54.ドラム缶風呂
それから数日、森林の開拓作業は順調に続けられた。
魔王城で錬成された魔除けのランタンはすでに何十本も設置され、森の奥へと続く道は、まるで王都へとつながる街道のように、少しずつ形を成していく。
飲み水の問題も、クラウディスの制御できる水魔法のおかげでほぼ解決し、焚き火もすぐに起こせるため、野外でも快適な作業が可能だった。
そして、何より驚くべきことがあった。
――アイスベルルク侯爵家から、援軍が届いたのだ。
魔王城の前に整列したのは、ベインダル・アイスベルルク直属の私兵たち。全員が無駄のない動作で整列し、背筋を伸ばして彼女に敬礼を送った。
その光景に、ディーズベルダは思わず目を見張る。
「まさか……お兄様が兵を貸してくれるなんて……」
唖然としながらつぶやく彼女の横で、炎の刃で木の根元を鋭く断ち切っていたエンデクラウスが、さらりと笑みを浮かべる。
「言ったでしょう。お義兄様はディズィのことが――大好きだと」
軽口に聞こえるその言葉には、少しだけ本気の響きが混じっていた。
木が倒れる音が響く中、ディーズベルダの腕の中に抱かれたクラウディスが「みぅ!」と元気に声をあげ、小さな両手をぱっと開いて水を放出する。
紫炎で焼かれた木の根元に、ぴたぴたと水が流れ、ほのかに立ちのぼっていた煙がたちまち鎮まった。
「いい子ね、クラウ」
頭をなでてやると、クラウディスは誇らしげに胸を張って笑った。
周囲では、アイスベルルク家の私兵と、アルディシオン家の騎士たちが協力して切り倒された大木を運んでいる。
皆、普段は剣を携え、貴族の命令に従い動く精鋭たち。
(本来なら……剣を手に、戦場で名を馳せるような人たちなのに)
その精兵たちが、今は土と汗にまみれて、黙々と材木を運び、整地作業に当たっていた。
(なのに、誰も文句ひとつ言わずに……)
その光景に、感謝と共にほんの少しの申し訳なさが胸に広がった。
けれど――ふと、違和感がよぎる。
(……あれ?)
よく見ると、木を担ぐアルディシオン公爵家の騎士の背後で、アイスベルルク侯爵家の騎士が同じサイズの木を、ほんのわずかに早く運び出す。
すると、負けじと隣の騎士がさらに太い丸太を肩に担ぎ上げて歩き出し――
(……これ、もしかして張り合ってる!?)
「……ねぇ、揉めたりしないかしら」
小さくつぶやくと、すぐ隣で炎の刃を整えていたエンデクラウスが首を傾げた。
「え? 何がです?」
「騎士たちが……ちょっと張り合ってるように見えるのよ」
その言葉に、エンデクラウスはちらりと騎士たちの方へ目を向けて、すぐに笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。そんなことして喧嘩でも始めようものなら――首が飛びますから」
そう言って、親指をすっと下に向け、指で首を切る仕草をしてみせる。
「うっ……」
ディーズベルダは思わず息をのむ。思い浮かぶのは、鉄仮面の上官と不穏な処分命令――。
「そ、そうね……納得だわ……」
「互いに良い刺激になっているんですよ。どちらも負けず嫌いの精鋭揃いですから」
彼の軽い調子に少し呆れつつも、なんだか安心してしまう自分がいた。
――そして、日が暮れ、作業は一旦終了となった。
夜が深まり、森の中には静けさが満ちていた。
焚き火の明かりがぱちぱちと揺れ、仄かに暖かい空気が広がる。木々の間に簡易テントが張られ、そこから少し離れた場所に、ぽつんと一つ、金属製の大きなドラム缶が湯気を立てていた。
ディーズベルダは、そのドラム缶の中に肩まで浸かり、はぁぁ……と心地よさそうに息をつく。
(持ってきておいて本当に正解だったわ……)
これは、装置で錬成した“ドラム缶風呂”。
金属製の深い浴槽は保温性にも優れ、野外でもしっかり湯を張ることができる。
その周囲は、魔力で形成された氷の壁がぐるりと囲んでおり――
視線を遮りつつも、外の空気を取り入れることができる、特別な露天風呂空間をつくり出していた。
(これなら誰にも見られないし、安心して入れる……)
夜の森は冷える。けれど湯の温かさが、疲れた身体をじんわりとほぐしてくれる。肩を沈めながら、ディーズベルダは湯の表面に指先で小さな波紋を作ってみせた。
すると、氷の壁の向こうから、聞き慣れた声が届く。
「ディズィ、湯加減はいかがですか?」
「ちょうど良いわ。ありがとう、エンディ」
そう答えると、氷越しにふっと笑う気配が返ってくる。
「ははっ。俺の炎をこんな使い方してくれるのは……世界中探しても、きっとディズィだけですよ」」
その言葉に、ディーズベルダは思わず小さく吹き出した。
「それって……嫌味? それとも、嬉しいの?」
氷の壁の向こうで少しの間があって――
「もちろん、嬉しいに決まってるじゃないですか」
くすぐったいような、優しい声音だった。
ディーズベルダはほんのり頬を染めながら、再び湯の中へ沈み込んだ。
(全くもう……この人、本気なのか冗談なのかわかりづらいんだから)
でも、不思議と心はあたたかい。
開拓の途中で、森の中。夜の冷たい空気の中で、湯気に包まれながら――彼女はふと、贅沢な時間だと思った。
「ねぇ、エンディ。あとどれくらいで……見られるかな? 海。」
ぽつりと呟いたその声は、自然と胸の奥からこぼれていた。
見張りとして氷の壁の外に立っていたエンデクラウスは、風に揺れるマントを翻しながら、優しい声で応える。
「……既に十日は経過しています。おそらく、あと二、三日もあれば……森の開けた先に、青い水平線が見えてくるはずですよ」
「そっか……」
ディーズベルダはほっとしたように目を細め、また小さく肩を沈めた。
熱い湯に温められた身体が、ようやく心まで緩んでいくような感覚に包まれていく。
(海……見られるんだ。ほんとうに)