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59.エンリセア劇場開幕ですわ~~~~~~~!!

時は遡ること、約二週間ほど前――。


 窓の外には、見慣れたグルスタント王国の大地が広がっていた。春の陽光がちらちらと馬車の帷子に差し込み、室内は柔らかく照らされている。


 そんな穏やかな風景とは裏腹に、馬車の中の空気はどこか妙に張り詰めていた。


 その中心に座っているのは、ベインダル・アイスベルルク。

 銀髪をぴたりと撫でつけた完璧なオールバック。冷ややかな青い瞳は、まるで何もかもを見透かしているような静けさを湛えていた。


 左肘を肘掛けに置き、頬杖をついたまま足を組み、視線は窓の外――ただしその表情に感情の色はない。


 そしてその隣、ベインダルの右腕にぴったりと身を寄せていたのは、エンデクラウスの実妹、エンリセア・アルディシオンだった。


「ねえ、もっと近くに座っても……いいかしら?」


 などという前置きすらなく、彼女は最初からぎゅうっとベインダルの右腕にしがみついている。


 華やかなドレスのフリルが揺れ、黒髪ツインテールがゆらゆらと揺れている姿は実に可憐。だが、本人は甘えるというより、狩りの標的に喰らいつく獣のように目を輝かせていた。


 そして、とうとう無言を貫いていたベインダルが、淡々とした声で口を開く。


「……エンリセア嬢。公爵令嬢の“嗜み”とやらは、どこへ消えたのですか」


 声音は優雅ながら冷ややか。言葉の端々に、皮肉のような響きがこもっている。


 けれど、エンリセアは全く怯まず、にっこりと微笑んだ。


「あら、ご安心くださいませ? ここでは二人きりですわ。誰にも見られておりませんもの」


 唇の端を上げての笑みは、まるで“この状況を楽しんでいる”とでも言いたげだった。


 ベインダルはそれに対して何も言わず、ただ一度だけ視線をゆっくりとエンリセアに向ける。


 そして、まるで試すように問いかけた。


「……策を講じるのは得意か?」


 その一言に、エンリセアの目がきらりと輝いた。


「もちろんですわ! これでもアルディシオン公爵家の人間ですもの。幼少の頃から、貴族の駆け引きや交渉の術は厳しく躾けられておりますわ」


 胸を張って堂々と言い切るその様子に、ベインダルの瞳がわずかに細まる。


 そして、左手を頬から離し、彼女の顔を覗き込むように少し身を傾けた。


「……ならば、チャンスをやろう」


「え?」


 エンリセアが一瞬だけきょとんと目を瞬かせた。 


 その隙をつくように、ベインダルは真っ直ぐに彼女の瞳を見下ろす。その眼差しは、まるで氷の刃のように冷たく研ぎ澄まされていて、目が合った者の心を凍らせるかのような静かな威圧感を放っていた。


「策を講じ、私と“婚約”まで取りつけてみせろ。……現状、私から動くことはできん」


 その声は冷静でありながらも、どこか試すような響きを帯びている。


 だが、エンリセアの口角は、にやりと満足げに持ち上がった。


「まあ……それは……もう逃げられませんわよ?」


 まるで自分が勝者であると信じて疑わない、その口調。

 彼女の中ではすでに、婚約までの筋書きがいくつも描かれているのだろう。


 だが、ベインダルはどこまでも冷静だった。


「……そなたが“良い”というなら、構わん。だが――私がそなたを“愛す”かどうかは、わからんぞ」


 エンリセアの笑顔が、逆にさらに輝きを増す。


「まぁ! 素敵な提案ですわ!」


 彼女にとってこのやり取りこそが、貴族令嬢としての勝負の場であり、恋の戦場。

 その挑戦に燃えるような眼差しは、彼女の中の“策士”としての血を確実に滾らせていた。


―――――――――

―――――――


 夕暮れの光が、黒曜石のように艶やかな石造りの屋敷に、静かに差し込んでいた。

 ――ここは、グルスタント王国でも一、二を争う名門、アルディシオン公爵家。


 重厚な門の前に、豪奢な装飾が施された馬車が音もなく滑りこむ。

 御者が慣れた手つきで扉を開けると、最初に現れたのは――ベインダル・アイスベルルク。


 完璧に整えられた銀の髪に、端正な顔立ち。そして凛と張りつめた空気。

 彼がその場に立っただけで、周囲の空気が一段、引き締まる。


 馬車の足元に立った彼は、流れるような動作で右手を差し出す。


「……降りたまえ、エンリセア嬢」


 その手に、ふんわりと絡むのは、柔らかな黒髪のツインテール。


「ありがとうございます、ベインダル様」


 エンリセアは、軽やかにその手を取り、優雅な足取りで馬車から降り立った。

 フリルのついたドレスがふわりと揺れ、まるで舞台の主役が登場したかのような存在感。


 屋敷の前に控える使用人たちが一斉に頭を下げる中、彼女は微塵も動じず、堂々と前を向く。


 そんな中、ベインダルが低く――しかし、どこか探るような声で言葉を投げかけた。


「……私はこれより帰るが、大丈夫か?」


 その問いには、表面上は淡々とした響きしかなかった。

 だが、僅かに瞳を伏せるような仕草の裏には、“このまま帰っていいのか?”という確認の気配が滲んでいた。


「このまま帰ってしまっても構わん。……必要であれば、私を“利用して”も構わない」


 冷たく聞こえるその口調の奥にあったのは、“好きにすればいい”という、妙に優しい諦観だった。


 その言葉を聞いたエンリセアは、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが――すぐに、くすっと口元を綻ばせる。


「あら……ベインダル様を、好きに使ってもよろしいんですの?」


 甘えるような声音とは裏腹に、その紫の瞳には、まるで狩人のような意志の光が宿っていた。


 ベインダルはその目を一度、じっと見つめ――小さく、ひとつ頷く。


「必要とあらばな。ただし――家が潰れるような真似だけは、するな」


 その瞬間だった。


 エンリセアの表情がぱっと華やぎ、頬に朱を帯びたように笑顔が弾ける。


「では、今ですわねっ!」


 まるで舞台女優のように、くるりと体をひるがえし、ベインダルの腕にしっかりとしがみついたまま門のほうを向く。


「お父様ーっ!!」


 その声は、意図的に通るように響かせた――まさに芝居の一幕。


 ちょうど庭に現れたのは、アルディシオン公爵家当主。エンリセアの実の父だった。


 その威厳に満ちた佇まいを見つけた瞬間、エンリセアは一切の躊躇もなく口を開く。


「ベインダル様と婚約したくて、お連れしましたの!!」


 ……沈黙。


 庭にいた執事、護衛騎士、使用人たち――その全員が硬直した。


 空気が止まり、時間すら凍りついたようだった。


 ベインダルはというと……。


 ほんの一瞬、目尻が引きつった。


 感情をほとんど顔に出さない彼にしては、珍しい反応だった。

 けれどすぐに表情を整え、冷たい青い瞳で、そっと彼女を見下ろす。


「……それが、そなたの策か?」


 その声は、凍てつく氷のように冷静で――そして、ほんの少しだけ、困惑を含んでいた。


 だがエンリセアは、まるで自分の勝利を確信しているかのように微笑んだまま、

 彼の袖口に顔を寄せ、囁くように小さな声でささやいた。


「(今は全力で否定しててくださいまし。後は私がどうにかしますから)」


 その言葉は、甘えでも懇願でもない。

 “舞台の流れ”を支配するための、裏方からの指示だった。


ベインダルは、庭先に立つアルディシオン公爵へと視線を向け、静かに一礼した。


 そして、表情も声色も変えず、まるで客観的な事実を述べるかのように口を開く。


「……恐縮ながら。アルディシオン公爵閣下――貴家のご令嬢が、どうにも私に強くご執心のようでして」


 言葉選びは丁寧でありながら、核心を外さない。

 そして、ほんのわずかに困ったように視線をそらし、続ける。


「私としても、突然このような形で御屋敷を訪れることになり、少々困惑しているのが正直なところです」


「……もっとも、貴家はわが国においても特に格式ある家柄。無碍に背を向けるわけにも参らず……まことに、扱いの難しい立場にございます」


 苦しげではないが、確かに“板挟み”であることを匂わせる、その絶妙な言い回し。


 まさしく、冷淡にして紳士――ベインダルらしい表現だった。


 しばしの沈黙を経て、アルディシオン公爵はゆっくりと歩み出る。

 目を細め、ふたりの様子を静かに見据えたのち、低い声で言う。


「……状況は理解した。話は、屋内で伺おう。立ち話で済ませるには、あまりに内容が重いようだ」


 それは、公爵家の主としての判断であり、同時に“覚悟”の一端でもあった。


「エンリセア、ベインダル殿。ついてこい」


「はい、父上♪」


「……失礼いたします」


 微笑を崩さぬエンリセアと、淡々としたベインダルが、その背に続く。


 ――作られた流れの中で、動き出した“策略の駒”たちが、静かに屋敷の扉の中へと消えていった。

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