしてみせますわ」
その目の奥には、薄氷のような狂気が光っていた。
ディバルスは一瞬、ぴくりと眉を引きつらせる。
そして、何かを諦めたように、深く、深く頭を下げた。
「……ベインダル殿。まことに、心苦しいお願いとなりますが……」
「…………」
「しばしの間、我が娘の“視界”から逃れることのない距離にて、屋敷にて静養など――いただけぬでしょうか」
その声は、公爵という立場をかなぐり捨てたような“懇願”であり、
一方で“この女から目を離すと、何をしでかすかわからん”という切実な警戒心でもあった。
……ベインダルはと言えば。
眉間に深いしわを寄せ、視線を天井へとさまよわせた。
(……正気の沙汰とは思えん)
心底どうでもよさそうな顔で肩を落とし――けれど、彼はその場でそっとひとつ頷いた。
「……わかりました。貴家のご厚意とあらば、しばらく屋敷にて滞在させていただきましょう」
その言葉はあくまで礼儀正しく――しかし、どこか魂が抜けたような響きだった。
その瞬間、エンリセアの顔がふわっと華やかに咲き、すぐさま彼の袖にぴたりと張りつく。
「まぁ! ベインダル様がこの屋敷にずっといらしてくださるなんて……わたくし、夢のようですわ!」
ディバルスはこめかみに手を当てながら、心底つらそうに唸った。
(……もはや、成るように成るがよい)




