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57.大掛かりな料理

潮の香りが、風と共にふんわりと運ばれてくる。

 海鳥たちの鳴き声が、どこか楽しげに空に響いていた。


 ディーズベルダはブーツを履き直すと、浜辺のやや奥まった場所に目を向ける。

 砂の飛ばない風除けのある地形を選び、そこで料理の準備を始めようとしていた。


「奥様!」


 パタパタと砂を蹴る音と共に、たくましい体躯の料理人、オルトが駆け寄ってきた。


 その逞しい腕には、包丁や鍋、木箱などがごっそり抱えられている。


「オルト! ちゃんと食材、持ってきてくれた?」


 ディーズベルダが振り返って尋ねると、オルトはにかっと笑って親指を立てた。


「はい! あちらに全部ございます!」


 彼が指さした先には、大きな荷馬車が停められていた。

 その荷台には、見覚えのある冷却魔道具に包まれた木箱がいくつも積まれており、箱の中では凍った食材たちがきれいに並んでいた。


 肉、魚、野菜、果物――種類も豊富で、どれも保存状態は抜群だ。


「さすがね……本当に助かるわ!」


 ディーズベルダがうれしそうに目を細めると、オルトは胸を張って一礼した。


 ディーズベルダはすぐ近くにいたエンデクラウスに視線を向ける。


「エンディ、お願いできる?」


「はい」


 彼は一歩前に出て、すっと右手を掲げた。


 その掌に、淡い炎の気配が現れる。

 紫ではない、通常の目に見える炎。だがその魔力の流れは極めて繊細だった。


 エンデクラウスは額にかすかな汗をにじませながら、指先を小さく動かす。

 まるで絹糸を操るかのような集中力で、魔力の温度と範囲を巧みに制御していく。


 冷え切った食材たちが、ほんのりと霜を解かれ、適温に戻っていく。


 肉の色も生き生きとした赤に、魚の表面にも艶が戻り、野菜にはほのかな香りが立ち上った。


 そして――。


「ディズィ、言っておきますけど……これは、俺にしかできませんからね」


 ちょっぴり誇らしげに、でもどこか呆れたように、エンデクラウスが横目でちらりと彼女を見る。

  ディーズベルダはふふっと笑って、すぐにその言葉に乗った。


「分かってるわよ。頼りにしてるわ、旦那様♪」


「だーなしゃまー!」


 その瞬間、クラウディスが元気に声を上げ、両手を広げて、まるで自分も言いたかったと言わんばかり。ディーズベルダは思わず目を丸くし、それからくすっと笑ってクラウディスを抱き上げる。


「あら……最近、言葉をどんどん覚えるわね。すごいわ、クラウディス!」


 小さな頭を撫でると、彼は得意げに「まぁ!」と声をあげた。


 砂浜には、ディーズベルダが設計した簡易かまど――コンロのような土台が、ずらりと十四基並んでいた。

 海辺の岩陰をうまく利用し、風を防ぎながら火力を安定させる構造になっている。

 石と土で組まれた即席のかまどには特殊な強化が施されており、火を入れればしっかりと熱を保ち、長時間の調理にも耐えられる優れものだった。


 そのひとつに、大きな寸胴鍋――軽く40リットルはある代物――を持ち上げようとしたそのときだった。


「ディズィ。これはダメです」


 低く真面目な声がすぐそばから届く。振り向けば、いつの間にかエンデクラウスが背後に立っていた。


「え? 鍋くらい持てるわよ。私、見た目より力あるし」


 軽く笑って言うディーズベルダに、彼はきっぱりと返す。


「男がいるのですから、頼ってください」


 少しだけ眉を下げ、でもその瞳には真っ直ぐな優しさが宿っていた。

 思わぬ真面目な言い回しに、ディーズベルダは一瞬だけ目を丸くする。


(……仕方ないわね)


 やや呆れつつも、内心は少しだけくすぐったくなって、彼女は素直に鍋から手を離した。

 エンデクラウスは魔法で軽やかに持ち上げた鍋を、てきぱきとコンロの上へセットしていく。


やがて、十四個すべての鍋がセットされると、次は食材の準備に入る。


「クラウディス、お願いできる?」


「たやっ!」


 小さな魔力使いがちょこんと前に出て、ぷしゅっと両手を突き出す。

 その掌から、まばゆい水の魔力が発動し、ディーズベルダの指示通りに、洗米用の水を鍋へと注いでいく。


 現れたのは、細長く整った形をした長粒の白米だった。


 これはディーズベルダが幼い頃、前世の記憶を少しずつ思い出しはじめた時期に、アイスベルルク侯爵家の領地で試験的に作りはじめた特別な品種。

 当時は周囲に不思議がられながらも、彼女の強い意志と工夫により育てられ続け、今ではごく限られた農地でのみ栽培されている。


 この世界においては、王都の高級料理人たちすら「異国の輸入米」と考えているほど希少で、最果ての荒れ地では栽培すらできない環境のため、今回はアイスベルルク侯爵領から特別に取り寄せたものだった。


 寸胴鍋のうち七つを使い、彼女は大規模な炊飯を開始する。


 一方で、残りの七つの鍋では、いよいよ謎の主菜――“カレー”の準備が始まっていた。


 オルトを中心に、領民たちが手際よく野菜を刻んでいく。


「ジャガイモとタマネギは、よその市場で手に入れたやつですが……このニンジンだけは、最果ての畑で収穫されたんですよ」


 そう言いながら、オルトがにんまりと笑う。


みずみずしい橙色のニンジンは、驚くほど香りが強く、包丁を入れた瞬間に甘い香りが立ちのぼった。


「お水、もっとー!」


 そのそばでは、水担当のクラウディスが大活躍中。

 次から次へと「たやっ!」「みぅー!」と声を上げながら水を供給しており、本人もかなりご機嫌な様子だ。


 そして――。


 寸胴鍋で炒められはじめたタマネギに、スパイスの香りが重なっていく。


この世界に“カレー”という料理は存在しない。


 だからこそ、誰もがその調理工程をじっと見つめながら、頭の中で疑問符を浮かべていた。


 寸胴鍋に投入されたのは、大量の炒め玉ねぎとニンジン、そしてこれでもかというほどの牛肉。

 しかも、どの鍋にもふんだんに使われており、肉の塊だけでもかなりの贅沢品に見えた。


(う……もし、私の人生がどこかの物語になってたら……“あ、この子、どこそこ出身だな”ってバレちゃいそう…)


 ディーズベルダは内心で冷や汗をかきつつ、ひたすらスパイスの配合を確認する。


 手元には前世の記憶を頼りに調合した、数種類の粉末や香草の瓶。

 それらを順に入れていくと、香ばしい香りと独特な刺激がふわりと立ちのぼった。


「……こ、こんなにも……わけのわからないものを!?」


「この粉、食べ物に入れるんですか!?」


 調理を手伝っていた領民たちや騎士たちが、思わず目を丸くして声を上げる。


 目の前で次々と投入される見慣れない調味料――黄色、赤、茶色の鮮やかな粉に、鼻をつんと突く香りが広がるたびに、不安そうな顔があちこちに浮かんでいく。


 そんな中、ひとりだけ落ち着いた声で全体を安心させる人物がいた。


「大丈夫です、皆さん。ディズィの腕は確かです」


 そう言ったのは、他でもないエンデクラウスだった。


 上品な微笑みを浮かべながら、すでに火加減調整担当として寸胴鍋の前に立ち、鍋一つひとつの炎を魔法で絶妙にコントロールしている。


 彼の手元では、炎が煮立たぬように丸く広がり、ぐつぐつとちょうど良い加減で食材を煮込んでいた。


 完全に“火加減職人”と化したエンデクラウスに、誰も文句を言う者はいない。


寸胴鍋の前で火加減を調整しながら、エンデクラウスは内心でため息をつく。

(この国最高ランクの男を、平然と火力係に使ってくるとは……ディズィ、ほんと刺激的だ)

 それでも――振り回されるのは、嫌いじゃない自分がいるのが悔しい。

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